10 日野宿〜横山宿    歩行地 図
 府中本町−大国魂神社−高安寺− 谷保天神−国立−日野橋  6.2km

10日野宿
宿場町として整備されたのは1605年(慶長10年)のことで、八王子宿を整備した大久保長安手によって開かれている。宿場町は物流の拠点であるとともに軍事的な拠点でもあり、軍勢が一気呵成に攻め込めないよう宿の出入口を直角に曲げて作られていた。その名残りが現在も見られる。本陣跡には本陣としては東京都内で唯一遺された当時の建物が建っている。
 本陣1 脇本陣1 旅籠20

 2006.11.05の続き
 立日橋を渡って日野市へ入る。右側の公園は市民の森公園。右へカ−ブして行く宿場特有の道筋。左側には大きな旧家らしき建物が並んでいる。旧名主の佐藤家かもしれない。曲がってすぐ交差点。左折するのが川崎街道。
、角に道標が高幡不動への行く道標。高幡不動はこの先の浅川を渡った所にある有名な不動様です。

■本陣跡
 日野本陣は嘉永2年正月の大火で母屋は焼失。現存の者は佐藤彦五郎が文久3年に作ったもの。本陣には「佐藤道場」新撰組局長近藤勇や沖田総司が稽古に通っていたという。裏に観光案内所があるが戸が閉まり、入りにくい雰囲気でした。

■問屋場跡
 本陣の斜め左側、日野市図書館前が問屋場跡で碑が立っている。図書館はこじんまりとした図書館で、中に新撰組関係資料が展示されていた。新撰組にはあまり興味がないので通過する。

■八坂神社
、本陣から数百m進むと左側に八坂神社がある。八坂神社はスサノオ系の神社で、昔この付近の土淵と言うところで多摩川の洪水の後、淵に妖しい光が数夜に渡って見えたので、故老が拾い上げると、金色燦然と輝く牛頭天王の神像であったという。その像を祀ったのがこの神社の起源で寛政十二年のもの。本殿の彫刻が見事であると本陣の壁にポスタ−があったので見たいと思ったが、覆堂で守られ、七五三の祝詞中で入れなかった。

■宝泉寺
 街道はJR日野駅手前から左へ曲がりから斜めに駅を横断するのであるが、不可能でしたので、手前から右へ回り駅右側へ出る。その手前にあるのが宝泉寺。
■坂下地蔵堂前の石仏。
 縄大権現の地蔵堂の隣にある、坂下地蔵堂の前の石段に石仏が並んでいる。この地蔵の前が甲州道中、西の出入り口に鎮座して、ここを通行する旅人を見守り、坂下地蔵として親しまれた。本来この前の道が甲州街道でJRの線路により分断された。

 駅の右側は大坂といい、急な坂でした。この先はずっと現甲州街道と一緒に進む。右側は日野自動車の工場。左側にはコニカミノルタの工場がある。昔から持っているカメラがミノルタであるので愛着がわく。しかし日野工場の中に上人塚とか、ミノルタの中にも遺跡があるらしいが、工場の中だし見ることができない。せめて案内板くらい設置してもらいたいものだ。八王子へ入って国道16号のガードをくぐる。くぐってすぐ細い道へ入るのが旧道。入ると旧道らしく馬頭観音の像が立っている。すぐ先は大和田橋である。八王子宿の入り口になる。

■大和田橋焼夷弾の碑
 橋のたもとになにやら案内板がある。こういうのは大事であるので記録しておきたいが、汚れて写真が取れないので転写。
焼夷弾・弾痕の保存について

  八王子市は太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に、米空軍のB29爆撃機  
 180機の空襲を受け、約450名が死没、2000余名が負傷し、旧市街の約80%の家屋が消失する
 被害を受けました。そのとき多くの市民が大和田橋の下に避難し、尊い命が助かりました。
  大和田橋の歩道上には、この空襲の時投下された焼夷弾の跡が17箇所残っています。
 車道の部分は過去の補修により、弾痕は残っていませんが、現在歩道上に残っている弾痕の
 数から推測すると橋全体では約50個以上の焼夷弾が投下されたと思われます。
 建設省相武国道工事事務所では、この大和田橋の補修j工事にあたり焼夷弾の弾痕を保存し
 太平洋戦争の痕跡を永く後世に伝えるものです。 弾痕の保存については、上下歩道上各1箇所は
 透明板で覆い、他15箇所は色タイルでその位置を示してあります。
                                      平成9年10月
                                      建設省関東地方建設局
                                      相武国道工事事務所
しかし渡る際注意したけど、痕跡はよくわからなかった。橋を渡って右に折れていくが、八王子(横山宿)である。次回は八王子から始める。今回いろいろ横道へ入り。歩行距離24.0kmでした。

 

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