2蕨宿から浦和宿へ  歩行地 図
蕨宿入口−歴史民俗資料館−錦町−焼米坂−調神社−浦和 5.3km
板橋しゅくの絵2 蕨宿
 日本橋からの距離は4里28町(18.7km.)。京都から江戸の入る場合「戸田の渡し」の手前にあるので川が増水すると「川止め」となり、当宿に逗留せざるを得ずそのため比較的大きな宿場であった。2006.10.21再訪しました。

本陣1 脇本陣2 旅篭54

旧家蕨入り口■蕨から南浦和
●蕨宿入口

 国道17号線を戸田橋で渡り蕨市に入る頃、左へ曲っていくが、蕨宿は真っ直ぐ先にある。蕨宿本陣跡、脇本陣跡などがある。また、市立の歴史民俗資料館などもあり、比較的よく整備されている。古い家もちらほら残っており、歴史が有りそうな看板が掛っている薬局もあった。

蕨歴史民族資料館蕨本陣●蕨市歴史民俗資料館
   蕨宿と、幕末から昭和20年代にかけて盛んに行われた綿織物業について中心的に紹介している。旅籠や商家、本陣上段の間の一部の復元など、当時の様子を再現。
●蕨宿本陣跡
 連結して隣が本陣跡。「中山道蕨宿」と刻まれた標柱が建っていて、復元された本陣の門がある。 本陣跡は一の本陣と呼ばれた岡田加兵衛本陣の跡で、左隣が資料館。

蕨城蕨城●蕨城跡
 本陣跡から右手方向へ入っていくと蕨城跡がある。南北朝に渋川氏が居をかまえ、大永4年北条氏綱によって破壊され跡地に家康が御殿を置いたということ。今は掘り割りと土塁の一部分が残るだけ。公園になっているが、蕨市の市民会館が建っている。

和楽備神社●和楽備神社
 その城跡の一角にある。10月再訪したが七五三のお参りが結構きていた。社伝によれば、室町時代に蕨を所領とした足利将軍家の一族、渋川氏が蕨城を築き、その守り神として八幡大神を奉斎したのがはじまりで、江戸時代には「蕨八幡」、「上の宮」と呼ばれ、「中の宮」(氷川社)、「下の宮」(氷川社)と共に蕨宿三鎮守として、重きをなした。三学院末成就院が別当として祭祀を掌ったあるという。

子育て地蔵三学院六地蔵●三学院
 金亀山極楽寺三学院という。相当大きな寺で。本尊が十一面観音と言うが見ることができない。仁王門脇の小屋の中にあるが子育て地蔵が有名。脇に六地蔵、目疾地蔵なるものもある。

17号合流点中山道ふれあい広場蕨はね橋●はね橋
三学院を出た街道裏にあるもので飯盛り女の逃亡を防ぐ為と言われる。昔は旅籠全部にあったと言われる。しかし再訪時土曜日だったので巻き上げられて探すのに苦労した。前が暗渠になっていたが壕になっていたのだろう。
●中山道ふれあい広場
宿終わりの所にある。蕨宿紹介の看板と公園になっており、姫道中のタイル絵が飾ってあり、火の見やぐらに摸した時計が設置される。
■17号と合流点
旧道はまっすぐ、左手に旧家が残っている。

宿の食事■宿のお食事
 江戸時代の旅籠で出される食事のメニューはどんな物かわからなかったが、資料館に模型が展示されていた。蕨宿で出されていたものである。麦飯と味噌汁、野菜の煮付けと卵及び竹筒に入ったお酒で当時としてはご馳走なのかどうかわからないが、普通の旅人にとってはご馳走ではなかったかと思う。

17号を越え浦和市錦町へ入る。歩道がなく歩きにくい道である。外環状道路を越え六辻で再び17号と合流する。浦和根岸で武蔵野線を越すがここで中山道一回目を終わる。南浦和より帰宅。                                                 2006.4.23 キロ数23.6km
焼き米坂2回目 2006.6.25
南浦和へ行き、前回の地点まで移動。
■南浦和から浦和
●焼き米坂

  武蔵野線を越した坂が焼き米坂。茅葺きの茶店で「名物新やき米」の看板を下げ、親父が米を炒り、女房が炒り米を臼に入れて杵でつくをいう風景があったという。

調地蔵鳥居調神社のうさぎ狛犬調神社拝殿浦和に向けて歩く。すると有名な調神社(つき)の森が右手に見えてくる。
 ●調神社
 調とは「租庸調」の調のことで朝廷に納める税金のことで、いわゆる調布のことである。武蔵国の調はここに集められ、この神社はその倉庫脇に建てられたとのことで歴史は古い。その後、「つき」を月信仰と結びつき、月神社とも呼ばれた。そこで月の連想から兎のお出ましとなり、狛犬ならぬ狛兎であり、いろいろの所にうさぎが使われている。またここの鳥居は笠木がないが調布の搬出に不便であったからということである。ここをすぎるとまもなく浦和駅前、浦和宿の始まりです。

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