001 白河から笠石宿へ   歩行地図はこちら
 白河駅-女石-根田-小田ノ里-太田川-踏瀬-五本松-大和内-新町-矢吹-久来石-笠石-鏡石駅  21.2km
1白河宿
 五街道の一つとしての奥州街道の最終の宿駅であり、青森に向かう奥州奥街道の起点でもあった。白河の歴史は古く、5世紀には古代の白河の関が置かれ、蝦夷に対する押えとされた。寛永4年(1627)には丹羽氏が初代白河藩主として10万石を与えられて白河藩が成立し、その後藩主は煩雑に入れ替ったが、特に有名な藩主だったのが松平定信である。 本陣1 脇本陣2 旅籠35

  2018年11月7日
■白河駅~本町 (画像をクリックすると拡大します)
 2010年10月に奥州街道を歩いた時以来の再訪となりました。ここから女石まで復習の感じですが、まず正式な奥州街道の終点女石へ向かいます。
  8時20分過ぎ●白河駅に到着。 本町通へ出るとまず左手にポケットパークが作られ、奥に●脇本陣栁屋旅館跡があります。明治天皇行在所跡という看板が立っている。天皇が泊った蔵座敷や御膳水跡が残り、また戊辰の役の際の新選組の宿営地でもあった。 その前面に●本陣芳賀家跡がある。現在は「堀川印刷所」となっている。  芳賀左衛門家が代々本陣を勤め、明治9年、明治天皇の東北巡幸の際に、ここで休憩されている。 その先右手に旧民家風な建物が改装されて●コミュニティ・カフェ EMANONという施設になっていました。    8:45

■本町~女石
 その先左手の●大谷忠吉本店は清酒「白陽」の醸造元で1879年(明治12)創業。 萩原朔太郎の妻美津子の生家の地としても知られている。 その先の和菓子の●玉家。 1863年(文久3)の創業。白河藩主御用達の店。 その先右手、交差点脇に立つ民家は●岩淵悦太郎生家跡という看板が立っている。 酒造業を営む「岩淵屋」で生まれた国語学者ということでした。 
 道は角を左に曲がり、東北線のガードをくぐる。 途中白河だるまの製作所が2軒ほどあったりします。 田町大橋を渡り、聯芳寺を過ぎると右へ曲がっていき●切り通しの坂に出ます。 大抵このような切り通しの上を旧道が通っており、地蔵や回国供養碑が残っているそうだが、結構難儀をしたのではないかと思います。   9:10

■女石~国道4号
 切通しを過ぎると国道4号手前で●2分岐に出会います。右に行くのが奥州道中で、直進するのが会津街道。この分岐点の左手に●仙台藩士戊辰戦没之碑がある。戊辰戦争で官軍と東軍とで激戦が展開された。その時に戦死した供養碑が建っています。
 分岐点から右に少し行った所に●遊女志げ女の碑があります。越後三条生まれの志げ女は、幼少の頃白河の坂田屋で育てられ、性質が良く人に愛されていた。その後客を取る様になり、戊辰戦争の時、ある誤解から 会津藩士により殺害された。それを知った遊女屋の下男がここで会津藩士を殺害し、仇を討った。戦争の悲劇の一駒であった。 その先で●国道4号線に合流します。 正面に見える時計台のある風情ある建物は自動車教習所の宿泊所とか。   9:16

 ■国道4号~根田
 国道を右へ少し進み、きれいな植木のある所を右へ入ると「大清水」という地名になる。かって江戸時代に以来の飲料水が涌いていた所で、跡あたり に●そば屋さんが立っているのが仲々の風情で辺りに 「上水道紀念碑」や馬頭観音などがいくつか散らばっている。 その先が根田宿だけど、その前に左へ行って国道を渡った所にある●安珍の里へ寄ってみました。娘道成寺で知られる清姫の相手方である安珍の墓にちなむ場所で、高台に●安珍堂が建っています。案内板によると中に安珍像があるらしいのだけど、カギが掛かって見れないので、HP(http://shirakawa315.com/sightseeing/post_324.html)によるとこんな感じ。 安珍の墓そのものはお堂から500m位西ということで寄りませんでした。
 根田宿の入口に戻ると右手に大きな●根田醤油合名会社があります。創業200年の老舗。郵便局も兼ねている。  9:40

 2 根田宿
 白河宿から1里。 東側の家続きになっている新小萱村と2村合わせて根田宿と呼ぶ。東西3丁25間。本陣などは無く伝馬も常備されていなかった。

■根田~小田川小
 ●根田宿に入ります。真っ直ぐに民家が並び宿場の面影はありません。戊辰戦争で宿場が焼け、江戸時代のものはほとんど残っていないと云われます。●宿場の端で橋を渡り、すぐ先を左に進みます。やがて●国道4号線と合流して350m進んで●左へ折れ「泉田」に入ります。 入口左手に鉄の寒暖を上がる「愛宕神社」がありますが、廃社の様になっており、参拝は難しい。右手の二三夜塔などを見ながら進むと●右斜めに進む旧道が現れ右に曲がります。直進する舗装路は明治以後の旧国道らしいです。     10:07

■小田川小~小田ノ里
 右へ入ると小田川小学校の先で●農道となり、道なりに進むと国道4号へ出ます。旧道の方は跡形も見えなくなり、国道の切り通しの上に出ていたと云われます。 国道に出てきた旧道は国道を越えて右側へ出て、国道に沿っていたと云われるが、国道から脇へ出ることは不可能で、しばらく国道を進みます。 するといかにも●旧道への脇道入口が見えてくるので、横断して脇道へ上がります。 ここが旧道の最後の方の一部分と思われました。 ●国道に沿った旧道は200m程で再び国道と合流します。合流地点の●小田ノ里交差点を横断して右手に進むとその先が小田川宿になります。   10:27 

3 小田川宿
 根田宿から27丁(2.9km) 小田ノ里とも呼ばれ、白河藩領だったが、一時期榊原領になり、文政3年(1820)以降天領となった。本陣、脇本陣共無く、村の中央部の庄屋宅が問屋だった。

■小田ノ里~八幡前
 入口左手に●小野薬師堂があります。  創建は大同年間(806~810)と伝わる古社。 小野小町伝説の地で、・・・小町が故郷である秋田に帰郷する際、小田川付近で病にかかり、薬師如来に病が治るよう祈願したところ、全快して秋田に帰ることができたという。・・・ 境内には戊辰戦争の犠牲者を弔う為の「戊辰戦死供養塔」や二十三夜塔など多くの石仏や石塔がありました。 ●小田川宿の町並み。 宿場の雰囲気は残っていない。人出がないものの門構えのある旧家や白壁の蔵のある旧家などが散在します。中央部左手に大きな屋敷が現れるので、庄屋跡と思われたけれど、案内板も何にもないのでわかりませんでした
 宿を出て、「八幡前」というバス停の所に東北自動車道っをくぐるトンネルがあり、そこに「八幡神社入口、岩窟切岸城址」とある石碑が立っています。岩窟切岸城址というのが珍しいと思って、くぐっていった先、トンネルをくぐったすぐ右手に●八幡神社があります。後背地が●垂直の切り立った崖でその上に岩窟切岸城という山城があったのだろうかと思いました。 大岩に浮き彫りされた石仏があったりして珍しい光景でした。  10:57

■八幡前~太田川
 バス停に戻り先に進むと、左手の少し高くなった雑木林の中に●武光地蔵と称される高さ230cmもの地蔵が見えます。 江戸時代、この地を訪れた井原西鶴は「夜毎に火焔を発して恐れられていたが、飛脚が袈裟掛けに斬ると何事もなくなった」との伝承を記したという。 但し、資料本では他説が紹介されている。
 地蔵を過ぎるとまもなく太田川宿に入ります。● 太田川宿の町並みはごく普通で、ほぼ真っ直ぐに350mほど続いている。途中左手に敷地の大きな屋敷があったが、ここが旧検断家らしいと思いますがわかりません。 街道は愛宕神社のある山で直角に曲がります。正面の愛宕神社は180段もの急な石段を上りますが、息を切らす割には●こんな小さなお社でした。 少し先で●左に曲がります。 直進すると国道4号に出ますが、これは明治になって開かれた道と云います。   11:45

4 太田川宿
 小田川宿から13丁 1.4km 宿場の長さは南北350mに渡る。中央部左手に旧検断の家がある。 戊辰の役で全焼している。

■太田川~新池
 ゆるい坂道を登っていくと左手に●湯殿山碑や石仏群が現れます。 ●左手に池がある道をユルユルと進みます。。
やがて四ツ屋地区に入り、国道4号に近いT字路の手前、●民家の裏を抜けて新池に通じる山道の様な道がある。これが奥州道中がそのまま残っている所であると思われるので、そこへ入って行きます。 その先の左手には新池という大きな池があり、道沿いに●真っ赤に染まる紅葉は実に綺麗な風情でした。国道4号線を横断すると次の踏瀬宿になります。    12:06

5 踏瀬宿
 太田川宿から20丁 2.2km 全長500m。慶長年間に北の旧地から民家を移住させて成立。 中央部に検断の家が残る。

■踏瀬~五本松
 宿の入口左手の●愛宕神社の石段脇に庚申供養塔や二十三夜塔、飯豊山碑などが並んでいる。●踏瀬宿も宿場の面影は感じられない。宿場中程の左手に検断屋敷の「箭内家」があったと云われるのが、よくわからなかった。
 宿場を抜けて進むと、左手に「踏瀬旧国道五本松」の案内板が立っていて、その先に●五本松の松並木が続いている。 この松並木は白河藩主・松平定信の植樹に始まり、明治18年ごろに補植したという。
 その先「あぶくま高原道路」手前、右手に●卯右衛門茶屋と文七茶屋跡の案内板が立って、脇に古井戸が残されている。卯右衛門茶屋は「馬宿」と云われて、井戸からくみ上げる水が名物で、「丑宿」と言われた文七茶屋は眺めがすばらしく、休み所として繁昌していたと云われる。  12:40

■五本松~大和内
 県道283号の十字路から先は明治に開かれた旧国道であるという。 ここら辺りの旧道は右手国見山の中腹を経て急坂を下るルートだったといわれる。 右手の山の中腹辺りを眺めながら、しばらく進むと、矢吹町上水道配水用のタンクが現れた。そこに「戊辰戦争関門跡」の看板が立っていました。 看板の脇に細い石段もあって、上がれそうな感じがしたけど、滑りそうなので止めて、その100m位先にゆるい坂があるのでそこを上がって見ました。 すると●旧道らしき道が現れて、藪こぎするまでもなく進むことができます。ここは旧国道の右手高台を進んでおり、やがて●旧国道の出口に到達しました。すると脇に●大和久宿、旧奥州街道→の案内木柱が立っていて、歩いて来た道が旧奥州街道だったのでした。大和久の方から来るとわかるのだけど、踏瀬側の出入口はどこなのか疑問が残ります。    13:10 

6 大和久宿
 踏瀬宿から23丁2.5km 全長300m。元和年間(1620頃)近くの堀越地区引移して成立。全長300m何度も大火に遇い痕跡は残っていない。

■大和内~幸福寺
 ●旧国道が大和久宿で、現在の地名は大和内。 何度も大火にあったということで往時の面影は見られません。左に●山王寺があり、 境内には樹齢200年、地を這うような姿から「臥龍の松」と呼ばれた黒松があるというので、どんなものか楽しみにしていたら、山門の両側に赤茶けた松の木が2本だけ。 地を這うような姿は全く想像できません。色々調べたら東日本大震災で枯れ死したそうです。残念でした。 その先鳥居の脇に●「中畑新田宿、大和久宿」という標柱が立っているので、大和久宿はここまででしょう。 中畑新田宿とは現在では連続していて境目はわからないと云います。右手奥、線路脇に●大山祇神社がありました。   13:26

7 中畑新田宿
 大和久宿から11丁 1.1km 大和久宿からの境目は現在ではわからなくなっている。慶慶長年間蒲生氏の命令で中畑村の民家が大和久村の赤坂に移り宿駅となった。元和6年現在地に移って中畑新田宿になった。
■幸福寺~水戸街道追分
 標柱の向こう側に●天台宗幸福寺。割と派手めな寺で現代的。 そのすぐ先交差点の左手に幸福寺別院というのがあって、入口左手に●本内幸三良直久墓という戊辰戦争の折、5人討ち取り戦死したという人物の墓がありました。 ●中畑新田宿に入ります。大和久宿と連続していて境目がわからず、脇街道である常陸街道の起点として栄えたこともあったらしいが、ここも火災にあって宿の面影は残っていない。 その先の●十字路は常陸街道との追分で、角に●文化8年(1811)建立の常夜燈があります。東1kmの八幡神社に移設されていたものが平成27年に旧地に戻って来たそうで良かったです。   13:50 

8 矢吹宿
 中畑新田宿から11丁 1.1km 天正6年(1578)に宿駅として開かれ、同18年に町割りが行われた。 長さ7丁17間(747.5m)。 道筋に宿場の面影は残っておらず、本陣跡の門も現存していたが失われが、慶応創業の造り酒屋や大正の洋館が残るなど落ち着いた雰囲気が残っている。

★矢吹町の町並
 町並は矢吹町に入ります。宿の入口がわからないので、●枡形っぽく曲がっている所を入口と見なして進むと、商工会の建物の前に●ゆるキャラの「やぶきじくん」というのが立っていました。なんでも町名の「やぶき」と「きじ」を合わせて誕生したらしいです。 ●矢吹町の町並。宿場の面影は残っていないが、造り酒屋大正の洋館が残っていたりして落ち着いた感じは残ります。 左手奥に●矢吹神社。 スサノオノ、ホンダワケノミコトのいつもながらの祭神の外、珍しく「鎌倉権五郎景政」も祀る。景政は後三年の役に従軍した際、右目に矢を受けて、三浦為次が景政の顔に足をかけて矢を抜こうとしたところ「無礼者・・・と烈火の如く怒った・・」という逸話で有名でしょう。   14:08

 駅に通じる通りを越えると、右手に●造り酒屋・大木代吉店があります。 創業慶応元年(1865)に味噌醤油業から独立して創業したと。戊辰戦争では宿場も火災にあったが、創業者の代吉は酒蔵を守り抜き、奥州列藩同盟の落武者たちに酒を振る舞って励ましたと語り継がれている。 その向かいには●大正9年に建てられたという洋風建築の大正ロマン館ががある。元は産婦人科医院で、一階がカフェで2階は多目的室となっている。 その先、左手に●本陣跡の標柱が出ているのだけど、奥の●本陣跡には当時の門が残っているはずのところ、何も残っていなかった。 その先、北の石地蔵と呼ばれる大きな地蔵尊があるというので注意していたのだけど、なぜか見逃した。その先も会田病院の旧館などが残っていると思ったが、取り壊されて駐車場に変わっていました。●「北町」信号で、国道4号と合流します。  その先は久来宿   14:40

9 久来石宿
 矢吹宿から23丁 2.5km 慶長年間(1596~)北西2kmの小栗山にあった民家を移して作られた。道の両側に「西側」と「東側」の字名が残ると云われる。 宿場だった趣は残っていない。

■矢吹~久来石
 「鏡石町」に入って、500m程先で●左斜め前方に旧道があり、久来石宿に進みます。 ●久来石宿の町並。 ここも宿の面影が残らず、人気が全く見られなかった。街道を挟んで「東側」「西側」という字名が見られるらしいが、地図では載っていないし、地名表示でもわからなかった。 左手に●旧養蚕農家の様な大きな家が見られた。 久来石ポケットパークに「牧場のあ-さ- という鏡石町公式キャラクターの看板があった。  宿を抜けて右へカーブして、●久来石交差点で国道4号を越え、笠石宿へ向かいます。  15:20

10 笠石宿
 久来石から13丁 1.4km 慶長年間(1596~)森宿、行方野、細谷、笠石新田の4村がこの地に移って成立した。

■久来石~笠石
 笠石地区に入ると、右手に●熊野神社があります。この付近が宿の入口にあたる。●笠石宿もあまり交通量の多くない落ち着いた町並みと思います。。「西側」というバス停があったので、ここも久来石同様、両側に東側、西側という地名があるのかもしれません。  ここで国道横のイオンスーパーセンターでスマホの部品を買ったので少し時間を食いました。 宝泉院の先、右手の●民家の庭●明治天皇御駐輦之所の碑が立っています。15:55

■笠石~鏡石駅
 中町に入って、コンビニの裏に●笠地蔵があります。●お堂の中が真っ暗で中に何があるのかわからないので、フラッシュを焚いて撮ってみたら、左側に笠を被った板碑に腰巻きの様な布が巻き付けてある。地蔵と云っても普通の頭の丸い地蔵ではなく、笠を被った板碑とは珍しい。お堂の裏手に●文和碑伝型板碑というのがあって、これも笠を被った板碑でした。    
 さて4時を過ぎ暗くなってきたのでここで本日は止めにして●鏡石駅近くの第一ホテルに泊まりました。 ちなみに駅は小さくて見えず、大きな建物は鏡石コミュニティセンター 。  16:30

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