003 郡山宿から二本松宿へ        歩行地図
 郡山駅-大町-富久山-福原-日和田-高倉-太郎丸-本宮-杉田-大壇-若宮-二本松   24.8km
15 郡山宿
小原田宿から15丁(1.6km)。中世には交通・経済の要衝となっていた。1604年(慶長9年)に徳川幕府の命により奥州街道が開設され、開宿したというのが定説である。街道は阿武隈川沿いにあったが、慶長年間(1596年〜1615年)西寄りに改修・整備され宿駅が置かれた。戊辰戦争で町の8割が焼けたと云われる

2019年3月28日
■郡山駅~大町2丁目
 東北新幹線8時30分到着。支度を整えて●ホテルビューアネックス角の交差点から出発します。 ホテルの建っている場所は本陣があった所。 歩き始めてすぐの二股に●大町道標があり、右側が文政8年(1825)のもので、「従是三春道」と刻む道標。 左側が「右奥州街道 左會津街道」と刻まれ、會津街道は明治19年新設で、道標は大正3年ものです。 
 その先左手に●阿邪訶根(あさかね)神社があります。康平年中(1060年ごろ)、伊勢の国の阿邪訶(あざか)より猿田毘古命の分霊を祀り、「道祖神社」として創建されたのが始まり。 境内に●石造法華曼荼羅供養塔と石造浮彫の阿弥陀三尊塔婆があります。 それぞれの説明板を読んでも、摩滅してよくわからない。 大きいのが供養塔で、阿弥陀三尊塔婆とはどれだろうと思って、よく見ると柵内左手下に置いてある、浮彫像がそれらしいかな思います。  9:08

■大町2丁目~富久山久保田
 ●街道は安積橋を渡り、その先で磐越西線の高架下をくぐります。左手高台に●日吉神社がある。境内に●福島県指定文化財の石造塔婆が16基集められていました。 正安6年(1301)のものが1基。文保2年(1318)のものが1基。 関東の緑色のものとはちがい、安山岩質凝灰岩製で東北型といわれるもの。
 また●伊東肥前の碑というのががあります。俗に仙台佛と言われ、天正16年(西暦1588年)、 伊達・佐竹両軍が窪田城(久保田城)で相対した際 、伊達政宗の臣伊東肥前重信は手兵30人余騎と共に 伊達政宗を救い戦死したので、伊達家ではその後 参勤交代の途上必ずここに籠をとめて香花を手向けたと言われる。 又ここは合戦の際伊達軍が本陣を構えた場所だといいます。   9:26

■富久山久保田~福原
 ●富久山という地名の所に入り。豊景神社の向かい側、街道右手は一里壇と呼ばれ●「史蹟一里坦阯」碑があります。一里塚の跡形は何もありません。 ●豊景神社は、源頼義、義家が前9年の役でこの地を通過した際、建立した小祠が起源だという。 その後、後三年の役で再び訪れた源義家の家臣、鎌倉権五郎景政により凶作の元凶であった竜蛇が退治されたため、これに感謝して、天養元年(1144)に景政が合祀された。 ●福原」バス停あたりから福原宿が始まるといわれます。 宿は宝沢沼あたりまで続いていたということだが、街道筋の面影は何も残っていない。 道はほぼ直線で枡形も無かったようだ。     10:00

16 福原宿 
 郡山より25丁 2.7km、 天和2年~元禄4年(1691)にかけて、阿武隈川西岸の元福原村が移住して形成された。家屋138、問屋2

■福原~牛ヶ池
 交差点を杉田先で左手に入ると●宝沢沼に出ます。。宝沢沼は寛永4年(1627)から4年をかけて、築造された灌漑池で、現在浚渫工事中でありました。
 せっかくなので池の周囲を進んで行くと、北東の角に●水神宮が立っています。 鳥居の右手の坂を下って県道へ出て、高江橋を渡って進むと徐々に●奥州街道街道松が見られるようになります。慶長9年(1604)、家康の命によって奥州街道が整備されたときに造られたもので、何代か植え替えられているようです。
 「牛ヶ池団地入口」バス停の先の右手に●「牛ヶ池の碑」があります。 文化年間(1804~)に、この辺の開拓を行い田畑が出来上がったことを記念しての石碑です。     10:17

■牛が池~日和田橋
 牛ヶ池の先の●二股は左を取ります。 その先、左手に●赤いエプロンを掛けたお地蔵さんと石塔群がある。 その先は下り坂となり、●街道松が点々と見えてきます。 日和田駅も近くなり、区画整理された住宅地なってきました。 やがて東北線を越える「奥州松の大橋」という跨線橋を渡りますが、旧道は左脇を進み、●日和田橋を渡るルートでしたが、踏切が廃止され旧道は失われたようです。 踏切を渡った先が日和田宿になります。   10:35

17 日和田宿
福原宿から23丁(2.5km)。 南北朝の文書に見え、奥州街道整備後、西方の宮下、八丁目方面より移住して形成。西方寺付近まで約500m 家数169

■日和田橋~日和田
 「奥州松の大橋」という跨線橋を渡り、途中で●下を見ると、南北に続く県道の両側が「日和田宿」で、旧道は左手下から県道へ出ていることがわかります。
 ここも宿の面影はあまり残っていないが、元茅葺きをトタンで覆った旧家がありました。 左手に八幡神社がありますが、結構な石段で疲れそうなので止めました。
 宿の終わり頃、左手に●蛇骨地蔵という何とも不気味な名前の地蔵堂があります。 養老7年(713)の開山で、現在の建物は享保3年(1718)の再建になる。蛇骨地蔵には恐ろしい伝説が残っており。長いので ・・こちら・・    堂の裏にある●三十三観音は人身御供にされた33人の娘を祀ったものという。
  境内に●「西方寺の傘松」と呼ばれる見事な松があり、郡山市指定天然記念物となっている。天明6年(1786)建立の書家橘定立の顕彰碑に枝が寄りかかり、「ひじかけ」の松として独特の趣を醸し出している。     10:50

■日和田~磐越自動車道
 その先にも三本松にもその名の通りの●奥州松が残っています。 その先右手は安積山公園が広がっています。 古くから歌枕として知られた「安積山」だとされる山およびその周辺が公園として整備されている。 園内には●芭蕉句碑や万葉歌碑があります。
 その先、磐越自動車道の手前、右手に●「明治天皇駐蹕御遺跡碑」と手前に●戊辰戦争で戦死した川村今助墓(左)と石澤勝之助墓がありました。   11:32

■磐越自動車道~高倉
 旧高倉村い入ります。ここにも●奥州松が残っていました。 説明板もありました。 この先の旧道は県道から外れ、東の山裾を通り、「にごり池」付近に出て、県道を横断する形だっととある。このルートは消えていて県道を進むしかありません。 右手に●「にごり池」があり、その先の●その昔茅葺きだったと思われる大きな旧家の前を左折して、●高倉宿に入って行きます。 高倉宿は高倉城の郭内に造られたと云われ、山清寺から鹿島神社あたりまでらしい。面影は全くありませが、西に本宮ICがあってアサヒビールの大きな工場があります。 12:10

18 高倉宿
日和田宿から1里(3.9km)。 高倉城の麓と五百川に挟まれた細長い土地に立地した宿場であり、山清寺から鹿島神社まで600m程の町並。

■高倉~本宮市村山
 その先、五百川橋を渡って仁井田地区に入りますが、この間の県道は旧道では無く、五百川橋も100m上流あったと云われます。
「コメリ」の先で●県道が右にカーブする地点、ここは本来真っ直ぐ行くのが旧道で、現在はフェンスで遮られ、水田の先に旧道が残っています。 迂回して旧道に入ると、左手に●申(さる)供養塔群がある。母の供養のために建てたもの、すべての人の極楽往生を願って建てられたものなど正応4.5(1292頃)のものです。 旧道はこの先消えていて、県道へ合流するには左側へ迂回する必要があります。
 県道と合流したすぐ先、●旧道は右手へ入りますが、その左手に江戸中期●積達(せきたつ)騒動鎮定之碑というのがあります。寛延2年(1749)に二本松藩でただ一つ発生した百姓一揆で、農民の要求を藩に認めさせ、流血の事態を回避した「冬至彦兵衛」という人を顕彰したものという。 旧道はこの前の坂を上がって行きます。    13:06

■村山~太郎丸
 やがて●本宮市中心部へ近づいてきます。 宿の手前では阿武隈川に接近し、川岸を進んでいたというので、 一応「上ノ橋」手前で左折して、川岸を進みました。 川岸は護岸整備されて岸辺という感じでありません。 そこを進むと●観音堂の裏手に出て、県道に合流します。
 ●観音堂は安達33観音第30番札所で、「太郎丸観音堂供養塔」などが残っています。 説明板  元々観音堂は川の方を向いていて、明治の改修の際、現在の形にされたようです。
 ●観音堂の表側に出て、地形を確認すると、手前の県道は明治の新道で江戸時代には存在しない。 旧道は右手から出てきて、正面に曲がって行く。 すぐ先の薬師堂のあたりに本宮宿の南の枡形と木戸があったという。 左斜めに進むのが「会津街道」です。    13:25

19 本宮宿
高倉宿から1里11丁(5.1km)。 久安2年(1146)安達太良神社が鎮座した時に始まり、戦国期に宿が形成された。奥州街道・会津街道・相馬街道などが集まる交通の要衝で,須賀川宿と並んで福島県内では屈指の賑わいを見せた宿場という。天保9年の記録では本陣2 旅籠30,茶屋12,飯盛り女70人とある。

■太郎丸~本宮橋
 会津街道との分岐点に●「普度供養塔というのがあります。 普度(ふとく)はすべての者を救う「衆生済度」が仏陀を意味する「浮屠」を表していると考えられ、旅の安全を祈って建てられたもの。明治16年の道路改修までは、奥州道中と会津街道が分岐する観音堂北側に建てられていた。 その後平成22年に現在地に移設された。 道標を兼ね、正面に「右 あい津  普度供養塔 左 江戸」と彫られている。
 宿場内に入ると右手に●薬師堂があり、その境内には本宮における、戊辰戦争の碑や●本宮の名士の碑などがあります。
 宿場内を進むと左手に古民家蔵を利用した●Cafe蔵というのがありました。   13:45

■本宮橋~安達太良神社
 ●本宮橋を渡り、左折、右折と進んで北町本陣通へ入ります。 左手にものすごく古そうな且つ重厚な蔵が1軒。 その先、クロマツが立っている所が●本宮宿北町本陣鴫原家。その前に「明治天皇本宮行在所趾」の碑がある。
 その隣、左手奥に●●安達太良神社があります。 創建は平安時代で安達太良山の神々と大名倉山の神々を勧請し、里宮とした事が始まり。  近隣に散在する安達太良神社の総本宮であることから、「本宮」という地名の由来になったとされる。 ここも石段を上がって行かねばならず、くたびれますね。  山の頂上にあることから、眺めが大変良いです。      14:20 

■安達太良神社~杉田町
 街道はその先で左折し、堀切あたりでは県道の右側の高い所を通っていたというが、道筋は残っていない。 二本松市に入ると県道と重なります。●東北線を越えて坂を下がって行くと、●右手高台に薬師堂があります。石段途中に総ての病気を治癒するという霊泉があります。
 薬師堂の前の県道は新道で、旧道は円弧状に少しばかりの迂回路となります。 ここはすぐ県道に合流し、700m位で●南杉田宿に入ります。 街道の東側が東町、西側が西町でわかりやすい。 町並は静かで何も残っていません。杉田橋を渡り、東北線踏切を越えるて、右折すると●北杉田宿の町並みに入ります。  15:40

20.21 南・北杉田宿
本宮宿から1里18丁(5.9km)。 南北杉田宿で一宿の杉田宿としている説もある。南杉田宿は慶長15年(1610)までに成立していたと云われる。家数186。 北杉田宿には馬宿があるがに形成については明らかではない。家数158。

■杉田町~七夜坂
 北杉田宿の左手に●旧名主の市川家の屋敷跡があります。 宿を真っ直ぐ進むと国道4号に寸断されてしまう。 昔はここから七夜坂と呼ばれた坂を上がって濁池の西側の山に入っていた。 濁池は国道によって無くなり、坂そのものも国道により失われたと云います。 国道は通行量が多くてとても渡れるものではないので、左手の●ガードをくぐります。 くぐってすぐ国道に沿って進むと、左手の坂道が●現在、わずかに残る「七夜坂」という旧道の跡。 案内板がほしいところでしょう。 坂を上がると●藤原実方の七夜桜歌碑が立っています。 説明板  坂の先は廃道の様な状態だが、道は続いており、「エレポート」という会社の前で県道に合流できた。    15:55

■七夜坂~大壇
 この先は線路に沿ってしばらく行き、●道なりに左に曲がったすぐ先で右に曲がる。 道なりに進むと正法寺町となり、左手高台に●木登り地蔵尊がある。説明板 ●本堂の像がてっきり木登り地蔵かと思ったが、お堂の裏手の木の股に収められているとは・・気がつかなかった。
 ●正法寺町の中を進むと、国道459号線の高架下を通過します。 東北本線の向こう側は高台で、「大壇口古戦場」というので行って見たい気はするのだが、 疲れて跨線橋を渡って行く気が起きず、パスすることになった。 戊辰戦争の二本松少年隊もここで戦い、隊士の供養碑や少年隊を援護して戦死した2名を供養する「二勇士の碑」などがあるようです。    16:20

■大壇~若宮1丁目
 旧道は高架下を通過し、その先で丘の上に登るのだが、その道は消失しているので●階段を上がって進むようになっている。階段を登り●狭い路地となった坂道を下っていくと、●見晴らしの良い地点に出ました。  やがてT字路となるので右折して車道に出て左折、真っ直ぐ進むと●若宮1丁目の交差点に出た。 本当はこの先左手奥にある、二本松少年隊の墓や二本松藩主丹羽氏の菩提寺である 「大隣寺」、
若宮八幡宮などに行って見たいけど、足が筋肉痛でつま先が上がらなくなり、歩きづらくなってきたので、やむを得ずパスすることに・・・・
    16:45

■若宮1丁目~二本松駅
 交差点を右折し●宿場内を進む。 普通の町並で宿場の面影はないが、宿場としてはもっと先かもしれない。やがて●枡形の様な交差点を右手に進み、すぐ左へ曲がると●二本松駅前に出た。 本日はこれで終わります。 足痛ひどし。 宿は駅前のアーバンホテル。16:55
 北に広がる「霞ケ城」は前回大雨の中見学しておきました。

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