008 白石宿から岩沼宿へ
      その2                     歩行地図
 白石駅-亘理町-白石大橋-児捨川-宮-向山- 金ヶ瀬-大河原-韮神橋-船迫-槻木-玉崎-岩沼  32.96km
37 大河原宿
 金ヶ瀬宿から30丁(3.3km)   大河原は江戸時代は宿場の他に、米と特産の紅花の集積所としても賑わっていた。 また明治11年には柴田・刈田郡の郡役所が置かれ、仙南地方の中心であった。 

★大河原宿
 (前頁からの続き)
 如意輪観音堂の前を左折して、●大河原宿に入って行きます。 門構を備えた家やなまこ壁の蔵のある旧家がいくつもあり、街道の雰囲気が残っているので印象深い。 左手に●なまこ壁の蔵造りの旧家があります。 その先、右手にも●蔵造りの立派な家がありますが、この屋敷は「てとてと」という変わって看板が掛けてあり、・・・原発震災で放射能と向き合う暮らしを余儀なくされた私達…。この放射能時代を生き抜くために、宮城県南部で市民と農家のための放射線測定室開設です。愛称「てとてと」です・・・・・といいます http://sokuteimiyagi.blog.fc2.com/
 その先左手に●小さいが蔵造りで門構えのある家が1軒。  12:56

  右手奥の●繁昌院の南側に煙突のような高い塔は●明治天皇行在所記念碑。  普通の石碑ばかり見てきたが、この煙突のような形は初めて。 明治の行幸の折、大河原の高山家で昼食のため休憩された。 高山家当主高山開治郎氏が家の敷地に建てた記念碑を元の場所から北東約100m離れた現在地に移設したと案内板にありました。  その先 ●家並みは鋸状になっているのに気がついた。特に左側が顕著にわかります。 鋸状の家並みは中山道の坂本、甲州街道の韮崎などで見ているわけだけど、大名行列に関係あるとかいわれるがここもそうなのか、よくわからない。 大河原小学校の先で●枡形の様に曲がります。  13:10

■大河原~韮神橋
 元の道に戻って、右斜めに真っ直ぐ進むところ、左手奥に●古峯神社というのがあります。 祭神はここも日本武尊。 日本武尊が祭神というのがこのあたり多い感じ。 説明板  ダム工事で沈む所移転してきたという。
 大河原桜町郵便局前を通る道が旧道で、やがて道は●荒川に突き当たります。 昔はここに「にらかみ橋」が架かっていたようだ。 今は左の新韮神橋か右の韮神橋かどちらか渡らなければいけないが、 左の方が近そうだったので新韮神橋へ向かいましたが、これが間違いで、土手から直接橋に上がれなく、相当迂回しないと橋に上がれませんでした。
 橋を渡って国道を戻ると、土手へ下がる道があったので、土手へ下りました。 にらかみ橋のあったあたりへ行って見ると、なにやら●木製の橋脚が2本立っていて、橋の痕跡かと思ったりしました。 ●土手の旧道を進みます。   13:55

■韮神橋~西船迫
  韮神橋から国道渡って、韮神山の裾野に●史跡韮神山遺跡群」が移設されている。 韮神山は奇岩怪石の山で、文治の役の古戦場でもあり、その景観はここを通る多くの人の旅情を慰めたという。 芭蕉句碑、平安の歌人藤原実方の歌碑、三十三観音と遷大悲閣の碑というのが集められています。  説明板
 ここから先はバイパスの為旧道は消滅しているので、そのまま国道の左側を進みました。 信号を渡って国道の1本南側の道を進むと、左手に●2本杉の一里塚跡と●柴田町と村田町の町村境界碑が立っています。 説明板    
 北船岡を出ると、西船迫(にしふなばさま)に入り、西船迫交差点を渡ると、船迫宿となると思いつつ、どこが入口かわからず、●左に「大光院」があるあたりを入口ではないかと考えました。   14:38

38 船迫宿(ふなばさま)
 大河原宿から 1里12丁(5.2km)  船迫の地名は、奥州合戦の時、船迫長門という武将がここで鎌倉軍相手に奮戦したとか、 白石川がここで大きく蛇行して迫ってくる地形からとの説がある。  白石川が大きく湾曲していた形態に沿って宿が形成された。 

 ■西船迫~薬師堂
 左へ入って●大光院へ行ってみます。 手前に「船迫宿」の案内図が張ってありました。 それを眺めても船迫宿の入口はどこかはっきりしません 。大光院は1260年以上の歴史を持つ新義真言宗の寺院というが、本堂は新しい。境内が狭く写真に収めるが難しかった。災いを知らせるために水滴を発すると言われいる「汗かき如来」と呼ばれている鉄製の阿弥陀仏があるそうだ。  隣の神社は●熊野神社。 寺の境内から行けるので寺が別当を務めていたのでしょう。
 街道の先。枡形が二つ現れます。まず●第一の枡形を曲がると左手高台に阿弥陀堂があるようですが、そのまま通過。 その次の枡形を曲がって行くと、突き当たります。ここを右折して●白石川の蛇行の頂点あたりを通過します。  15:05

■薬師堂~白石川岸
 左手の高台に薬師堂があります。 そこから東南の方向に向きを変え、●山裾に沿ってほぼ真っ直ぐに進みます。 左手は「表蔵王国際ゴルフ場」。 その先で、国道4号を越えると「●奥州街道通り」という新しい標石がある。 左へ半円弧状に曲がると、船迫公民館があり、掲示板に「船迫百年」と書かて、明治、昭和36年、平成の人口の推移などが書かれている。
 その先は左手に国道4号、右手に白石川の土手の間を通る、車も少ない快適な道となりました。 右手に●「柴田町の一里塚」の案内板と「奥州街道 船迫内余川の一里塚跡」と刻む新しい石標があります。 一里塚は明治9年の太政官府で「有害無益塚丘」とされたそうで、これは知らなかった。  白石川の土手に上って、●白石川をしばし眺めました。 正面の山は何というのかわかりません。
 その先、国道をくぐるトンネルの脇に●河川測量基標という半分埋もれた石標があります。明治29年施工の河川法に基づき、測量のために立てたものといいます。   15:50

■白石川岸~槻木白幡4
 しばらく進み、左手●「くりえいと柴田」という施設の入口に●「距仙台(台は旧字)元標七里」と刻む里程標があります。 仙台まで28kmということ。  その先、●東北本線と阿武隈急行の二本のガード下をくぐる。 すぐ先、白幡橋の交差点で土手の下を左折し、道名が付いていないが、交通量の多い車道を進みます。左手に●八幡神社の赤い鳥居がありますが、社殿まで距離がありそうなので先に進み、槻木宿に入りました。   16:10

39 槻木宿
 船迫宿から1里12丁(5.2km)   交通の要所だった槻木は宿場町として整備され多くの商人な宿場関係者で軒を連ねたといわれる。   

■槻木白幡4~槻木上町
 ●槻木宿はほとんど面影は残っていないが有名な旅館が1軒残ります。 街道を進んでいくと●二股になり、左へ行くのが旧道。宿入口の枡形と云われます。 そこを左手に進むと右手の角に●逢隈旅館が。 往時は大茶屋と呼ばれて、今も現役の旅館として営業しています。 ・・といいつつ訪れたときは閑散として、営業中がどうかわからない位でした。 角を右に曲がり●上町から下町へ向かいます。 16:20

■槻木上町~四日市場交差点
   右手●門構えを備えた風格のある古風な蔵店は「北条事務所」と書かれている。敷地が後方に続き、相当の名家に違いない。
 その先の二股は左手に進み、(ここは地図をよく見ると、直角に左折、右折しており、枡形のようで、このように進むのが正しいのかも知れません)、 槻木中学校の手前に●長い塀と門構えのある旧家風な家が1軒。 その先に進むと街道は●四日市場交差点で国道4号に合流します。 その左手脇に●四日市場の一里塚があり、案内板が立っています。 その先は土手の上を歩こうかどうしようか迷ったのだが、●国道の左脇を進みました。
 16:40

■四日市場交差点~玉崎
 国道四号の信号を渡り、バス通を進みます。 ●前方に水道橋が見えてくるその手前草むらの中に●「西 柴田郡槻木村、東 名取郡千貫村」と刻まれている、郡境石と云われる道標が見つかります。 
 その先は●街道を直進するのだが、本当は途中、右手の坂を上がり、阿武隈川土手を進んで行くと、舟運時代の問屋、玉崎問屋跡が見られるのだけどそのまま進んでしまって見ることができなかった。 悔やまれますがしかたがない。
  道が左へ大きく曲がるあたり、右手に大きな●「八声の橋」碑と小さな道標があります。 道標には「八声の橋跡へ 南西七十三米」「竹駒神社へ 東北二・三粁」と刻まれている。 「八声の橋」碑とは、陸奥守小野篁が下向中、ここの橋に来た時狐が8回鳴いたので神意に導かれて竹駒神社を創建し、この橋を八声橋と呼んだとかの伝説による。  17:20 

■玉崎~岩沼
 18時頃には岩沼のホテルへ着きたいので、この先は早歩き状態。 国道4号下をくぐり北上。 JR常磐線のガードをくぐる。  さらに進むと、日本製紙岩沼工場の引込線を渡る。 左手に●派手な鳥居の東武神社があります。狭い境内で、明治初期の地図では{当竹神社」といい、南側に一里塚があったといいます。 その先「西原橋」手前で右斜めに進んでいたようだが、消滅しているので道なりに行くしかありません。
 左側に●聖徳太子堂がある。 病気が流行した時、聖徳太子像2体を造り、病気退散の祈願をしたのが始まり。 その先、突き当たって左折。突き当たり●目黒商店の所が枡形で、 この辺が岩沼宿の入口となるでしょう。ここを右折、すぐ左折して●岩沼宿の町並に入りました。
 ここの頁はここまで。 宿はこの先左手の「原田ホテル」  本日の距離寄り道含んで40km弱。10時間半かかりました。 18:00

 007-1 白石宿(前半 008 岩沼宿