020 好摩から御堂へ      歩行地図
 好摩駅-沢田-巻堀-草桁-川口-野原-芦田内-沼宮内-民部田川原田-御堂   17.84km

2020年10月17日
■好摩口交差点~沢田  画像をクリックすると拡大します
 盛岡発7:32発、好摩着7:55で好摩駅まで戻ってきました。今日は小雨模様でしかたありませんね。昼前にはあがるという予報です。●好摩口交差点から再開。県道を進み、大きく右カーブする右手に●「新塚一里塚」がある。 西塚は国道4号の拡幅工事の際に消滅している。 国道の高架をくぐり。●「 状小屋バス停」手前の分岐で街道は右前方へ入ります。入口に「奥州街道」道標が立ってました。 ●「沢田」の集落に入ると、沿道沿いには赤やオレンジや色々な色の花が咲き乱れ、続いていてきれいです。これが「状小屋」集落の端まで続いて、地域の人の熱意の表れでしょうか。  8:29

■沢田~状小屋
 途中左手に●愛宕大神、二十三夜塔、出羽大神、月山大神などが刻まれた石塔群がある。●状小屋地区に入り、状小屋とはかつて、ここに飛脚便中継点があったことを意味しているのだそうで、案内看板があったようだが、通りすぎたらしい。 ●国道に合流する手前右手に●「小豆研ぎ石」というのがあって、 旅人がこの大石の前を通りかかると、ザラザ~ラという小豆を洗うような音がしたそうです。かたわらの手書きの案内板は紙が破れて見えません。 8:45

■状小屋~巻堀
 国道に出るとすぐ右手に●「地蔵堂」。 中に●石造地蔵坐像が鎮座。右側に大きな「奉納庚供養塔」など石塔も祀られている。
その先、「 巻堀バス停」の所の民家に、「明治19年11月18日巻堀小学校創立之地」という石碑が立っている。 すぐ先、歩道橋を過ぎた左手の●大きな民家の庭先●「明治天皇駐蹕之處」碑が立っていて、渋民の「大塚屋」からの次の休憩場所ということだろう。 9:07

■巻堀~草桁
 その先右手に●「巻堀神社」がある。長禄3年(1459)創建と伝わる。神体は高さ60cmほどの金勢大明神で、古くから縁結び、子授けの神、安産の神として信仰を集めているという。ただ「金勢」というのはいわゆる「男根」のことで、他でも見るのだけど、あまり・・・ね 。 鳥居の左側の水鉢が女陰の形をしている。社殿は権現造りで、●「本殿」は神明造りで鰹木が5本乗る。  次の「寺林交差点」左角に、●「一字一石一礼供養塔」というのがあります。岩手は寒冷地だった為、何度か大飢饉が発生しており、飢饉の犠牲者を弔うもの。 碑面は摩滅して読めず、案内板にも書いていない。基底部土中には岩手町川口の明円寺14世実秀和尚による一石に一字づつ法華経典を書き写した小石が埋められて、それで「一字一石」というのだと云います。
 約1km程行くと、盛岡市玉山区と岩手町の境になり、その手前右手に●「草桁一里塚跡」の標柱が立っていいます。昭和50年頃まで両塚が東西に残されていたそうですが、道路拡幅工事で消滅しています。 9:46

■草桁~岩手町・川口
 ●「川口バイパス交差点」で国道は左へ曲がっていき、旧道はこのまま真っ直ぐ、国道から分岐して行く県道157号を進むことになります。 真っ直ぐ進んだ左手に●リンゴを乗せたモニュメント「岩手の風」というのがあります。
 すこし先、「岩手町働く婦人の家」の敷地西側に●「園井恵子像」というこじんまりとしたブロンズ像が立っています。 本名は袴田トミ。宝塚出身の女優。昭和初期、映画や舞台に活躍し、戦争中、移動劇団「さくら隊」に加わり各地を慰問巡演中、広島で被爆し落命。享年32歳。 説明板 ●静かな「川口」集落の真ん中を進みます。中世の「川口城主 川口氏」の治めた地域で、詳しい事はよくわからない。 10:05

川口~神社前
 右手に●曹洞宗「明治天皇駐蹕之處」。 川口城主川口正家がの開基。社殿は元和元年(1615)川口城の破却の際の建材を使用し造営されていう。又、前述の「一字一石一礼供養塔」は当寺14世実秀和尚によるもの。 すぐ先に左手に●土蔵がある「四日市米穀店」●卯建の上がる、二階の目の細かい格子など特徴的な旧家などが、歴史の面影を残します。 やがて●川口豊城稲荷神社参道口にやって来て、鳥居をくぐるのが旧道です。  10:13

■神社前~農協前
 鳥居の先、●赤い神橋が架かり、右手に●「鎮守 稲荷社」の扁額を掲げた鳥居があり、本殿はその奥。ちょっと遠いので行かれません。 右手に●湯殿山 月山 羽黒山等石塔群があり、街道はすぐ先の●三差路で消滅しているので、左折します。 10:18

■農協前~雪浦跨線橋
 古館川を越えると、切り通しで上がり坂となる。「中学校前バス停」の先、右手に●「川口城址碑」と案内板が立っている。川口城は中世から近世、この地域を治めた川口氏の居館跡。北上川と古舘川に挟まれた段丘上の要害地で、平場の広い東郭、西郭の間に堀切がある連郭式平山城でした。説明板 案内板の脇から登れるようになっていて、登ると●「東郭跡」の平場。その右側は●今歩いて来た切り通し。城の大きさがわからないが、西郭との堀切にあたるのだろうか。
 旧街道は、川口城跡付近を通り、合流してくるが、現在は「いわて銀河鉄道」の「雪浦跨線橋」を渡り、すぐ右折して、●線路に沿った道となります。  10:36

■雪浦跨線橋~
 ●「野原」集落を通って●国道に合流するのだが、手前左に「天皇御小休之趾」碑があるというので、注意しながら行くと、左手に碑の代わりに「案内板に」出くわした。案内板 今まで何ヶ所か見てきた、天皇の東北巡幸の際「小休止碑」だけど、安全の為別の所に保管されていますだと・・。
 その先が問題で。「調査報告書地図」と「無明舎本」共、道は国道4号を横切り、「丹藤川」を渡り、円弧状に右に曲がり、再び国道を越して、線路を渡っています。北側に「丹藤一里塚」があることになっていますね。 現在その道が見当たらないので、国道を進み、「丹藤橋」を渡って●「いわて銀河鉄道・丹藤街道踏切」を渡ります。 細く蛇行する「北上川左岸」に沿う形になって行くと、●「芦田内一里塚入口」と書かれた標柱立っているので、そこを左へ入って行きます。  11:00

    ~芦田内
 民家の敷地内のような感じになって、ちょっと躊躇するところだけど、右手に灌木が茂って形がわからないのだが、●「芦田内一里塚」と書かれた白い標柱が立っている。ここでの問題は、先の「丹藤一里塚」とこの「芦田内一里塚」との関係は?ということ。距離も一里あるわけでなし、ということで回答がわからず、疑問は残ったまま。 その先「芦田川」を渡らないといけないので、川の様子を見るため先に進んだら、灌木で川が見えず、左へ進んだら●鉄板が架かっており、渡ってしまいました。ここの民家の方が架けた「私設橋」のようで、挨拶も無く失礼しました。「芦田川」は極細いので、飛び越したり、迂回したりした人がいるようです。
 川の先のあたり一帯が●「芦田内番屋跡地」だと思うのだけど、標柱が見えず、鉄板を渡ったら少し川沿いに戻らないといけなかったみたいです。●畦道のような旧道を通って、先に進みます。 11:13

■芦田内~沼宮内・愛宕下
 ●「芦田内踏切」手前で「銀河鉄道車両に」出会いました。旧道はこの線路の西側の国道ではなく、線路の東側を通り、いわて沼宮内駅の手前で国道に合流しているようだが、道が消滅しているので、仕方なく、●西側の国道を行くしかない。
 「沼宮内南口」交差点で国道と別れ、右側を真っ直ぐ進み、●「いわて沼宮内駅」を過ぎると、県道17号に変わり、「銀河鉄道」の線路を越すため、高架を上って行きます。 高架の上から左を見ると、●復活している旧道」が見えます。 11:55

■愛宕下~沼宮内宿
 「愛宕下バス停」の所を左へ入って、旧道へ出ますが、右手の山道が●「愛宕神社」への参道口です。神社は山の中腹し鎮座しているようだけど、雨模様で足元が悪いので、行かないで済ませます。 左へ曲がって旧道に入り、右手の建物は●丹野旅館です。各室にベランダの付いた細長い独特の形で、いかにも昔の旅籠のような佇まいですね。 県道に再び合流して、●沼宮内宿に入ります、 左手にある、いかにも旅籠風な建物は明治41年創業●「旧上路旅館」。現在は営業していないようです。12:06

68 沼宮内宿 渋民宿から3里26丁(14.59km)。岩手町の中心部が沼宮内である。南部盛岡藩の代官所が置かれた。

★沼宮内宿
 その先、街道は●直線の幅広道となりました。新幹線の駅ができた効果でしょうか。現代的な町並みが続き、宿の面影は感じられないが、●間口が狭く,奥行きの長い建物があるのは宿らしいと云えば宿らしい。右手「道の駅 よりーじゅ」前に、●「寄寿姫像」というのがある。 詳細はこちら 人々を喰い殺す大蛇を鎮める為、寄寿姫が人身御供となって、お経を唱えると大蛇は成仏した・・というよくある伝説が伝わっている。 その先右手奥、沼宮内小学校南門前に●「沼宮内代官所跡」説明板が立つ。説明板  慶安4年(1651)から明治2年まで南部盛岡藩の代官所が置かれた所。南部藩の領地は青森、秋田、岩手に及ぶ広い範囲で、25~47箇所に行かれた代官所の一つ。 12:17  

■沼宮内小学校~新町
 小学校の東側に●「沼宮内稲荷神社」がある。 享禄元年(1528)俵藤太秀郷六族の一人、河村治郎春秀が氏神稲荷大神を奉じ、北上川沿い下の城山に城を築いた際、南裾の平地に稲荷社を建立、同時に沼宮内町を開いたという。その城「沼宮内城」は北側の「城山」にあった。 県道を隔てた北側に●「沼福寺」があって、入口右側に●「明治天皇御料馬瀧澤號之御墓」という珍しい墓があります。 明治14年の東北巡幸の折、御料馬「瀧澤號」が亡くなったので手厚く葬られましたという。
 街道に戻り、●北上川沿いに右前方へ進みます。正面の小高い山が「城山」で、 中世の沼宮内城のあった所です。12:30

■新町~民部田
 右手に●金毘羅、青面金剛等の石塔群が祀られ、●北上川沿いに北上します。右手は「沼宮内城址」。右手からの国道281号にぶつかり、●ここはそのまま横断、道なりに左に曲がり、民部田集落内を進みます。 集落を過ぎると●国道4号に合流し、前方に新幹線高架が見えます。 12:55

■民部田~川原木
 新幹線の高架下を通り、その先の旧道は「いわて銀河鉄道」の左手を通っているようだが、線路に阻まれて行かれない。しばらく線路に沿って進み、一応旧道へ出る為、「河原木交差点」を左に曲がり、踏切を渡って旧道へ出ます。 旧道は●石塔のある四差路の所を南北に通っていたが、北側の先で再び、線路に阻まれて行かれない。 左手角に●「青面金剛 有縁無縁萬霊塔」の石塔がある。その西側を●「北上川」が流れる。ここら辺りだと,さすがに源流に近く随分細く、水路の様な感じ。 13:16

■川原木~御堂駅
 再び、旧道から国道4号線に戻って、先に進みます。 右側に●「岩手町、北緯40度線」と書かれた標識が見えてきました。丁度ここあたりが北緯40度線で、「e-netいわてまち」によると、・・人間が健康的で文化的な生活を営む上で最も適しているといわれるこの線には、北京、アンカラ、オリンポス、マドリード、リスボン、フィラディルフィアなど世界の主要な都市が位置し、それぞれ豊かな文化の花を咲かせて大きく発展しています・・とある。「北緯40度公園」という公園も作られているほど。
 その先、●国道と旧道との分岐があり、正面に●「塩の道、岩手町」と書かれた標柱があった。ここを入って行くと奥州街道と塩の道の分岐があり、塩の道は岩手町と、太平洋岸にある野田村の十府ヶ浦海岸を結び、 塩は牛の背に乗せて運んだという。
 その後、左手の●御堂駅から沼宮内駅まで1駅戻り、新幹線で帰りました。沼宮内駅では2時間に1本しかなく、駅でゆったりと待つことになりました。 13:30終了

 019 盛岡-好摩 021 御堂-小鳥谷