赤山街道を歩く 
   赤山陣屋跡とは

 赤山陣屋とは
 江戸時代関東郡代伊奈忠治が関東支配の拠点とするために築いたものである。
 場所は東京外環状道路と東北自動車道の交差する川口Jct東南側に位置する所にあり、空堀や土塁も往時のままに残して埼玉県指定文化財(旧跡)に指定されている。
 本丸と二の丸部分だけでは110,000m2だが、家臣の土地その他合わせると770,000m2に及ぶ広大な敷地を持つ為か
「赤山城」とも称されたりする。
 陣屋には4つの入口があり、そこから大宮方面、越谷方面、足立方面への連絡道が通じていた。その3本の道を歩く。

  大宮道   越谷道  千住道
     伊奈氏と赤山陣屋 ・・赤山城記念碑脇 案内板より・・
 赤山陣屋跡は、元和4(1618)年兄忠政病死のあとを継いで、関東郡代の職についた伊奈半十郎忠治が、寛永6(1629)年に在地支配と開発事業の拠点とするために築いたものです。以来、10代忠尊が天明の大災害(1783‐87)の事後対策の過失により郡代職から失脚、領地を幕府に没収される寛政4(1792)年まで、163年間にわたってこの地に存続しました。  この陣屋は本丸(御屋形)と二の丸の部分だけで約110、000㎡、周囲に広がる家臣持分の土地や菩提寺である源長寺・山王神社などの付帯施設も含めると、実に770,000㎡にも及ぶ広大なものです。  
  歴代の伊奈氏は皆さんご存知のように、用水の開さくや新田開発など、治水・利水事業に数多くの業績を残したことで、歴史上特にその名が知られております
  このことから、水辺の文化をはぐくんできた川口のあゆみをひもとくとき、赤山陣屋跡は先人の偉業を偲ぶことのできる、最も重要な遺跡の一つであるといえましょう。そしてこの遺跡の中には、水害とたたかった伊奈氏にふさわしく、水神やその化身としての大蛇にかかわる伝承や民話がたくさん伝えられているほか、創建当初からの道も、生活道路として現在も利用されています。もちろん、陣屋のたたずまいを示す空堀や土塁も往時のままに残っています。
  左の図は「赤山陣屋絵図」(市指定文化財)をもとに、現在の地形図の上に陣屋の配置を描いたものです。陣屋全体が自然の低湿地によって囲まれ、主要な入口には門番が配置され、「四ッ門」と呼ばれていました。また、本丸と二の丸は人口の空堀によって囲まれています。これら陣屋の構造から、伊奈氏の卓越した土木技術をうかがい知ることができます。つまり赤山陣屋跡は、近世初期に発達した、伊奈流(備前流)と称される土木技術の粋を集めた、代表的な遺跡であると言えましょう。

   ※ 国道298号(建設中)は東京外環状自動車のこと
  ※ 黒線=堀跡 青丸=四ッ門跡

     陣 屋 図
 本丸の中枢部(110,000m2)には、表御門を入ると伊奈氏の居住する館が5棟あり、その東側には御役家が置かれ、北東部には稲荷が祀られた。本丸の来たには松林と思われる御山が堀で切られた御陣屋御山(出丸)が広がり、御的場が設けられていた。表門の南側の家臣の屋敷は17を数え、有力家臣が置かれた。西側の二ノ丸には付け家老富田氏の屋敷が置かれた。堀之内から四方に出る道には門を置き門番を置いた。
 堀の外には家臣屋敷が41あり、社地(山王、八幡、天神)があり、菩提寺の源長寺は陣屋の南側に置かれた。
  なお、伊奈家は寛政4年(1792)12代忠尊の時、幕府政治の変化と家中の騒動がもとで改易され、赤山陣屋も廃止された。このため陣屋の建物や家臣団家敷は取り壊されて畑地となり、今は空堀と社寺を残すのみとなった。 
    その後廃止された陣屋跡は近代になって史跡として保存が計られ、昭和36年埼玉県指定旧跡に指定された。また平成になって川口市などにより公園として整備保存が計られている。   

  朱色が道  青色が堀 左上部が本丸、出丸 南半分家臣団の屋敷 ○が四つ門
        出典 埼玉県立文書館編「古地図を楽しむ」
 から 

         陣 屋 跡 の 現 状
 現在川口市により公園化の整備が進められ、堀の再現整備などが行われている。現状では敷地内に個人の農地が残り、自由に歩き回ることは難しい。休憩施設もあまりなく、公園化事業が終わるのが待たれる。

     陣屋北堀の西端跡
 本丸と出丸を北堀が分け、堀には土橋が架けられていた。

  本丸と出丸は外環道で区切られた。出丸の東西は低地であり、現在でも高低差数mが残る。

 北側から東側に向かって堀が残っている。昔は深さ3~4m、土塁高1mという。

      北堀西端跡
 この水神のほこらがある辺りの右手は竹林が広がり、伊奈家の姫と龍にまつわる伝説が残されている。

 絵図には本丸中央部分に南北に1本の道が描かれ、それがこの道といわれる。

 北堀の南側に陣屋の鬼門を守る御殿山稲荷がある。案外と小さい。
   西堀跡
 地形に合わせて西堀は深めに掘られた。

 本丸中央部あたり。ほとんど農地となっている。

 東側中央部は農地で、堀などはほとんど残っておらず、細道があるだけ。

     再現された南堀跡
 地形に合わせ浅めに掘られた。

  再現された東堀跡
 本丸地と山王社地を区画している。北側には山王社がある。

 源長寺は首都高速道南側に位置し、伊奈氏の
            菩提寺として、4代忠克以後の代々の墓がある。
         広大な敷地を誇ったが今はその面影は残っていない。 
寺から県道へ伸びる長い参道が寺の興隆を物語るのみ。

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