朝鮮人街道を歩く 2 
            (安土~鳥居本まで)  
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 安土駅-安土城跡-南須田町-安楽寺-能登川-彦根市天満橋-銀座町-立花町-船町-鳥居本  24.9km(全41.8km)


■安土駅~下豊浦北 ※ 写真をクリックすると拡大します
 2012年1月29日 11時30分安土駅着 朝早く出ようと起きたら、雪が降っていたので、中止するかと思って、のんびりしていたら、晴れてきたので、遅いけど安土へやって来た。雪は残っていなかった。
 駅前に前回と同じだけど、●織田信長の銅像が立っている。本日はここから出発。  西から来た街道は駅前で北に折れ、安土公民館で東に曲っている。継ぎの角を再び北に曲るが、直進すると●東南寺がある。案内看板によると・・・「東南寺には桑実寺の支院、「正覚院」に宛てた織田信長や足利義晴等の文章をはじめ、屋根瓦に足利氏の家紋である「二両引」などが残されている。 これは室町幕府第十二代将軍義晴の仮幕府が置かれた正覚院が浄土宗に転宗し、東南寺が正覚院の寺務と寺格を引き継いたためで、天台宗中本山として勢威を誇った。・・・・」 とあった。
 街道は●活津彦根神社の鳥居のある角で右折し、突き当って常夜燈のある角を左折する。 11:40

  右手の●東家屋敷がある。門が屈曲して屋敷内に入る「枡形」になっている。伝豊浦冠者行實の看板が架かっている。東の名前は安土城下で行われた、相撲大会で豊浦の伝蔵と常楽寺の右馬次郎が勝負を行い、勝負がつかなかった為「双方勝」として信長よりそれぞれ「東」、「西」の姓を賜ったことにちなむと伝えられる。
 屋敷の手前を右に入ると、●セミナリオ跡というのがある。ここは、天正8年(1580)、宣教師オルガンチノが織田信長より土地を下付されて開いた、日本最初のキリシタン神学校を建てた場所である。 近代的な教育内容と3階建ての豪華な建物により海外までにも知られていたという。信長が本能寺の変で討たれ、安土城が炎上した際焼失してしまい、わずか2年しか存在しなかった。
 街道は交差点で県道と合流し、安土山の南側に向う。右手に交通事故にあったという●道標が接合されて立っている。本当は高さ1.42mあり、「従是 右くいおん寺」と彫られてはずの道標で、下がなく50cm程の高さになっている。11:54

 ■下豊浦北~安土山
 
●安土山
 左側に安土山が広がる。いうまでもなく信長が安土城を築いた山である。現在では山の周りが干拓されて、面影が感じられないが、昔は3方が琵琶湖で、湖に突出した岬のようになっていた。そこに、信長が天下統一を目前にその居城として築いた城が安土城である。
 築城は天正4年(1576)正月から始り、3年後に天守が完成している。天正10年(1582)本能寺の変の直後に天守閣も炎上している。火をつけたのは光秀方ではなく、信長方の身内であるといわれる。城の様子は「火天の城」という映画で知ることができる。
 現在、城の発掘が進み、石垣、石段、礎石などが残され、織田氏の菩提寺である総見寺の三重塔、楼門などが残存している。山の真ん中あたりに●大手門への入口がある。40分くらいに●天守跡へ行くことができる。写真のは6月に「歴史街道」のツアーで来たときのものだが、天主は地上6階、地下1階の高層建築であったとされ、礎石は地下の部分にあたる。

  ■安土山~北腰越峠
 摠見寺は信長が創建した寺で、光秀の乱後、炎上した時には類焼をまぬがれたが、江戸末期に惜しくも焼失してしまった。 昭和7年に、大手道筋の徳川家康邸跡に仮本堂を建てている。●三重塔も焼け残り、国の重要文化財。
 道は安土山の南裾を廻りながら、安土山と繖山(きぬがさやま)の間の北腰越峠に向うが、上っていくと右手に●「近江風土記の丘」という石碑が建っている。右側の山が繖山で、観音寺山ともいい、山頂に佐々木氏の観音寺城があったところ。西国33ヵ所札所の第32番、「観音正寺」もある。この道を入っていくと、信長の館や安土城考古博物館にいける。
 坂が下りになると、東近江市に入る。県道は直進して、坂を下って行くが、朝鮮人街道は交叉点の右側の道を進んで行く。
途中●JR琵琶湖線のトンネルの上を通過した。ここでは上下線が広く分離している。  12:35

  ■北腰越峠~南須田町集落
 坂を下って行く途中右手に●文政5年の法華塔が立っている。住民の安穏を念じて、大乗妙典を一字一石に書いて祀ったもの。以来伝染病とか災害に遭う人が少なくなったと伝えられるとか。
 右手奥にやわらぎの郷公園があり、この公園に向う道が繖山の鞍部を通る山道で、地獄越といわれる中山道に通じるルートに繋がる。地獄越えに至る途中に●五十余州神社がある。観音寺城落城の時、討死した佐々木氏の武士50余人を祀っているという。
 旧道に戻り●南須田町集落へ入って行く。道幅が減少して、両側にたたずむ家並が落着いた雰囲気を醸し出している。13:10

■南須田町集落~安楽寺
  左手の●超光寺の表門は安土城内にあった摠見寺の台所門が移築されたもの。この門も安土城焼け残りの一つとなっている。
 この先右手に「是南そう見寺領」とある石碑が立つ。現在でも南須田町と北須田町の境界はここになる。
 街道は「きぬがさ街道」下のガードをくぐり、直進するが、●安楽寺集落手前で左へ直角にカーブしている。そして100m先で右へ直角にカーブする。右に左に曲げて、朝鮮使節に日本の国土を広く見せようという意図があるらしい。ここが能登川町における最初のカーブである。
 最後のカーブしてから右手に道があり、奥に●天台宗繖山安楽寺への石碑がある。安楽寺の参道が続いている。聖徳太子が近江に建てた48寺院の第1番目という。天台宗ということで、天正4年(1576)信長により焼打ちされたという。長い参道の石段、石垣などは往時の勢力の大きさを物語るという。  13:34

  ■安楽寺~御殿場広場
 
街道の先、右手に●繖峰三(さんぽさん)神社の常夜燈と木製の鳥居があった。比高差170mの山腹から御輿が駆下る、県無形文化財、伊庭坂下し祭(いばさかくだしまつり)がここで行われる。
  その先には●望湖神社の鳥居と常夜燈も立っている。祭神は藤原鎌足というので、珍しい。近江朝繋がりということかと思う。また望湖というくらいならば琵琶湖が望めるかと思い、上がってみたが、樹木が茂って見えず、もっとも、昔は湖水はもっと近いのだろうし、眺望も良かったのだろうと思う。
 望湖神社から左手に曲って、線路を渡るのが旧道だが、そのまま真っ直ぐ進むと広場に出る。脇の看板によると、●伊庭御殿遺跡とある。「伊庭御殿」は徳川将軍が江戸と京都を往復するときに利用した休憩所の跡で、発掘調査、設計図などにより、どのような間取であったがわかる。設計者は国宝二条城二の丸御殿などをつくった小堀遠州である。現在は石垣が僅かに残り、「御茶の水」の井戸跡と標石が残るのみ。   14:06

  ■御殿場広場~能登川本町
 
線路を渡り、県道を横断して、継ぎの四つ角を右折すると、●直線の旧道が続いている。両側には茅葺だった屋根を惜しくも胴板で覆った家もあり、旧街道の面影を残している。
 しばらく進んで、「林交差点」を右折してまっすぐ進み、線路を越えて、右側に水路がある細い道を行き、右手奥に「能登川高校」がある角を左折する。
 元町商店街の道に出てきた。少し行くと左手に「能登川駅」があり、「能登川神社」もある。ずーと進んで「天神社」がある手前で、少し寄道をした。右折して行くと●法堂寺遺跡公園というのに出会う。白鳳時代に、能登川周辺を治めていた、大きな財産や勢力を持つ一族が建てたという法堂寺廃寺跡を整備した公園で、五重塔の基礎となっていた石が、廃寺となったかつての大寺の名残りを今に伝えている。
 街道に戻って●天神社に寄っておく。垣見天神社の創建は天慶年間には繖山の北面の山腹に鎮座していたが、神託がありこの地に社殿を建立して遷し祀ると伝えられる   15:14

 ■能登川本町~彦富町
 
天神社から先、線路を越えて、今度は線路の西側を進む。この先もほぼ真っ直ぐ進んでいて、「今町」の集落の両側に広がる水田は古代の条里制の旧蹟を残すものだといわれているそうだ。
 愛知川に近づくと、両側に工場が広がり、ゆるい上がり坂になってくる。上がり坂の先に愛知川が流れている。ここに架かる橋は●八幡橋というが、橋柱に水車と川のモニュメントがあった。八幡橋を渡ると彦根市になる。道はまっすぐ進んでいるのだが、●上稲葉の交差点で何故か、なぜか、わずかばかり「く」の字形に曲っている。左手角の民家の裏を通っていくわけだが、理由がよくわからない
 次の●彦富町交差点で、右折するとその先にJR稲枝駅がある。キリがいいので、今日はここでやめることにした。遅くに歩き始めたので10km足らずだった。 16:00

 彦富町~彦根市天満橋
 2012年2月5日 9時40分
 1週間経って又「彦富町交差点」に来たが、風景は一変していて、先週中頃の寒波で彦根市は積雪44㎝とか。県道も車道は雪はないが、歩道は所々雪がたまっていて、歩きにくい。
 彦富町交差点から道はずっと●真っ直ぐ続いている。これは条里制の遺構とかいわれている。
正面に見える山は「山崎山」。●山裾まで来ると、県道は右にカーブして行き、旧道は県道と別れて直進し、すぐ山崎山の裾を左へぐるっと巡っていく。集落に入って行くと右手に「山国昌寺」、「仏性寺」がある。
 集落の中を歩き、山裾に従って右折して、少し行くと左手に「従是荒神道八町 奥山寺」と刻まれた道標が建っており、これと同じ●道標がこの先700m位先の荒神山神社の拝殿の参道脇に立っている。奥山寺は奈良時代、行基が荒神山の山頂に建てた寺で、神仏分離により奥山寺は廃寺となり、荒神山神社として残ったのだとか。
 左手の山側に●天満天神宮が建っている。由緒書によると 「伝来記録は不詳なれども、安永年間に近郷の総社にして、旧彦根藩の信仰篤く、寛文九年拝殿鳥居を建立し、近郷の氏神となった。」とある。    10:15 

  ■天満橋~甘呂町東交差点先
 宇曽川に架かる●天満橋、安食川に架かる「横川橋」を渡り、県道2号を左折する。
 日夏町中沢交差点を横断して条里制の遺構という道を真っ直ぐ進み、途中なぜか●枡形の様に右斜めに進む所がある。そして●甘呂町東交差点の先の交叉点を右折する。直進すれば彦根の中心市街を経て、彦根山に至る道であり、古来より重要な道で「巡礼街道」と呼ばれてきた。彦根城が築かれる以前、ここには観音の霊験所として知られた「彦根寺」があった。白河上皇らが寛治3年(1089)に参詣したことことから、御幸道とも呼ばれた。      10:50

 甘呂町東交差点先~小泉町
 
右折して、信号二つ先の堀町で左折するのだが、歩道に雪が一杯で、除雪されていないので、歩くのが大変だった。「堀町」交差点で左折する。やがて上がり坂になり、坂を上り切ると犬上川の堤防になり、●犬上橋を渡る。坂を下って行くと右手に●「十王の名水」というのがある。池になっており、池の中には六角形の屋根を持つお堂があり、母乳地蔵尊が祀られている。みずは左側の竹筒から湧き出ていて、何人かタンクで汲みにきていた。環境庁の全国名水百選にも選ばれている。
 今西町、小泉町の交差点を通過して、セブンイレブンの手前を左折して●明照寺に寄ってみた。真宗本願寺派の寺院として大きな勢力を持っていたといわれ、信長により天正元年(1572)に焼き打ちに合い、焼失してしまった。江戸時代に再建されたが、昭和になって失火で焼失して、本堂などはコンクリート造り。山門脇に「芭蕉翁笠塚李由句碑」の石碑と句碑が建っている。
 12:02

  ■小泉町~銀座町
 
街道に戻って平田町を進むと前方に●雨壺山が見えてくる。山の裾を左に回って進むと、右手に「鳴宮天満宮」がある。
 平田町に続いて、「後三条町」に入るが、このなにやら由緒ありそうな町名は、かってここに後三条天皇の勅旨田が存在したことによるとか。右側奥に「彦根神社」や「長久寺」がある。
 街道はまもなく●芹川を渡る。芹川は現在、真っ直ぐ北西に流れ、琵琶湖に注いでいるが、彦根城下町を建設する際に流路が造ら代えられている。そして、芹川橋より下流の両岸には芹川の土手を強化するためにケヤキが植えられ、樹齢300年前後の美しいケヤキ並木になっている。
 橋を渡るといよいよ彦根城下町へ入る。橋を渡った先は「橋本町商店街」で、歩道がアーケードになっていて歩きやすい。「銀座町交差点」を左折し、銀座町に入る。彦根市メインの商店街だったらしいが、日曜日でもあり、雪も積っていたりだろうけど、あまり人通りは多いといえない。街道は●銀座街の終りの三叉路を右折して、中央商店街を進むが、この角には江戸時代、「高宮口御門」が設けられ、番所が目を光らせていた所といわれる。しかも枡形になっており、現在では正面の青果店の裏側を通る道があって、当時の面影を偲ぶことができる。  13:25

 銀座町~立花町
 
高宮口御門跡を右折して、中央商店街に入った。彦根城の東側を真っ直ぐ進んでいる。昔の城には三重の堀があり、三重目は埋められて、現在の道は埋められた内側の第3郭に存在した町人町の中を通っている。
 この通りの両側に藩主井伊氏にゆかりの深い、有名な寺院が点在するので回っておいた。
 右手に●長松院。慶長9年(1604)に彦根藩初代藩主井伊直政の菩提を弔う為開かれた。慶長7年に死去した直政が荼毘に付された場所とされ、供養塔が建立されている。
 同じく右手奥の●蓮華寺。井伊家の旧領、上野国箕輪より移転してきた日蓮宗のお寺。井伊家との繋がりが深い。
 街道を少し戻って、左側の「四番町スクエア」の奥にある●来迎寺。もと佐和山城下にあった浄土宗寺院。本尊阿弥陀如来が重要文化財。  13:45

  来迎寺の前が●大信寺。旧領、上野国高崎の大信寺の僧照誉が井伊直政に従い近江にやって来て佐和山城下に建立。のちこの地に移された浄土宗寺院。
 さらに左側、「夢京橋カyッスルロード」に面しているのが宗安寺。朝鮮通信使の上使が宿泊した寺で、近江八幡の本願寺八幡別院に相当する寺である。●朱塗りの山門は赤門と呼ばれた門で、石田三成の居城の左和山城の大手門を移築したもの。
 本尊は大阪夏の陣の際、大坂城より持ち出された淀君の念持佛。「李朝高官肖像画」が伝わっている。また境内に大坂夏の陣で戦死した、豊臣家の忠臣として名高い木村長門守重成の●首塚がある。   13:55

 ■立花町~船町
 
街道に戻って、先に進む。中央商店街から、●立花町、ここには古い家がいくつか点在する。そのうち左手に●彦根城の二重目の堀が見えてきた。
 佐和町に入ると、ここは天保期(1830~)からは100石から300石の武家屋敷になったという所。元町のはずれで右折して船町へ入って行く。船町には袖卯建や土蔵など古い町並が程よく残っている。やがてJRの線路にぶつかってしまい、跨線橋を渡って行かないといけないかと思っていたら、突き当りに●地下道の入口があった。自転車と人間用で小さいが、地下道に入り、JRの線路の下をくぐり抜け、その先には近江鉄道の踏切があったので渡る。 14:50

 ■船町~佐和山トンネル
 
JR跨線橋をくぐると、正面がゆるやかな上り坂になって●旧道が続いていた。正面に金閣寺のようなピカピカの建物が見ええ、またどこかの成金の寺が趣味の悪いものを建てたのかと思った。坂を上がって行くと、国道を8号線をくぐり、Uターンして再び8号線にぶつかった。ここに●佐和山遊園というのがあり、ここにさっき見たピカピカの金閣寺らしき建物、5重の塔、佐和山城天守閣とか訳のわからないものが沢山建っている。帰ってから調べたら、個人が趣味で石田三成ゆかりのものを色々建てているそうで、ご苦労様としか言いようがない。
 旧道は国道の脇を一緒に進んでいるが、国道は●佐和山トンネルに入って行くが、旧道はトンネルの左側の山道を進んでることになっている。しかしながら雪で山道を上ることができないし、途中で消滅しているらしい。そんな訳で国道のトンネルの左側の歩道用のトンネルを行くしかなかった。この山は佐和山で、頂上には石田三成の佐和山城があった。 15:05

 ■佐和山トンネル~鳥居本
 
トンネルを出ると、国道で、その先に続く●県道239号が旧道である。国道を横切って県道に入っていったが、国道に信号が無く、渋滞していたので渡れたけど、びゅんびゅん走っていると横断が難しい。
 両側がホテル街で、600mほど過ぎると東海道新幹線の高架がある。ガードをくぐり、200m行くと●三差路に出た。ここが中山道、鳥居本宿と朝鮮人街道との合流点で、角に文政10年の道標があり、「右彦根道」、「左 中山道 京いせ 」 と刻まれている。鳥居本宿には2009年10月に雨の中を通過していたわけである。
 以上で朝鮮人街道の歩き旅は終了ということになった。鳥居本には古い建物や卯達をあげた家があり、旧中山道の宿場町の雰囲気を十分に感じることができる。  帰りは●近江鉄道「鳥居本駅」から彦根駅へもどって帰宅した。  15:40 

      1 野洲・行畑~安土駅