初瀬街道(青越え伊勢街道)を歩く 1 
         慈恩寺追分~榛原・札の辻(六軒町)
   歩行地図はこちら 地図  
 慈恩寺北-脇本-黒崎-出雲-長谷寺-吉隠-角柄-西峠-榛原         9.4  km

 初瀬街道(青越え伊勢街道)
 この街道は桜井市初瀬から宇陀市榛原へ進み、札の辻で伊勢本街道と別れ、名張・阿保を越えて松阪市六軒町へ出て、参宮街道に合し松阪・伊勢に至る街道で、壬申の乱でも重要な役割を果し、江戸時代には伊勢詣りの道として大いに賑わった。大和からは「青越え伊勢街道」、伊勢からは「初瀬街道」と呼ばれる、現在の国道165号線沿いの道である。ここを六軒町まで何回かで歩き、日永からの伊勢参宮街道に合流したいと思います。 
 参考資料
  「みえの歴史街道 (初瀬街道) 」
  「青越え伊勢街道(初瀬街道)ウォーキングマップ」
  近鉄てくてくまっぷ(伊本-6)初瀬街道・西峠越えコース 
 


慈恩寺北~玉列神社 ※ 写真をクリックすると拡大します
 2012年4月29日 11時15分 大和朝倉駅到着
 駅から上街道で終了した●慈恩寺北交差点へ向った。ここから始まる街道が初瀬街道で、長谷寺や伊勢へ向っている。
街道に入ってすぐ、左折して、北方にある玉列神社へ行くことにした。国道を越えて250m程行った所に、「公民館」があり、●古い道標が立っていた。「右 みわ なら道 左 かく山 ???道」と読めるが、大神神社の方向から来る事を考えても、方角がいまいち疑問。ただここに「東海自然歩道」の標柱が立ち、東へ行った「春日神社」の所に、伊勢古道の案内板が立っていたので、このあたりに伊勢古道が走っていたかもしれないと思った。ここを左へ行くと●玉列(たまつら)神社がある。式内社であり、大神神社の摂社になっていて、初瀬谷最古の神社という。椿で有名らしい。
 神社の右手に●慈恩寺がある。玉列神社の神宮寺だったのだろう。このあたりの地名が慈恩寺で、地名の由来に関係あるのかもしれない。  11:36

 ■玉列神社~脇本
 
●街道にもどって東へ進む。古い民家が建ち、静かな町並となっていた。道を挟んで●2つの常夜灯がある。天保2年の建立のもの。左手に●脇本地蔵堂が建ち、脇に庚申塚がある。   11:50

■脇本~黒崎
 
脇本の信号が見えるあたりから、右折して、国道を渡る。細い道を進むと、「朝倉小」の左側に●春日神社がある。慶長8年(1603)に建立された、●本殿が美しく、檜皮葺、三間春日造り。安土桃山時代の特色を持ち指定文化財である。神社隣に「伊勢街道」の案内板が立っていて、それによると・・・神社近辺は細く折れ曲った伊勢街道の古道が残されており、当時の賑わいを彷彿とさせる・・・・とあり、伊勢街道はこのあたりを通っていたようだ。
 学校の方へ行く途中の角に●万葉集の歌碑がある。
       夕されば 小倉の山に 臥す鹿の 今夜は鳴かず 寐ねにけらしも   雄略天皇                 12:02

   ■黒崎~白山神社
 地図をよく見ると、道が小学校の校庭を横切り、黒崎の交差点へ向っているが、校庭を通るわけにもいかず、また国道を渡って、●元通りの街道へ戻った。軒卯建を備えた家や土蔵造の家がある。
 すぐ先左手に●白山神社の参道が国道の方へ通じている。 ●社殿はこじんまりとしているが、本殿は春日造の一間社できれいなものである。このあたりの地は雄略天皇の「泊瀬朝倉宮」があった場所とされていて、「境内の国道に沿った所に「万葉集発燿讃仰碑」があり、その奥に有名な万葉集の巻1-1 「籠もよ み籠もち 掘串もよ--」という歌で始る、●雄略天皇の歌碑がある。      12:15

 ■白山神社~出雲
 
街道は神社の先で●国道165号線にぶつかる。ここから先は、しばらく国道を歩くことになる。さすが車が多くてわずらわしい
 左手に●出雲の流れ地蔵堂というのがある。文化8年(1811)の大洪水で、初瀬の桜の馬場からここまで流されてきたのを当時の出雲村の人が祀ったと語り継がれているとか。●地蔵は上半身だけを地上にだして、腰から下は地下に埋まっている風変りな地蔵さんとして有名である・・・という。    12:28

 ■出雲~十二柱神社
 
地蔵堂の少し先で●街道は斜め左へ国道から分かれ、古い家並みの集落に入る。出雲という集落である。出雲の地名は垂仁天皇のときに出雲から工人を連れてきて埴輪を作らせたことに由来するという。しばらくして左に参道があって、その奥に●十二柱神社がある。変わった名前の神社であるが、天神7代、地神5代を祭神としているために、この名がある。
 またこの地は武烈天皇の「泊瀬列城宮」があったとされているので、境内にその石碑が立つ。仁徳系の天皇が武烈で絶えるためか、記紀では武烈天皇は非常に残虐な天皇であったと描かれている。
 参道の途中の右側に●五輪塔があり、野見宿禰を祀っている。 野見宿禰は力士の始祖とされていて、当麻蹴速(たいまのけはや)と蹴速と相撲をとり、蹴速を蹴り殺して勝ったという。相撲をとった場所には「相撲神社」があって、桜井から「山辺の道」を歩くと途中に見える。   12:40

 ■十二柱神社~長谷寺参道
 
出雲の集落を抜けると●「出雲の交差点」で、国道にぶつかる。信号を渡って直進し、国道の1本南側を進む。この道はすぐにまた国道と合流してしまう。 国道を600mほど歩くと、国道は右の方へカーブして行き、●長谷寺参道入口に着いた。「総本山 長谷寺」の標柱や常夜燈が立っている。天気も良く、ちょうど「牡丹祭」の最中で、人出が多い。
●長谷寺の参道は初瀬街道を兼ねていて、参拝が終った人達とぶつかり合いをしてしまうくらい混んでいた。   13:02

  参道をず-と店を覗きながら進んで行くと、右手に伊勢へ向う「伊勢辻」というのが分岐しているのだけど、ここは後ほど来ることになるので、先に進む。 右手に●法起院がある。西国三十三ヶ所霊場巡礼を始めた、「徳道上人」が晩年隠棲されたところで、現在三十三ヶ所の番外寺院となっている。本堂の左奥に十三重塔があり、徳道上人の霊廟とされている。。
 参道は法起院の先で左へ曲がっている。ここを曲がらないで真っ直ぐ行って、初瀬川にかかる「天神橋」を渡り、その先の●與喜山神社への長~い石段を上がって行く。汗をかきつつ、上がると神社の社殿がある。菅原道真を祀る「天神社」の中で、最古の天満宮にして、長谷寺の鎮守、地主神である。境内には古代の信仰を残す磐座が多数あり、天照大神の降臨伝説も残る。
 下りは神社の裏参道を下りると、長谷寺への道の手前、右手に●「素戔雄神社」がある。與喜山神社の座する與喜山には天照大神が降臨した山で、弟神の素戔雄神を鎮めねならないとして創建されたという。境内左手に大きなイチョウが聳えている。樹高40mで県の天然記念物。      13:40

  ■長谷寺
 長谷寺(西国三十三カ所八番札所)。真言宗豊山派本山。
 朱鳥元年(686)、天武天皇の病気を祈願して道明上人が西の岡に千仏多宝仏塔を建立したの始まりで、その後奈良時代に徳道上人が十一面観音を安置した堂を東の岡に建立した。 明治18年再建の●仁王門(重文)を入ると、有名な●屋根付きの登廊(重文)に入り、右に左へと108間、399段を上る。登り切ったから、左へ曲ると●本堂に入る。小初瀬山の絶壁に懸造りされた建物である。本尊は身の丈10メートルを越える「十一面観音像」。     14:02

  ■長谷寺~伊勢の辻・化粧坂
 あまりに人が多いので、一方通行の本堂を抜けて、大師御影堂から、●五重の塔の方を通って下山していく。五重の塔は昭和29年の建立になるもの。 本坊の脇を通って参道へ戻ってきた。「井谷屋」旅館の脇に、石の道標があり、●伊勢辻と呼ばれる。ここが伊勢へ抜ける初瀬街道の分岐点となっている訳。道標には「伊勢辻 右 いせみち」と彫られている。
 ここを曲り、初瀬川を渡り、左へ曲って行く。●登り坂になって、脇に稲荷社がある。    14:25

  ■化粧坂~吉隠
 
道は登山道のようになって、樹木が鬱蒼とおおいかぶさって薄暗く、さすがにここを歩くような人がいない。
 上って行くと、化粧坂の立札があって、このあたり●化粧坂というようだ。鎌倉にも同じ名前の坂があるけど、関係はどうなのだろう。頂上を過ぎて、●眼前に開ける景色が素晴しい。山の名前がよくわからないのが残念だけど、時々、山の中腹を走る近鉄電車が見える。    14:30

■吉隠~西峠
 
旧道は道なりに行くと、国道に出る。しばらく行くと、左手に「県立桜井浄水場」があるが、右手に「歴史街道の案内板」があるあたり、旧道は国道を下りて、水田を歩くようにんっているらしかったが、下りる入口がよくわからず、そのまま通過してしまった。大きな間違い。 吉隠(よなばり)の信号を過ぎてから、●右手へ入る旧道がある。こちらは間違えずに入れた。吉隠の集落の中を通っていく。ここも古い民家が残っている。左手に●文化4年の道標があった。「右 いせ」と彫られている。
 集落から●国道165号へ出ると、桜井市との市境で、●宇陀市の案内板があった。    15:10

  角柄(つのがら)のバス停を過ぎると、右手に閉店して廃屋になっているパチンコ店が見えてきて、●店先の駐車場跡の前の道が旧道になっている。右手へ回り込んで行くと、左手に地蔵堂が見えるので、旧道が通じていることがかろじてわかった。
 ●入口から草道になっていて、やや下がぬかるんでいるので、注意して通らないといけない。右手は山だが、左手に民家が数軒建っている。 回り込んで国道へ出て、ちょっと行くと●西峠交差点に到着した。    15:30

 ■西峠~墨坂伝承地跡
 
西峠からの道がややこしい。まず西峠の国道と市道の間の道を左斜めに入り、国道を迂回して行く。
また国道へ出るので、●前方の細い路地に入る、入口に「おいせまいり」の札が下がって、わかりやすい。路地をまっすぐ進み、国道手前で右に折れて、進むと石垣の所に●墨坂伝承地の石柱が立っている。
  日本書紀を読むと,神武天皇東征で、大和宇陀まで来たとき、八十梟師(やそたける)が「おこし炭」をおいて防御していた為、墨坂の名がついたとある。そして即位後4年、天下を平定したので祭場をを設けて、髙皇産霊尊を祀った。その場を「上小野榛原(かみつおのはりはら)、下小野榛原(しもつおのはりはら)といい、その下小野榛原が墨坂の地だそうだ。
 石柱のある左手に「いせ街道」の道標があって、●階段を下りていく細い道がある。とても旧道とは思えないが、旧道だというのでここを下って行く。    15:40

 ■墨坂伝承地跡~榛原・札の辻
 
道なりに民家の中を進んでいくと、すこし広い道と合流し、●伊勢本街道のアーチが架かる道へ出た。ここは榛原の宿場と思われ、ちょっと道をそれると、●白壁の古い趣のある旧家が続いている、
 やがて江戸時代の国学者あった、本居宣長も宿泊したという●旧旅籠「あぶらや」が現れた。「あぶらや」は、伊勢本街道と(あお越え伊勢街道)の分岐点である、札の辻に位置する。交通の要衝としで栄えてきた宿場、萩原宿の中心にあり、明治時代末頃まで、旅龍を営んでいた。18世紀末ごろの建築で、あまり手が加えられていない貴重な建物だと云われている。

  ★札の辻
 ●札の辻には●大きな道標がたっており、「右 いせ本かい道 左 あをこ江みち」と彫られている。正面の洋館風建物は「旧南都銀行」の建物らしいが、現在はどうなのかはよくわからなかった。
 伊勢本街道は真っ直ぐ、進み、あお越え伊勢街道は左へ曲って行く訳である。次回は左を進み、あお越え道を伊勢まで行こうかと思っている。今日はここまでで終了することにした。近鉄榛原駅はちょっと進んで右折して行くとあった。 16:00

     2 榛原~名張