伊勢本街道を歩く 4 
  (柿野バス停~筋向橋・外宮)
歩行地図はこちら 地図
 柿野神社-不動前-小片野-芽原野-津留-相可-池上-伏拝坂-田丸-外城田-度会橋-筋向橋-外宮         32.3km(筋向橋まで)

伊勢本街道
 伊勢本街道は、榛原で初瀬(青越え)街道と分岐し、高井、山粕、興津、多気、田丸を通って伊勢市の筋向橋で伊勢参宮街道と合流し,内宮へ向う街道です。  関西方面から伊勢への最短距離なので、厳しい峠越えがあるものの、大いに利用されたが、峠小江の少ない初瀬街道を利用する参拝者が増加し、この本街道は次第に廃れていくようになっていった。距離は榛原から筋向橋まで84km程度、内宮までは90km程度。筋向橋から内宮までは歩き終っているので、ここでは榛原から筋向橋まで歩きます。
      今回は柿野から筋向橋、そして外宮までを追加して扱います。

■柿野神社~柿野小学校 ※ 写真をクリックすると拡大します
2012年10月22日  松坂の東横ホテルに宿泊し、8時半頃柿野バス停に到着。前日の最後だった●柿野神社にまず行く。
 「柿野神社」がある所は国道168号が南から来ており、「和歌山街道」と「伊勢本街道」が合流する場所にあたる。
 国道を進む。ここは「横野町」である。旅籠風な古い家が何軒か残っている。少し行った右手奥に●宝積寺があり、境内に道標が街道から移設されている。「みぎにはせみち ひだりき志うよしのみち」などと刻まれ、左側「天明2年のもの。このあたりの●櫛田川の景観も見事で、川底一杯に岩が広がり、端の方に水が流れているだけ。 8:58  

 ■柿野小学校~不動前
 小学校脇から左手に●脇道に入っていく。段丘であろうか少し高台に旧道が続いている。国道に合流する先に、石尊大権現の石碑と深野棚田への案内板がある。「松阪牛のふるさと」という案内もある
 道は櫛田川に架かる大橋の所で、左へ行く国道と別れ、真っ直ぐ進む。「大石宿」に入って行く。旅籠が点在していたというが、現在は面影は無く、途中左手に「庚申堂」があり、その前の石垣に●「大石の道標」が組み込まれれている。「大石宿、これより宮川へ七里、はせよりここまで十五里半」と刻まれている。
 旧道を進むと再び大石町バス停で国道と合流し、国道を横断して円弧状に旧道を進む。このあたりには●「連子格子の家」が数軒立ち並んでいる。ここまで大石宿が続いていたらしい。 再び国道に合流し、しばらく進むと前方にユニークな●「常夜燈」が迎えてくれる。ユラユラした形でいまにも倒れそうな常夜燈だ。   9:37

 ■不動前~小片野
 少し進むと滝の水音が聞こえて来る。●「不動滝」がある。ここにあるのが●大石不動院である。弘仁3年(812)弘法大師の創建になる。境内に「役行者」の石像がある。
 本堂の先に池があり、「ムカデラン群生地」の案内板が立っている。ムカデランの名前は初めて聞いたが、池の上の岩にムカデランが群生しているとか。見てもよくわからなかった。 道は●大石バス停手前で、叉国道と離れ、南側を円弧状に回る。「小片野町」の町に入る。  9:54

 ■小片野~芽原野
  国道から分岐した静かな街並みを進む。しばらくなだらかな下り坂が続き、●根尽坂(乞食坂)と呼ぶらしい。県道を越して再び国道と合流する。 小片野東信号を渡って、今度は右回りの円弧状にに進む。再び国道を渡り返すと、●前方の崖にぶつかった。左手脇のフェンスの中に●「石地蔵」が祀られている。 道標も兼ねており、「右山田六里 観照 左 ???」と刻まれ、左上部は欠けてしまっている。 この左側から来る道は昔の「和歌山街道」で、ここから柿野神社のある、横野まで伊勢本街道」と一緒になって和歌山へ向っている。 ここを右に折れ、●県道700号の坂を上って行く。る。途中から旧街道に分岐し、下芽原の田園風景の中気持ち良く進む。 この間に常夜燈があるということだったが、見当たらなかった。   10:21

 ■芽原野~津留
 ●芽原野の信号の所で右に折れ、ちょっとした旧道に入る。合流する手前の角に●庚申塔がある。貞亨5年(1868)に寄進さ
れたもの。 下芽原バス停の先に赤い津留橋が見え、その手前に「津留の渡し跡の案内板」が立っている。手前を左へ入ると、●津留の渡し跡である。大きな自然石の道標があって、「右さんくう 左まつさか道」と刻まれている。
 津留の渡しは宮川の柳の渡しと共に伊勢本街道の難所といわれていた。櫛田川は江戸時代「つる川」と呼ばれていたので、ここを「つるの渡し」と呼ぶわけである。川は増水すると川留になるわけで、その水量を計る目安としていた●「はかり石」という岩があった。これが水没すると川止めにしていた。はかり石の表示がなくどれだかわからなかったが、それらしい岩が一つ見えたのでそれだろうと思う。  11:00

 ■津留~上牧
  ●津留橋を渡り多気町に進む。少し行った先に●左に入る小道(後ろ向)があり、ここが渡しへ向う旧道だった。その向いに●道標があって、津留の渡しから来た旅人が見るもので、昔は、反対の東角に立っていた。「左いせ道」と刻まれている。
 しばらく●直線道路を進む。歴史の道調査報告書によると、旧道はうねって進んでいたようであるが、民家の中に入ってしまうのでたどることは困難。   11:20

 ■上牧~中牧
 上牧バス停の先で、右手に●石垣で囲まれた「用水池」があり、ここを右手に下りて行って用水池の脇を通る。池は自然湧水を利用し、昔の旅人の喉を潤し、土地の人は今でも野菜などを洗うのに使っていたというが、濁ってそのようには見えなかった。 池の脇の石段を上がり、その先は畑であり、旧道がわからないので、あぜ道を適当に回り込んで行くと、左手に●「道別れ地蔵」、「行き倒れ地蔵」、「廻国供養碑」が並んで立っている。 県道を横切って●畑が広がる野道を進む。途中の四辻に「道別れ地蔵」が立ち、「右いせみち、左まさかみち」と刻まれている。   11:32

 ■中牧~鍬形不動
 ●「伊勢自動車道」の高架をくぐって進む。右に大きく湾曲して●櫛田川沿いの道になる。このあたりの櫛田川は岩も少なくなり、水量も多くなってきた。
 やがて右手に鍬形不動が建って、その前に●「仏足石」の碑が立つ。仏足石は釈迦の足跡のことで、仏教が広まったころ仏像の代りにこれを拝んだ。旅人はここを通るとき、ワラジを奉納して旅の安全を祈願したという。 その先、丹生大師道」への道標、「津田村道路元標」など見ながら進んで行く。   11:53

 ■鍬形不動~四疋田
 相馬バス停の先で、本街道の案内板があって、●右手に入る分岐がある。すると正面に一里塚のように盛られた盛り土の上に松が植えられている。●「伊勢三郎物見の松」という。源平の昔源義経の家臣、伊勢三郎が、頼朝の軍勢の攻めてくるのをこの松に登って主君を守ったという伝説の松。松が若く、5代目とのこと。その横には「いぼ地蔵」が祀られ、「廻国供養塔」が立っている。
 その先は田園風景の中を、大きく右へ曲り、集落を左に曲り、200m程進んで叉、左へ曲り県道に戻る。なぜこんな風になっているのかよくわからないが、三重のマップではそのように進んでいる。
 県道を進むと「歯痛(はやめ)地蔵」というのがある。県道に戻って10分ほど歩くと、●四疋田のバス停に着く。右手に大きな●「四疋田の常夜燈」が立つ。総高5.5m、「伊勢本街道」で最大のもので、四疋田組の大庄屋・三谷蒼山(1779~1841)が亡くなるとき、後世まで献灯するようにと遺言したことによって、弘化2年(1845)に建てられたものである。 12:44

 ■四疋田~相可・札の辻
 四疋田バス停から左へ入り、裏道をバス停1つ分歩いておく。県道に戻って進むと、道路に覆い被さるような●ムクの大木があった。左隣は県立相可高校である。相可高校は調理科が全国的に有名で、ちょくちょくテレビに出てくる。
 ムクの木の隣に●西行の歌碑が立っている。この場所を「千鳥ケ瀬」と呼び、西行は参宮の折、しばらく滞在して、歌を詠んだ。ムクの根元に「塞の神」祀られ、●寛政4年の燈籠が立つ。
 高校の前を通って相可の町に入る。相可は伊勢本街道、熊野街道、櫛田川水運とが交錯した、水陸交通の要地であったので、古来から伊勢本街道の宿場として栄えた。古い建物が立並び、往時の賑わいを彷彿とすることができる。
 高校の芽をしばらく行くと、右手に広場があって、高札場があったので、●「札の辻」と呼ばれる。叉昔は盆踊りなどを楽しんだ場所だというので「踊り場」とも呼ばれる。ここに●2基の「道標」が立ち、。「伊勢本街道」、「すぐならはせ道」、「右くまのみち」と刻まれている。ここで伊勢街道と熊野街道が交差していた。  12:58

 ■相可・札の辻~広小路
 道標広場の隣に●長新本舗という老舗の和菓子屋さんがある。名物「まつかさ餅」を販売する。車が何台か止り、繁盛している感じ。創業は江戸後期で、「まつぼっくり」に似ているのでこの名がある。
 県道を越すと道が広くなって、鍵の手のようにS字形に曲っている。越後屋という遊女屋があって、取壊された為に変形な三叉路となり、その後広小路と呼ばれるようになったそうである。その左手に●鹿水亭の建物がある。鹿水亭は明治中期まで車屋の屋号の旅籠だった。現在は屋号を変えて、料理旅館になっている。
 その先の左手に●おんばさんという石灯籠と小さい祠がある。子どもの百日咳に霊験あらたかな乳母神という。 13:06

 ■広小路~西池上
 そのまま旧街道を真っ直ぐに進み、国道の高架をくぐり●田園風景の中を歩く。前方に古墳のようにこんもりとした小山が見えている。小山の左裾野を行き、JR紀勢線の踏切を渡った。
 しばらく行くと、右手の林の中に小さな●「水分神社(みくまりの社)」がある。地元では「ショウズンさん」と呼ばれている。昔は清水が湧出ていて、茶屋で休む旅人の喉を潤した。 佐奈川を渡ると●西池上の集落に入る。黒板塀の重厚な建物が見受けられる。  13:45

 ■西池上~東池上
 左手の民家の前に屋根付の立派な●「金粒丸の縦看板」 が堂々と立っている。高さ197cm、幅59cmの看板で、文字は良く読めないが、「本家勢州神山薬師前いけへ村御免きんりうくはん江戸芝神明町分家之外無類大好庵店」と書かれているらしい。この家は明治末年に販売権を本家から譲られた西村家である。
 少し先にある金粒丸の本家、「商家・大好庵」の建物は工事中でブルーシートに覆われ見られなかった。
 しばらく歩くと●「西池上常夜燈」が右手にある。天保15年(1844)のもの。笠が円形に作られ、裏側に石段が設けられている。 東池上に至ると、●道を半分ずつに分けるような分岐点が現れた。正面に●明治31年の道標が立って、「すぐ さんぐう 右 とばかさぎの中」、「すぐ ならはせ」と刻まれている。本街道は左へ・・と案内板があるので、案内に従って左へ行く。14:00

 ■東池上~伏拝坂
  JR参宮線の線路を渡って行くとダイヘンの工場のフェンス沿いの道になり、工場脇の大きな道から、道標に従って●林の中の道に入って行く。「出羽茶屋」という所。ここからの道は雑木林の中であったり、集落の中を通ったり、田園の中であったり、色々変化のある道で、気落ちが良い道になった。前方に犬を連れたおばさんの姿が見える。
 しばらく行くと、切り通しの道になって、左手に●伏拝坂・石燈籠」の説明板が立つ所に来た。昔伊勢参りに旅人がここまで来て、お伊勢さんまでの距離を尋ねたところ、「三里山道 五里畷」と聞き、これから先の難儀を思い、参宮するのをあきらめ、東の空を伏し拝んで残念そうに帰ったという伝説の場所である。ここは後に勾配を緩くするために山道を削ってあるので、実際の道は数メートル上を通っていたので、上に上がって見ると●「両宮遥拝所献燈」の石碑がある。昔はここを通っていたことになるわけ。 
  14:37

 ■伏拝坂~上町三叉路
 やがて前方にこんもりとした小山の左側を巡って、水田の所を左折、右折して進む。小山の中には「棒原神社」があるようだ。 「茶屋」という所へ来ると、左手に●石碑が沢山立っている所があり、その脇に●正念僧・人柱供養碑塚がある。二百数十年前、この街道を正念という老僧が歩いており、書き写した経分を全国66か所の霊場に奉納しようとしていた。ここまで来た時、病となり死を悟った正念は街道を往来する旅人の安全を祈り人柱に立ったそうだ。村人がこれを憐れみ、塚を建てた。
 続いて400mくらい先の所に●上田辺羽根遙拝所」というのがあって、鳥居と常夜燈が立っている。説明がないのだが、ここから神宮を遙拝する場所と思う。 県道を渡ると、●三叉路に出た。左手に真新しい道標があって、「はせ街道・道標」が立つ。ここにあった古い地蔵道標は盗難にあって今はありませんと、うらめしく書いてある。  15:24

 ■上町三叉路~田丸駅
 田丸の街並みに入って行く。田丸の町は北畠親房・顕信父子が南朝義軍の拠点として田丸城を築いて以来、城下町として発展してきた。 三叉路を右折して行くと、右手に●「田丸神社」の鳥居が立っている。今日は時間もないので参拝は次回として、通り過ぎた。 神社の南側に「田丸城跡」が広がるが、これも次回寄ることにして、そのまま進んで行く。
 右折すると京口橋と呼ばれ、橋のたもとに大門が設けられていた●「玉城橋」を渡る。ここは田丸城の堀の上に架かっている。大手門橋から伸びている道の角に「熊野街道と伊勢本街道の分岐点の「道標」が立っているが、今日はここまでにしようと思ったので、ここも素通りして、●田丸駅に向った。 えきに着いたのが3時40分。早く着きすぎてしまった。参宮線の亀山方面が1時間に1本しかなく、次は4時17分。コーヒーでもと思ったけど、駅の回りにはな~んにもなく、自販機のコーヒーを買って帰った。柿野神社から駅までは25km程度。参宮街道の合流点の筋向橋まで6km位でゴールとなる。   15:40

 ■田丸駅~田丸城跡
 2012年11月4日

 京都から亀山経由 参宮線で田丸駅10時半頃到着。早速前回通過ぎた●田丸神社へ寄ってみた。1組だけ七五三で参拝中の親子がいた。神社は城跡の北側にあり、元々上町氏神天神社があった。神社合併令により明治41年田丸町内の様々の氏社を合祀して田丸神社になって、境内の石灯篭や鳥居はいろいろなところから持ち寄られたものという。
 この後、南側の●田丸城跡へ回った。延元元年(1336)北畠親房、顕信が南朝義軍の拠点として城を築いたことに始まり、後に織田信雄が三層の天守閣を備えた城を築いた。明治維新の際に廃城となった。区域内に学校や、役場が建ち、水壕が円形に大部分残っていたり、石積みが整備され直されたりして、割と昔を偲びやすいかと思う。●天守台からの風景はなかなかのもので、まさに強者どもが夢の跡という感じがする。      11:00

 ■田丸城~外城田橋
 さて、街道に戻り、玉城橋を越え、左折、右折して行くと●熊野街道と伊勢本街道の合流点やって来る。角に●古い道標が立ち、「右 紀州街道 左 よしの さんかふ(くう)みち」と刻まれている。
 道標を過ぎて、百五銀行の所を右折して、また左折して真っ直ぐ●田丸の町並の中を進んで行く。田丸は城下町であったが、伊勢本街道と熊野街道の分岐点であるため、宿場町の性格が強い。伝統的な建物もいくらか見受けられる。
 外城田橋を過ぎると、右手にオブラートの製造で財をなした●小林政太郎の生家であるという。   11:24

 ■外城田橋~尾崎記念館
 しばらく行くと、右手に●常夜燈が現れる。明治31年のもの。その先の交差点のはずれに●木の鳥居に注連縄のようなものが下がり、地神のような石碑が祀られている。
 真っ直ぐ続く道を進み、JR参宮線の踏切を渡り、城田の集落に入る。しばらくすると田園の中を進むようになり、宮川に近付いて来た。 川端バス停の先で右折すると宮川の堤防が見え、右手が●「尾崎咢堂記念館」である。東京都の名誉都民第一号であるし、伊勢との関連がよくわからない。特に入ることはなく、園の中を少しのぞいて、宮川の堤防に上る。       12:30 

 ■尾崎記念館~中島
 この辺りは「柳の渡し」があった場所で、「渡しの案内板」が堤防したに立っているが、文字や絵が摩滅して全く読めない。このあたりで対岸まで渡し船で渡り、神宮に向かったわけだ。
 現在は●度会橋を渡る。そうしたらちょうど「全日本大学駅伝」に遭遇した。早速しばらく見物していくことにした。●テレビ中継車が通過していき、我が母校●W大学の走者が3番目に通過して行った。かけ声を1発掛けておく。 橋を渡ってすぐ土手を下り、●中島の町へ入った。神宮はすぐそこ。   13:15

 ■中島~筋向橋・宮町
 左折し●県道を進む。日曜なので店はほとんど閉っている。このあたりはあんまり人通りがないようだ。そのうち道路の両側に欄干だけが出ている所に来た。●「筋向橋」という。江戸からの参宮街道と合流地点となる所である。左手の横丁から参宮街道が合流してきている。下を流れる清川が暗渠になっているため、昔を偲んで、形だけの欄干がコンクリートで作られている。説明板
 さて 本来ならば伊勢本街道はここがゴールで、ここで終る訳で、距離の計算もここまで。この先は参宮街道編を参照してほしいのですが、せっかくなので外宮まで歩いてしまおうと思います。
 筋向橋の先を進んで行くと、●御師「福島みさき太夫邸跡」というのがある。御師は現在で言う神宮へのツアーコンダクターのような存在で、全国の檀家を廻ってお札や伊勢暦などを配って参宮の勧誘をしたり、神宮を訪れる伊勢講の人々の宿泊や案内の世話をした。関東の大山など各地に御師が存在し、外を「オシ」と呼び、神宮だけ「オンシ」と呼ばれる。  13:40

 ■筋向橋・宮町~外宮
 太夫邸の向いが●「小西萬金丹本舗」。ご存じ伊勢参りのナンバーワンのお土産の「万金丹」のお店。建物は江戸前期の伊勢を代表する妻入の建築である。玄関が開放されており、●屏風が何枚も立てられている。
 さてNTTの裏側が旧道らしいが、通れないのでそのまま通過して、北御門口から入り、●北三門鳥居から本殿へ向った。
 この先古市を通って内宮へ向うわけだが、3回目でもあるしここで取りやめて、赤福の喫茶店で赤福餅など味わい伊勢市駅から帰宅した。  14:30   古市・内宮へ続く             伊勢本街道終了

     3 伊勢奥津駅~柿野バス停