奈良上街道を歩く 
   (猿沢池~慈恩寺追分)
 歩行地図はこちら  地図
 猿沢池-ならまち-帯解寺-天理-丹波市-大和神社-箸墓-大三輪-初瀬川-大和朝倉駅      20.85km

奈良上(かみ)街道
 
  上街道は、古代から続く上ッ道を基礎として、その道筋の一部区間を変更しているが、奈良、天理、三輪、桜井といった町を結ぶ幹線道路として機能し、また大坂から奈良を経由して、長谷寺、室生寺から伊勢方面を結ぶ「伊勢街道」のひとつとしての役割を果した。
 大阪から暗峠越え猿沢池までやって来た旅人は、猿沢池から一路南下し、慈恩寺まで至り。そして初瀬街道を利用して伊勢へと参っていたわけである。
 
 参考資料
  近鉄てくてくまっぷ(伊本-4) ならまちから帯解コース
      〃      (伊本-5) 天理の町並みから古墳巡りコース
  <kaz> のホームページ 「伊勢本街道を歩く」 外

■猿沢池~ならまち
 2012年4月15日  近鉄「奈良駅」8時30分到着。前回暗峠越えで猿沢池までやってきた訳で、今回は猿沢池から桜井市慈恩寺までの上街道を歩く。上街道は奈良の南北を繋ぐ、幹線道路であったが、大阪から伊勢へ向う伊勢街道としても重要な道となっていた。慈恩寺から初瀬街道を経由し、伊勢へ向いたいと思っている。
 ●猿沢池。興福寺・五重塔を背景にして、手前の石の上に亀が数匹、甲羅干しをしている。池の西堤から嶋嘉橋を渡ると、両側に常夜燈が立って、通称●「ならまち」へと入って行く。
 「ならまち」は正式の地名ではなく、1979年から当時の若者が中心となって「町おこし」で整備してきた事業で、今御門町など付近の町一体を含んでいる。元々奈良時代に栄えた元興寺の旧境内に作られている。「今御門町」に入ると、道の両側に旅館、飲食店が並び、左手角に●猿田彦神社が鎮座している。鳥居横に「上ツ道 伊勢街道」の柱が立つ。    8:45  

 ★ならまち内
 「ならまち」は長方形の旧「元興寺」境内から成立っていて、ぐるっと一回りしてみる。まっすぐ南下したつきあたりは●菊岡漢方薬局」で、創業は元暦元年(1184)。もっとも三条から平成14年に現在地へ移転したという。
 右隣が、旧元興寺本堂跡に建つ、●私設奈良町資料館という。奈良町のパワースポットといっている。民具、民俗資料を展示しているらしい。開館前だったので入れなかった。
 ぐるっと回って来ると、●元興寺塔跡というのがある。旧元興寺の境内は南北4町の規模を誇ったが、中世以降衰えて、この地には五重塔が建っていたが、安政6年(1859)焼失してしまった。土台と礎石だけが残っている。   9:05

 塔阯を出て、南下した角にあるのが●御霊神社で、御霊神社という名前の神社は、日本各地に存在しており、御霊信仰に基づき、ある人物の御霊・怨霊を鎮めるために創建されたものである。ここの神社には井上皇后、他戸皇太子、早良親王、藤原広嗣などを祀る。昔は疫病が流行ると、上街道、中街道、下街道にそれぞれ神輿を据え、疫病神が町内に入り込んで来るのを防いだとか。
 奈良町を出て、すぐ右手にある●「砂糖傳」の増尾商店。安政元年(1854)創業の砂糖専門店。元は大和茶の店で、大阪方面にお茶を運び、帰路に砂糖を仕入れて販売するようになったのだとか。
 ●ならまち格子の家。奈良町の伝統的な町家を再現して、観光案内所にした建物です。町屋造はかなり見ているので、地図だけもらっておいた。     9:10

  ■奈良町~帯解寺
 ならまちを通過して一路南へ進んで行く。●ほぼまっすぐだが、多少ジグザクしている。JR桜井線が右手につかず、はなれず併走している。京終駅近くの右手に●伊勢燈籠が2基並んでいた。文政13年の銘がきざまれている。道の両側に並ぶのならまだしも、2つ並んでは常夜燈の意味がないので、道の拡張のため移動されたのだろう。
 京終(きょうばて)という意味は平城京が遷都されて、ここあたりが「みやこの果て」ということで、こう呼ばれる。
 出屋敷町を過ぎて、街道の家並みが尽きると、●田園風景が広がった道となってくる。ため池もあたりに沢山ある。 9:55 

  ■帯解寺
 やがて帯解寺に近づい来ると、あたりは寺門町のためか、古い造りの家並みが続いている。右手に●帯解寺が見えてきた。元々空海の師である勤操大徳によって開かれた巌渕千坊の一つであった寺が、9世紀、文徳天皇の妃(藤原明子)が永年、子どもに恵まれず、本尊・子安地蔵菩薩に祈願されたところ、惟仁親王(のちの清和天皇)を無事出産した。その為、無事帯が解けた寺、帯解寺(おびとけでら)と勅命したという。江戸時代、安産祈願の寺として有名になり、徳川家、現在でも、皇族が安産祈願を行っているという。●境内桜が満開で、結構参拝人がいて、さすがに妊婦の人が目立つ。
 裏手に●小野之宮址というのがあり、小祠が建っている。江戸時代「小野之宮」という建物が存在していた。小野小町も病が快癒して伊勢に向かう途中、帯解寺へお参りされて、しばら滞在したのだろうと、ここに小町を追慕する祠が建てられたようである。   10:05

 ■帯解寺~楢神社
 帯解寺のすぐ先左手に、●帯解子安地蔵尊と書かれた龍像寺があるが、どう帯解寺と関係するのかはよく分からないが、こちらの境内は人気なく閑散としている。広大寺池を過ぎて、田んぼの道を歩いていると、桜井線に●面白い電車が通過して行ったので一枚パチリ。先頭の車両には桜の絵が描かれ、2両目は何だかわからなかった。
 ●藏之庄町を過ぎる。白壁や虫籠窓の民家が点在している。菩提仙川を過ぎると、道は少し左へ曲って行く。   10:30 

 ■楢神社~西名阪自動車道
 楢(なら)町にはいる。櫟本町との境目の左手に●楢神社がある。銅製の変わった鳥居が立っている。正面に八代目市川団十郎が奉納した井筒があり、成田屋の定紋である三升が刻まれている。鬼子母神が祀られ、子授けの神様として信仰がある。●本殿は1間社の春日造り。端正で美しい。
 神社の先の駐車場の角に●道標「左 不動山大師道」と指し指付の道標「和珥坂下傳しょう地とある。東の方向に「和爾」町があって、帰化人の豪族ワニ氏の本拠地だったとされている。右手に●山ノ辺の道の道標もあった。   11:0

  ●大阪府奈良警察署櫟本分署跡と書かれた建物があり、天理教教祖・中山みきが最晩年、投獄されていたと伝える。教祖数え89歳、30年来の寒さの中でも、平然と12日間を過ごされたというので、相当厳しかったにちがいない。
 少し先、左手に「市場自治会館」に街道の案内板が立っている。会館の脇を東西に走る道は●高瀬街道で、・・・・上街道と高瀬街道の交わったところで古くから市場が開かれ、商業の活発だったことから「市場」という小字名がついています。 上街道から東方へ高瀬街道に沿ってのびた部分を「馬出」と呼び、主に大和高原(福住方面)から薪炭を載せて下り、この地で荷をおろし、帰りに食料品や日用品を買って帰る人馬で賑わったところです。 また、荷を運ぶ馬をつないだ●「馬つなぎ」の遺構も残されており、昔は流通の中継地として賑わった所です・・・・・・・・という説明がある。       11:12

  ■西名阪自動車道~天理アーケード
 西名阪国道を過ぎて、すぐ左手の民家の脇の小公園みたいな場所が●在原寺跡。元々在原寺と業平神社があったのだが、明治の廃仏毀釈によって在原寺が廃寺になり、在原神社として残っている。
 この地は業平が紀有常の娘と居を構えた地と伝えられ、在原業平とその父阿保親王が祀られている。境内に残る●「井筒の井」がわずかにその跡をとどめていた。(井筒の井とは井戸の地上の部分を石や木で囲んだものをいう)。
 ●石上(いそのかみ)町の町並を過ぎて行く。     11:27

  石上町を過ぎると、左へ円弧を描いて、曲って行く。途中に●注連縄が張ってある神木があり、その先で右折すると、途端に天理教の宿泊所である「詰所」が沢山現れてくる。「詰所」というのは、各都市、地方別に建ってあるもので、数はどのくらいあるものなのだろう。
 次第に天理市街の中心へ入り、前面に●天理商店街のアーケードの天井ドームが見えてきた。この●アーケードは奈良県下最大のもので、例祭日には信者であふれるらしい。山辺の道を歩くと、たいがい帰りは天理駅なので、ここを何回も通っているのだけど、いつも閑散としていて、混んでいるのは見たことがない。ここで昼食を摂った。   11:55

  ■天理アーケード~丹波市・市場跡
 アーケードを過ぎて、●旧家がちらほらする中を進み、国道25号を越えると丹波市町。室町時代から丹波庄の市場、つまり丹波市として活況を呈したという所である。一部分だけ道が広がり、道半分に●屋根と柱だけの木造の施設が立っている。よく市場で見る、柱だけの施設で、昔の魚市場の跡という。
 通過ぎてから●市場跡の写真を撮った。120m位の長さで広くなっている。暗渠になっているが、真ん中に川が流れ、魚など洗ったのではないかと思う。    12:35

 ■丹波市・市場跡~大和神社
 左手に●市座神社がある。今も丹波市の名にふさわしく市場の守護神として尊崇され、毎年1月7・8日には商売繁盛を祈願する「八日恵美須祭」で賑わうという。
 三昧田町と福知堂町との境付近で東へカーブする道の右手に●八坂権現がある。文久3年(1863)9月25日、岡見留次郎ら五人の天誅組(てんちゅうぐみ)の志士は、この社の裏手で藤堂藩士によって捕らえられたそうである。
  突き当りの●小さな藤棚の下に、●芭蕉の句碑が建っている。貞享4年(1687)年、弟子とともに故郷の伊賀を発ち、吉野・高野・紀伊を回って京へ向う途中この地で藤の花を見て詠んだ句と伝えられています。
          「草臥(くたびれて)て 宿かる比(ころ)や 藤の花 」 はせお                     13:00

 ■大和神社~五智堂
 街道は国道169号を越え、すぐ右折して、再び国道を渡り、南下して行くと、右手に大きな●鳥居が見える。大和(やまと)神社である。日本最古の神社であると、謳っている。鬱蒼とした長い参道を抜けると、どっしりとした社殿が東面して建っている。 また戦艦大和の守り神として有名であったが、大和は昭和20年、沖縄沖で沈没してしまい、亡くなった英霊が●祖霊社に合祀されている。
 街道と交差する角に柱と宝形造の屋根、真ん中に太い心柱●五智堂とよばれるお堂がある。心柱上部に四佛の梵字額があり全体で五智如来をあらわしている。ここは長岳寺の飛び地境内で、参詣者や街道を歩く旅人の目印にもなり親しまれた。

 ■五智堂~箸墓
 大和神社から南方、黒塚古墳、崇神天皇陵、景行天皇陵など、大きな古墳が多い。大和・栁本古墳群と呼ばれる。左手入った所の●黒塚古墳は古墳時代前期の前方後円墳。33面の三角縁神獣鏡が出土したことで有名。
 左手に●穴師大明神の鳥居が立っている。東にある、大兵主社の参道の鳥居と思われるが、壊れた石材が積まれていて、参道の感じがしないでもない。     14:30

 JR巻向駅を右手に見て行くと、街道は桜井線と国道169号線により寸断されてしまう。そこで国道のガードをくぐり、階段を上がって、線路を越えて行くと、●跨線橋から箸墓古墳を前方に望むことができ、旧道が古墳にむかって延びている。
 ●箸墓は3世紀半ばの大型の前方後円墳で近年、卑弥呼の墓と造立時期が同じ頃で、規模も近いということで、卑弥呼の墓と断定する学者もいるくらいなので、邪馬台国、畿内説の有力な根拠の1つとなっている。現在は倭迹迹日百襲姫命墓(やまとととひももそひめのみこと)として宮内庁管理なので、発掘できないのが残念だ。   14:45

  ■箸墓~大三輪
 
箸墓から大三輪へ向う。ここも旧家がちらほら。「大三輪中学」を過ぎて、真っ直ぐ行ってしまうと国道にぶつかるが、その途中、●左手に接骨院の見える角を左へ入って行く。
 大神神社参道を横切ると、右手に●大神神社の一の鳥居が見えた。旧道は参道を越え、趣のある町並みを進む。突き当った、円融寺のあたりで東へ曲がる角の民家の塀脇に●道標がある。「左 はせ いせ たふのみね」などとある。ここを左に曲る。    15:25

  このあたり、東側にJR桜井線「三輪駅」があり、初瀬街道沿いの宿場町として栄えた所にあたり、伝統的な町並みが多く残る地区になる。右手に堂々とした商家があり、軒に古風な看板が乗っている。●明治23年建築の三輪素麺問屋。池田家。菊の御紋入りの看板「緒環素麺司」は明治天皇の天覧をきっかけに掲げられたものという。
 ●恵比須神社の角を右折する。日本で最初に開かれた市場は、海柘榴市(つばいち)と呼ばれる市で、恵比寿神社は守護神といわれた。その後、延長4年(926)の大雨で、初瀬川が氾濫して、市は三輪の地へ移転した。同時に守護神も三輪に移された。右折して進むと、中程に、創業弘化元年(1844)の菓子司●白玉屋榮壽創業店。みむろ最中が有名らしい。

  大三輪~初瀬川
 
初瀬川を渡る、出口橋手前で左折し、JR桜井線を横切り、東方へ進む。左手に天理教の大きな建物がある。●「金屋バス停」の所で、県道と別れて左手の細い方の道へ入る。旧道らしい趣のある道となっている。左手奥には「山辺の道」を歩いたときに寄った、金屋の石仏や海拓榴市観音堂がある。
 再び県道にぶつかり、●正面は大和川(初瀬川)。そこに●小さな道標が立っている。「左 はせ いせ」で下半分が隠れてしまっている。    15:50  

  県道に出てから、東へ向うのだが、県道を行っても面白くないので、土手沿いを歩くことにした。馬井手橋の横に●仏教伝来地之地碑が立つ。ここは山辺の道スタート地点でもある。大阪から大和川を遡ってくる川船の終着地点であって、欽明7年(538、又は(552)、百済の聖明王が仏像、経典をもたらしたという訳である。
 中和幹線の下をくぐり、●慈恩寺北交差点へ達した。一応ここが伊勢へ向う「初瀬街道」との分岐点であるという理解で、本日はここまで。帰りは初瀬川の向う側にある●大和朝倉駅から近鉄で京都へ帰った。   16:15