伊勢参宮街道 3 
        櫛田駅~伊勢外宮・内宮
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 櫛田駅-櫛田川-斎宮-明星-新茶屋-小俣町-宮川橋-八日市場-外宮-古市-おはらい町-内宮    19.85km


■豊原南信号~櫛田川 ※ 写真をクリックすると拡大します
 2012年7月16日
 8時55分
 昨日泊っていた「松坂 フレックスホテル」を出て、松坂駅から櫛田駅へやって来た。早速●豊原南信号あたりから歩きを再開する。 県道37号を渡り、そのまままっすぐ進むと昔の立場の●豊原村、現在の豊原町。櫛田川を控え、俗にくし田とも呼ばれ、宿駅ではないが、茶店が多く、宿泊もできた所。左手に連子格子の古い家があるが、「今井本」に記載のある、「紅葉屋」にあたるかどうかはわからない。 現在の櫛田川の下流に昔は板橋が架かっていたといわれるので、旧道を巡って、現在の櫛田橋を渡るために、土手のあたりをぐるっと回るように歩く必要がある。
 堤防に突き当たり、ここを左折するが、その角に●「左さんくうみち」「右い賀みち」と彫られた文政2年(1819)の道標が立つ。次の角を右折すると、再び櫛田川の堤防に突き当たる。ここに●宇治山田、津、松坂などへの里程を刻む里程標がある。江戸時代には渡し場があった所、ここから春、冬の渇水期には仮橋で、夏、秋の増水期には舟で、対岸へと渡していた。現在はもちろん●櫛田橋を渡る。    9:10

 ■櫛田川~斎宮
 櫛田橋を渡って、すぐ左折して、旧道のあたりから先に進む。●稲木へ入って来た。かっては茶屋や旅籠が点在していた所という。いくつか古い家が残っている。左手に●六字名号碑という石碑が立っている。文化14年(1817の)建立。正面には6文字の梵字が刻まれている。 ●祓川を渡る。斎王群行の際、ここで祓いをして斎王宮に入ったことから名付けられた。200m先、左手に●「従是外宮三里」の道標がある。外宮まで12km。    9:40

  ■斎宮~竹神社
 
道標を過ぎると●斎宮。地名は古代斎王宮の御所が存在していたことに由来する。その御所の跡は近鉄の線路を越した500m程の所にあり、「斎宮歴史博物館」が建っている。行って見ようという気持はあったけど、時間が惜しいのと、建物が大きく見るのに時間がかかると思われやめにした。
 近鉄「斎宮駅」の北側に●「いつきのみや歴史体験館」という資料館がある。ここでも斎宮関係の展示が行われているというので、こちらに入って見た。斎王の乗った葱華輦(そうかれん)が実物大で展示されていた。歴史関係の展示は大体わかりやすいもので、手頃。 街道に戻り先に進むと左手に●斎宮城跡というのがある。竹神社の境内のようであるが、室町時代住民、野呂三郎が城砦を築き、勝手に徳政を敷き、狼藉を働いたので、国司北畠材親はこれを討伐したと簡単に説明されているだけで、詳しいことはwからない。   10:15

  その隣に●竹神社がある。野々宮跡であり、竹の名については、親王を竹の宮と呼び、また多気郡の名前もここから起ったのだと云われる。境内には●嘉永7年(1854)の自然石灯籠が立っている。これは池村氏神の饗庭の森八王子の常夜燈として建立されたものをここに移転したもので、自然石の造としてはかなりの規模を持つ。 左手に●「天満宮の道 四丁」という道標が立っている。北野天満宮への道しるべ     10:25

 ■竹神社~明星
 
その先左手お中町公民館隣に●永正10年(1513)の「六地蔵石幢」がある。石幢(せきどう)とは石造建築物の一種で、六角または八角の柱状の本体と笠・宝珠などより構成されるもの。 斎宮は神領のため、明治初年の神仏分離令によってこの地のほとんどの寺院は廃せられ、中町地蔵院もその際廃寺となったが、この六地蔵石幢だけが残っているという。 ここには他に庚申堂3棟、山神5基がある。 左手に、●2基の道標がある。手前の道標には「斎宮旧蹟蛭澤之花園」と刻まれ、天然記念物どんど花(野生菖蒲)群生地への案内。奥の道標は「斎王隆子女王御墓従是拾五丁」と刻まれ、天延2年(974)病気のため斎宮で亡くなった斎王隆子女王の墓への案内という。
 その先の「勝見」交差点の手前角に3基の小さな「山神」が並んでいる。明星に入り、右手に●「そうめん坂」という標柱がある。江戸から明治初年まで、この辺りにそうめん屋があったことから名づけられた。そのとおり緩やかな上りになっている。10:53

 ■明星~新茶屋
 
●「水池土器製作遺跡」、右手へという案内があるので、どんなもんだろうと入っていった、案内板によると、古代の土器の工程がわかる全国でも珍しい遺跡だというが、史跡公園になっていて、昔の状況は全くわからなかった。
 ●明星の町並は、切妻、連子格子の古い家などが残る。昔は隣の新茶屋と同じ立場で、宿駅ならねども茶屋多し・・といわれた。
 新茶屋に入る。昔、煙草入れが名産で、煙草入れ屋をやっていた、秋田屋をはじめ何軒かの茶屋があったというが、面影はない。左手に●嘉永6年(1853)の「従是外宮二里」の道標がある。外宮まであと8km。三重のマップとは位置が違っていた。
 左手●弘法大師堂があり、この先から伊勢市に入る。   11:36

 ■新茶屋~明野
 明野い入って、右手に●徳浄上人千日祈願の塔というのがある。天保7年(1836)に建立された。庚申塔を霊場にしていた
徳浄上人が、大飢饉・疫病に見舞われた村民の窮状を目の当たりにし、その救済のため、雨の日も風の日も伊勢神宮両宮に
千日の開素足で日参したという。その徳を称えて建立したもの。右側に寛保元年の廻国供養碑もある。
 その先県道713号にぶつかり右折して進む。正面に椎の大木が立っていて、●「しいの辻」と呼ばれている。
 左手に安永4年(1775)創業という●老舗「へんばや」がある。へんばというのは、当時駕籠や三宝荒神(馬の3人乗り)で参宮する人達がこの店で休憩し、ここで馬を返したということから名付けられたという。    11:57

  ■明野~小俣町
 
相合川に架かる相合橋を渡って進み、新出の信号から右斜めへ伸びる旧道に入る。左手に庚申堂がある辺りから●新出という集落に入る。道は真っ直ぐ延びており、街道に面した切妻造りの家が多い。
 外城田川を渡るが、この川は平時は水量が少なく、雨が降るとすぐに増水したことから「貧乏川」と呼ばれたそうだ。この先が参宮街道、最後の宿場、小俣宿になる。 左手に小俣小学校を見ながら進むと●「札の辻」と呼ばれる三叉路に出る。その左角に●「紀州藩高札場」と書かれた新しい石標がある。 ここを左折すると左手に●連子格子に虫籠窓の古い町家がある。屋号を「丸吉」という。かつては煙草入れ、薬等を売っていたという。     12:34

  ■小俣町~宮川橋
 
この先突き当たりを右折するところ、何を間違えたか、左折してしまい、浄土寺の脇を通って、道なりに行き、汁谷川に架かる●宮古橋に出た。 たもとの左側に●「参宮人見附」の石柱がある。宮古橋を渡ると●宮川へ突き当る。宮川の「桜の渡し」があり、宮川は必ず渡し舟で渡らなければならなかった。渡船は昼夜を分けず、満水の時も人を出し、必ず渡した。
 現在の宮川橋を渡ると、土手が切れており、●渡った所に、桜の渡しの解説と広重の浮世絵が描かれている。 13:01

 ■宮川橋~八日市場町
 
橋を渡ると●宮川町に入り、狭い道をくねくねと曲って進んで行くと左手に●茶屋町の道標がある。文政5年(1822)の建立で、「左 二見浦 二里十五丁」、「右宮川渉場 六丁三十九間」などと刻まれている。道標を左に見て、真っ直ぐ進む。
 その先左斜めに入ると旧道は真っ直ぐ続いているが、消えてしまっているので、ここはジグザグに進んで行く必要がある。
 県道37号に出てから、「浦口交差点」を右折して途中でと左に入って行く道がある。その先で旧道が復活している。県道22号に出ると●筋向橋があった。現在は暗渠になっているが、嘉永2年(1849)の欄干のみが残る。伊勢本街道と伊勢参宮街道が合流する所にあたる。近いうちに本街道も歩く予定なので、ここへやって来る訳である。
 筋向橋からは県道をずっと歩き、八日市場町へ来た。左手にむくり屋根の堂々とした、古めかしい家がある。漢方薬を売る●「小西万金丹薬舗」。延宝4年(1676)創業という。伊勢独得の切妻造りの建築様式江戸時代のままの姿を今に伝える。13:35

 ■八日市場町~岡本1丁目
 旧道はNTTのビルあたりから右斜めへ進んでいたようだが、道がないので、県道をそのまま進み、●外宮前へ来た。外宮入口にあたる。参道を進んで 外宮、正しくは豊受大神宮へ参拝した。神域は広いのだけど、●拝殿まではそんなに距離はなく、すぐ到着する。一般人が入れるのはここまでで、正殿は見ることができない。外宮に来るのは2度目になる。平成25年には式年遷宮があるので、新しい正殿が隣に覆屋に準備されていた。外宮を出て、内宮へ行くため古市へ向うことにする。
 外宮の前を進み、●岡本1丁目手前で左折する。    14:15

 ■岡本1丁目~尾上町
 
古市へ向う、●静かな旧道を行く。昔は大勢の参拝人で賑わっただろうけど、今ではバスで内宮へ行く人がほとんどで、ここを歩くような人は見かけない。 近鉄鳥羽線のガードをくぐった先に●小田橋がある。橋の手前に「歴史の中の小田の橋」と書かれた案内板がある。 その先は、●尾部(おべ)坂という上り坂になる。両宮の間の山ということで間の山(あいのやま)ともいう。右手に●「間の山お杉お玉」碑が立つ。お杉お玉というのは、三味線を弾いて参拝客から金をもらっていた女芸人達の総称を指す。 14:36

 ■尾上町~古市
 
坂の頂上付近、左手に●古い木造の建物がある。無人で荒れているが、遊郭だったような造りである。
 更に坂を上がって、いよいよ●古市に入った。江戸時代以前は、丘陵にあるため水利が悪く民家もほとんどなかったが、伊勢参りの参拝客の増加とともに歓楽街として発達し、幕府非公認ながら、江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊廓の一つに数えられたほど。妓楼70軒、遊女1000人、芝居小屋も3軒というにぎやかさ。遊郭の中でも特に備前屋、杉本屋、油屋が有名だった。 右手に●「備前屋跡」の石柱がある。またその先、右手に古市3座の内の●口の芝居跡という石柱も立つ。14:45

 ■古市~中之町
 
大林寺への案内板に沿って、右手奥に入っていくと、大林寺がある。境内左手に●おこんと孫福斎の比翼塚というのがある。江戸時代、この寺の近くにあった遊郭油屋で、寛政8年(1796)に実際に起った刃傷事件の中心人物、おこんと孫福斎の慰霊碑である。この事件は、のちに「伊勢音頭恋寝刃」(いせおんどこいのねたば)という歌舞伎になり大評判になったという。その●遊郭油屋跡の石碑が近鉄線高架橋の脇にある。
 近鉄線高架橋を越えた、左手に●長峰神社がある。長峯一帯の産土神で、アメノウズメノミコトを祀る。ウズメは芸能の神様で、古市の芸妓の守護神として信仰されていた。   15:00

 ■中之町~牛谷坂
 
左手に●寂照寺がある。徳川家康の孫、千姫の菩提を弔うために延宝5年(1677)に建立された。突然、千姫の名前が出てきて驚いたりするが、千姫は伊勢神宮を篤く信仰していた由縁らしい。
 伊勢自動車道を越える手前に●「伊勢市立 伊勢古市参宮街道資料館」がある。入ろうかと思ったが、時間を取るので止めにして、先に進んだ。自動車道を越した左手に●「月よみの宮さんけい道」と書かれた明治26年の道標がある。
 その先牛谷坂の上、右手に●2基の巨大な常夜燈がある。大正3年に建立されたものだが、個人の寄進になるものだが、あまりに巨大だ。   15:21

 ■牛谷坂~猿田彦神社
 その●牛谷坂を下って行く。坂を下りきると、右手に●「宇治惣門跡」の標石がある。「旧参宮街道の牛谷坂と宇治の町並みとの間に設けられ、俗に黒門と呼ばれ、明治維新までここに番屋があった」と書かれている。
 黒門橋を渡って、県道に突き当たり、左に曲った所に●猿田彦神社の鳥居が立っている。天孫降臨の際、道案内をつとめた猿田彦大神を祀る。猿田彦はその後、アメノウズメと夫婦になっている。    15:30

  ■猿田彦神社~おはらい町
 
この先は国道23号と交わる「宇治浦田町」交差点を過ぎて、すぐ右斜め●おはらい町通りに入る。おはらい町通りに入ると、夏休みの為か、えらい人出で、まっすぐ歩くのも難しいくらいだ。本来は神社関係の建物が並んでいるわけだが、さびれるようになってから、町並再生事業により、●伊勢特有の切妻、入母屋様式の古い建物が建てられている。
 左手に創業宝永4年(1707)という、●赤福本店がある。赤福を一口と思ったが、人が群がっており、とても無理だった。
15.35

  ■おはらい町~内宮
 おはらい通りを抜けると、●宇治橋前の鳥居に出る。皇大神宮(内宮)の入口である。神宮のことはホームページを見てもらえればいいので、詳しくは記さない。
 ●五十鈴川を宇治橋で渡る。宇治橋は遷宮に合わせて20年毎に架け替えらていたが、戦後の混乱により、遷宮が4年ずれて、遷宮の工事自体には都合良くなったといわれる。川の上流側に見える杭は、流木が橋を損傷しないようにする為のもので、木除杭(きよけぐい)と呼ばれる。 宇治橋を渡ってから●内宮に参拝した。
 さてここで、日永追分から内宮までの参宮街道は終りになった。内宮までの74km程を2泊3日で歩いたが、ちょっと余裕が無かった感じがします。松坂市内の旧蹟をほとんど見ることができなかったし、もう少し細かく見て歩くにはもう1日必要だったかと思われます。内宮を出てから、バスで近鉄五十鈴川駅へ行き、特急で京都へ帰った、   16:35

      1日永~津  2 津~櫛田駅