鎌倉街道下道を歩く1 
    (鶴岡八幡宮~保土ケ谷まで)
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 鶴岡八幡宮-杉本寺-朝比奈切通-大道-金沢八景-称名寺-六国峠-能見台-栗木-大岡-蒔田-保土ケ谷   23.70 km

    鎌倉街道
 鎌倉街道」とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で、鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉へ馳せ参じた道である。
 各地から鎌倉を結ぶ街道は関東地方に限らず、ほとんどが鎌倉街道と呼ばれたという。街道は古代の官道や地方道を繋いだり、不足部分は幕府自体が建設したりして造られた。江戸時代に五街道を始め街道が整備されると、その役割を終えたが、中世から江戸期にかけて政治的、文化的に果たした役割は大きい。 
 鎌倉街道と称される枝道などは数多くあるが、主要な道としては下記の3本
   の道がある。
上道・・鎌倉から化粧坂を越え、武蔵西部を経て高崎に至り、信濃、越後
        へ抜ける古道。
中道・・鎌倉から巨福呂坂を通り、武蔵国東部を経て下野国から奥州へ至る。
下道・・鎌倉から朝夷奈切通を越え、武蔵国東側の東京湾沿いを北上して
         常陸へ抜ける。 
       今回は中道に続き、下道を歩いた。ゴ-ルの目途は松戸
 参考資料
「中世を歩く(東京都その近郊に古道・鎌倉街道を探る)」   北倉庄一
「旧鎌倉街道探索の旅 下道遍」             芳賀善次郎
 


2014年7月12日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■鶴岡八幡宮~頼朝墓
  鎌倉街道下道は鶴岡八幡宮の●東鳥居から出発した。鳥居を出た角に●畠山重忠邸跡がある。県道204号を東に進んで行く。この道は金沢道といって、滑川に沿った朝比奈切り通しを経て金沢へ行く道である。
 鎌倉宮へ通じる「岐れ路」交差点手前を左折して真っ直ぐ行くと、●源頼朝墓がある。このあたり一帯は法華堂跡地で宝治元年(1247)北条時頼に攻められた三浦泰村一族がこの堂内で切腹し滅亡している。頼朝は正治元年(1199)落馬事故により亡くなり、法華堂に葬られた。法華堂は後に廃絶し、墓は江戸時代に薩摩藩主・島津重豪が整備したものとされる。   9:50

■頼朝墓~杉本寺
 ●県道204号(金沢道)を東へ進んで行く。少し行くと関取場跡の石碑が立って、二階堂道との分岐点である。ここを「大倉の辻」といい、関東から鎌倉に入る場合、金沢道、白山道、峰通り、二階堂大路などが「大倉の辻」で合流する。その為北条氏康が関所を設置して、荏柄天神社の社殿造営費用にあてたという。
 右手「大御橋」を渡った先が●「文覚上人屋敷跡」である。 更に進むと歌の橋というのが架かっている。下を流れるのは「二階堂川」。建保元年(1213)謀反の罪で捕らえられた渋河兼守が、処刑される前日に歌を詠み荏柄天神社に奉納した。その歌に将軍実朝が大変に感動されその罪が許された。その恩に報いるため兼守架橋したといわれる。 その先左手に●板東三十三所観音霊場第一番札所の杉本寺がある。ここは寄っておいた。行基創建になる寺で、本尊は十一面観音。こじんまりとした寺だが、背後の山は杉本城があった。     10:10

■杉本寺~朝比奈切り通し入口
 道は泉水橋で滑川を渡り、明石橋でまた渡り返して北東方向へ進んでいく。「十二所神社」バス停から左手の●十二所神社に寄る。 国之常立命以下天神七代、天照大神以下地神五代を祀る。
 ●「十二所神社バス停」の所から旧道へ入り、朝比奈切り通しへ向かう。滑川から別れた太刀洗川沿いに進むと山道らしくなって、とんとんと進むと●朝比奈切通し入口に着いた。 途中、源頼朝の命で上総広常を暗殺した梶原景時が血の付いた太刀を洗ったという「太刀洗水跡」を探しながら来たのだが、案内板でもあるだろと思っていたところ、なにもなくどこだがわからなかった。後から調べたら、旧道から500m位入った分かれ道左手に、細い竹筒からチョロチョロと太刀洗水が流れている所なんだそうだ。 
   10:55

■朝比奈切り通し入口~大道
 ●朝比奈切通しへ入る。仁治2年(1241)執権、北条泰時が鎌倉と六浦との間を物資輸送を円滑にするために作らせた道で、鎌倉七入口の内では最も当時の様子をよく残している。工事が捗らず、朝比奈義秀が太刀で一夜にして道を切り開いたという伝説がある。 ハイキング程度の上り坂で簡単に歩けるが、前日の大雨で滑りやすく、下を向いて注意しないとすってんころりんという仕儀になるので、あんまり余裕はなかった。しかし先人の苦労が偲ばれる道でもあります。
 、途中●まさしく切り通しという両側に崖がせまる所を通過して行く。横浜横須賀道路をくぐると、左手に●石仏群がある。入口から20分程度で県道「朝比奈入口」バス停に出た。その後県道を渡って常林寺あたりを通って県道北側を少し迂回して行かないといけないみたいだったが、よくわからないので県道を渡って形ばかりの迂回路を通って●県道へ合流した。    11:25

 ■大道~上行寺
 県道を少し行き、大道中前バス停左手に●鼻欠地蔵というのがある。本来は高さ4mの地蔵の磨崖仏だが、かなり風化しているので姿形はほとんどわからない。凸凹出っ張っている部分がそれらしい。地蔵の東2mの所が相模国と武蔵国の国境で、前の県道は鎌倉時代の大動脈だっただけに、この地蔵は交通の要所に祀られ広く信仰されていたという。
 県道を進み、侍従川はすぐ渡らないで川の手前を川沿いに進み、ヨークマートを左折して侍従川橋を渡る。川の名前の由来は、有名な小栗判官の妻「照手姫」の乳母が侍従という名で、この川に身投げしたというので名付けられた。
 「西六浦」交差点で元の県道にぶつかり、右折して進むと●「上行寺」がある。山門が茅葺きで品が良い。寺の南一帯は鎌倉時代には平潟湾が入り込んだ「六浦湊」で、房総、三浦半島への「渡し場」でもあった。又幕府危急の場合には房総方面へ避難する湊でもあった。山門を入った右手に●船繋松がある。この松に船を係留したわけだが、勿論昔の松ではなく復元されたもの。
 11:55

 ■上行寺~金沢八景
 すぐに京急のガードをくぐり、国道に出たら右折する。「金沢八景駅」手前で駅の方へ入り、駅前を通過していく。駅前を過ぎると●瀬戸神社に出た。治承4年(1180)源頼朝が伊豆で挙兵して以来、崇拝している三嶋大社を勧請したもので、祭神は大山祇神。海上交通の安全を祈願している。 向かいにある琵琶島には北条政子が琵琶湖の竹生島弁財天から勧請した●琵琶島神社がある。琵琶島というからには昔は島だったのだろうけど、今は繋がって海に突き出ている形になっている。島から●平潟湾を見る。当然昔の平潟湾とは埋め立てなどで大きく違っている。 参道入口に頼朝が服を掛けたという●福石がある。服を掛けたので服石と呼ばれていたのが、縁起が良いので福石に変わったのだとか。     12:30

 ■金沢八景~寺前
 宮川に架かる「瀬戸橋」を渡る、瀬戸橋を渡ると左手に「憲法草創之處」という記念碑が建っている。明治20年伊藤博文、伊東巳代治、金子堅太郎らが料亭東屋において明治憲法制定のため草案を起草したのを記念した碑である。ここを左折する。
 交差点から北上すると右手に●洲崎神社。神社は祭りの準備中で落ち着いて参拝ができなかった。
●町屋町付近は鎌倉時代の金沢の中心地といわれ、江戸時代は鎌倉からの金沢道の終点地であり、保土ケ谷への金沢道の出発点であった。 ●「金沢八幡宮」手前で道は二股に分かれる。右手の歩道上に●現代の道標があり、右へ行くと「称名寺」。赤門通りと書いてある。左へ行くと金沢文庫駅に行く鎌倉街道の旧道である。。称名寺へは後ほど向かうこととして、まずは左の方の旧道へ向かった。 12:45

■寺前~称名寺・金沢文庫
 すぐ●右に入るのが旧道で、往時は海岸線沿いということらしい。寺前の住宅地を進み、君ヶ崎交差点国道と合流する。国道を100mも行ってから叉右手の旧道に入る。ここはすぐ又国道に合流してしまうのだが、途中で右折して称名寺へ寄り道しておく、
 称名寺へは上り坂を10分程。左手に天使幼稚園なんかがあったりする。やがて左手に●称名寺赤門が見えた。先ほどの金沢八幡宮の所を右に入ってくるとここへ着く。
 称名寺は真言律宗別格本山である。北条氏の一族である金沢北条氏の祖、北条実時(1224~1276)が自分の邸宅内に建てた阿弥陀堂が起源とされる。●境内は金堂前の阿字ヶ池を中心とする浄土式庭園を持った七堂伽藍を誇ったが、鎌倉幕府滅亡に従い寺運も衰退した。  江戸時代に入ると大幅な復興が実現し、現存に至っている。金沢文庫は邸宅内に文庫を設けたのが起源で、政治、歴史、文学、仏教などに関わる書籍が収集された。これも寺の衰退とともに蔵書も次第に散逸して、現在では境内西側に県立の博物館となって管理保存に努められている。 ということで少々博物館を見学して、また同じ道を通り、旧道まで戻り国道へ出た。すぐ横が「金沢文庫駅」。 ここでまだ十分に早いが今日は大変に暑く、くたびれたのでここでやめにして文庫駅から帰宅した。
  14:40 

2014年7月21日
■金沢文庫駅~六国峠入口
 下道2日目 金沢文庫駅快速で9時20分頃到着。かなり暑いが歩きを再開する。西口を出て線路沿いに戻り、踏切の所に●六国峠ハイキングコースの看板が立ち、脇に天保10年(1839)の保土ヶ谷道道標がある。「右 能見堂・保土ケ谷道」と刻まれて、道標の通りここを右折。 住宅地を行くと庚申塔などがあり、右手に「六国峠入口」の標柱が立つ。六国峠とは鎌倉・天園のことで、(伊豆、相模、武蔵、安房、上総、下総の6ヵ国が眺望できた)天園まで約10kmのコース。ここを少しだけ巡って途中で下りてしまわないといけない。 階段を上がって行くと、鎌倉道らしい●●切通し道になって、歴史を感じることができる。

■六国峠入口~能見堂跡
 やがて広場に出て、その先右手の石段を上がった高台が●能見堂跡地である。ここには擲筆山(てきひつざん)地蔵院という寺があって、眺望がすばらしいことから広く知られていたが、惜しくも明治2年に焼失してしまった。跡地に江戸時代に建てられた●「金沢八景根元地」の石碑が残っている。標高は70m程度か。風光明媚と云いながら樹木が茂ってしまって眺望はよろしくない。 が 一応木の無い所を見計らって●パノラマを1枚撮っておく。木が生い茂ってよく見えないけど、内海がここまで入り込んでいたというので下界は入江だったのだろう。

■能見堂跡~能見台2丁目
 跡地を過ぎて尾根伝いに行くと広場に出る。●「真っ直ぐ 天園 右手 関ケ谷不動尊」の案内に従い天園方向へ進む。左手は小学校、右手はマンションの間の山道というか、丘程度のの道を進んで行くが樹木が繁茂して回りの景色は山道そのもの。時々樹木の間からマンション群がチラチラ見えている。
 能見堂トンネルの上あたりでショートカットしてバス通りの方へ下りようと思ったが、降り口がわからず能見堂緑地公園のあたりを行ったり来たりしていたら右手●階段上に案内看板がある所を右折すればよかった。右折して階段を上がるとすぐ先に一般道路が見えた。看板前を過ぎるとやっとハイキングコースから一般道路をへ下りられた。そこは京急バス車庫の西側あたりで、京急バス車庫を左折すると●京急ストア角の交差点に出た。

 ■能見台2丁目~栗木 
 京急ストアを過ぎると突き当たるので左へ曲り、●富岡中と能見台北公園の間を通って行く。公園は左側高台の上にある。但しこの真っ直ぐな道は旧道ではなく、公園の西側を弓状に行くのが正しいようだが、 ま どうせ住宅で消滅している所なので適当に進むことにした。 旧道は高台にある氷取沢高校の校庭を通っているようで、当然通れないし高台のふもとにも道は無いので、住宅の中を進み、「ひかりが丘公園」から階段を上って、高台を進む。磯子区に入って、右手は崖になり崖上まで住宅が続いている。 土砂崩れ注意地区なんて看板があった。 「富岡住宅西口バス停」を過ぎると●左側の笹下川に沿った道になり、杉田町と上中里町との境目で旧道らしい感じがする。  このあたりなにか道標とかあるかと思ったが特に何もなく過ぎ、やがて県道に合流し●栗木交差点に到着。

 ■栗木~打越
 栗木交差点を過ぎ、JR根岸線をくぐって、●栗木町バス停付近で右折してするのが旧道である。この道は保土ケ谷から六浦(金沢八景)へ至る道のことで、入ると「かねさわ道」の説明板が壁に貼ってあった。又すぐ右手に馬頭観音が建っている。
 住宅の中、●笹下川沿いの道を行く。旧道の雰囲気はあるのだが右手が相変わらず崖で、崖の上まで民家がぎっしりと建っている。崖崩れは心配でないのだろうか。 やがて港南区の笹下町に入り、このあたり旧村名が雑色というのだそうで、中世は下級の武士が配置されていた所という。 旧道は新川橋でバス通りの県道に合流して、県道を少し行くと●打越交差点に来る。上の高架橋は横浜市環状2号線。

 ■打越~大岡
 しばらく県道を歩く。左手に横浜刑務所がある。「関」とか「関の上」とかのバス停があるが、中世には付近にあった笹下城主間宮氏管理の関所が置かれ通行料を徴収したという。
 ●関ノ下交差点で県道21号と交差する。県道に架かる歩道橋に「鎌倉街道」と表示されている。金沢道が険しいので明治23年に新鎌倉街道が開かれた。新道を行くと上大岡駅に出るが、旧道は1本西側、弓なりの道で●グリーン通、さかえ通の名前が付いている。 駅周辺は再開発が進み、駅ビルやショッピングセンタービルが建って、大変に人通りが多い。GPSの電池が切れたので、Y電機で簡単に買おうと思ったら、5階まで上がらされてしまった。・・・・めんどくさ・・・・
 慰霊堂交差点で新道と合流して、交差点を横断しておく。京浜電車のガードをくぐると大岡川が近づいてくる。最戸下橋手前で●右手斜めに曲がるのが鎌倉街道で「旧鎌倉街道」の標柱が立っている。・・とはいえ普通の車道で旧道の感じは全くしない。  

 ■大岡~蒔田駅前
  ●旧道入口交差点で県道と合流。右手に大きなシイノキが唯一旧道らしい感じか・・というところ。すぐに弘明寺交差点になる。左手の真っ直ぐなアーケードのある商店街は「弘明寺」へ続く参道。右手は横浜国大付属中学校で校門前に●鎌倉街道碑がある。昭和37年のもので新しい。ベンチが置いてあって左の女性にどいてもらうわけにいかず、そのまま撮っておく。弘明寺は有名だけどここは寄らずに先に進んでおく。 200mも進むと●若宮八幡宮の石柱が立っていて、右手奥に入って行くと「若宮八幡宮」がある。行かなかったけど、神社のあたりは後北条氏の時代の「蒔田城」があったという場所という。休日急患診療所入口交差点の先、●宗教教団の会館がある所の交差点を左折する。

 ■蒔田駅前~首都高速狩場線高架橋
 大岡川に架かる●蒔田橋を渡る。古代大岡川は明日田(あすだ)川と呼ばれ、明日の渡しがあって明日が「めいた」に転化し、更に蒔田になったと云われる。
 蒔田橋を渡ってすぐ右斜めへ入り、井土ヶ谷下町を行く。段々上り坂になり、京急の高架橋をくぐると急坂になってきた。かなりきつい上り。 右手に●清水ヶ丘公園が見えてきた。公園の先がてっぺんで標高50mくらい。 公園の端で旧道は墓地の中に入って行き、首都高狩場線に架かる●出逢橋を渡る。

 ■首都高速狩場線高架橋~いわな坂
 その先は尾根道を進み、「横浜清風高校」手前の左手に●北向地蔵尊が建っている。享保2年(1717)のもの横浜市地域有形民俗文化財という。旅人の道中安全を祈願して建てられたが、金沢道道標を兼ねていて「是より左方かねさわ道」、「是より右方くめう道」と彫られている。 清風高校を過ぎるときつい下り坂の●いわな坂といって、すべり止めの◎印の舗装になっている。車でも上がり下りが大変そうな感じ・・。
 坂の途中左手に●御所台(政子の)の井戸というのがある。案内板によると、北条政子がここを通りかかった時に、この井戸水を化粧に使用したそうだ。また保土ヶ谷宿の苅部本陣も将軍が休息した時に御膳水として使用したと伝わる。

 ■いわな坂~保土ケ谷駅
 右手高台に福聚寺があり、旧道はここから先は消滅している。そこで●国道1号線を渡り、線路を越えて旧東海道の保土ケ谷宿へ入った。線路際から今井川沿いに行くと●小橋が架かっている。小橋の所が今井川の越場(こえんば 徒渉地)といわれる。ここへ旧道が来ていたという訳だ。小橋を渡ると●旧東海道保土ケ谷宿だった「帷子町」となる。下道は旧道街道をさかのぼる形で東へ向かうが、本日はここで終わりとして●保土ケ谷駅から東海道線で帰宅の途に着いた。

     2 保土ケ谷~丸子橋