鎌倉街道下道を歩く 3 
     (丸子橋~大手町まで)
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 丸子橋-鵜の木-池上-大森-大井-北品川-高輪-愛宕山-霞ヶ関-皇居-大手町        19.57km


2014年8月31日
■丸子橋~鵜の木
 丸子橋を渡り左岸の上手を右折して沼部駅前に出る。
                 沼部から先の古道のルートについては2つの説に分かれている。
                   (A)沼部駅-鵜の木稲荷-千鳥町-池上-新井宿-大森-大井6丁目
                   (B)沼部駅-洗足池-長原-北馬込丁目-西大井-大井6丁目    の2つのルートである
 Bのコースは昔の中原街道と一部一致し、一度通っているし、両方通ってみるというのもできかね、Aのコースを通ることにした。 新幹線のガードをくぐると道は二手に分かれる。旧道は●左の細い方へ入って行く。すぐ左に●「密蔵院」がある。創建の年代は明らかではないが、鎌倉時代と推定される古刹。 その先は六郷用水跡という石柱が立っていて、左側に水路が作られた●遊歩道のようになっている。散歩には最適な気持の良い道が続いている。 やがて左へ曲がり、「女堀(おなぼり」という説明板がある。このあたりの高低差と堅い地盤によって堀の開削工事は難行して、作業に女性を動員し、男女が力を合わせて能率を上げたことから呼ばれるとか。木花開耶姫命のお告げにより、丘を切り崩さずにう廻して工事を進めたことからとかの説がある。 15:06

■鵜の木~藤森稲荷前
 右手に●以前は茅葺きだっただろうという旧家がある。さらに進むと環八通りにぶつかった。信号に従って向かい側へ出ると、そこにも●六郷用水の跡の石柱の立つ道が続く。まもなく左側に古墳があり、頂部に小さな●藤森稲荷の祠がある。その右側は五差路で六郷用水の分岐点であったところという。  15:30

■藤森稲荷前~池上文化センター
 神社から池上へ向かう道は●池上道と云われていた。5分程で「千鳥町駅」を通過する。左手崖側に横山大観が定宿とした「観月」と名付けたという旅館があると北倉氏の本に書いてあるが、両側ビルとマンションでよくわからぬ。
 広めの道にぶつかり、正面の道路の右側がレンガ敷の細道になっており、ここが「池上道」でもあるという。六郷用水が流れていた跡ともいわれる。 その先で道は●京浜第二国道によって分断される。横断歩道のある所で国道を渡って池上警察のビルの右側を通って、旧道へ合流して行く。その先のあたりは、以前千本松原といっていた所で、松林が昭和の始め頃まで残っていたらしい。またその近くには明治から大正にかけて「乗合馬車」が池上から大森駅までの区間運行していたが、その発着の場所があった所という。 さらに行くと、●池上文化センター交差点で池上駅からの道が右から合流してくる。左手先は池上本門寺である。
 ここで本日の行程を終了して池上駅から帰宅した。   16:00

2014年9月13日
★池上本門寺
 2週間経ってまた池上駅に降り立った。本日はまず池上本門寺参拝から始まる。 呑川を渡ると、その先に●総門がある。それをくぐり、加藤清正の築造寄進になる此経難持坂(シキョウナンジザカ)と呼ばれる急な石段を上ると仁王門がある。門を過ぎると●本門寺の大堂が建つ。 本門寺は日蓮上人が弘安5年(1282)10月13日入寂した聖地である。日蓮は病気療養のため常陸の湯に向かい、その途中、武蔵国池上郷主、池上宗仲公の館で亡くなくなった。その後池上氏が邸内に寺を造り、次第に大伽藍に発展して行ったもの。臨終の史跡としては境内西側になり、西側の石段を下りていくと日蓮の荼毘所と伝えられる場所に●真っ赤な多宝堂が建つ。塔内中央に木造宝塔を安置する。またその先を下りると日蓮入寂の地といわれる本行寺があり、本堂の左隣に●日蓮入滅の間というお堂が建っている。
 また本堂の方へ石段を上がり境内を通って帰る途中、境内東側にある●五重の塔へ寄った。徳川秀忠の乳母である岡部局の発願により、慶長13年(1608)に建立された。空襲による焼失をまぬがれた貴重な古建築の1つになる。尚帰る際は五重の塔の所から池上会館のエレベーターを使うと長い石段を下りなくてすみ便利。  10:05

 ■本門寺~中央1丁目
 本門寺前交差点に戻り先に進むとする。このあたり本門寺の門前町で、角に●萬屋という酒屋がある。明治の建物で風格がある。反対側には葛餅の「池田屋」がある。元祖葛餅というが、亀戸の船橋屋とはどっちが古いかな・・・・・
 東へ向かって進む。この道は池上道と呼ばれ江戸時代以前からの古道で、明治のころには乗合馬車が走っていた。昭和になって新道である現在の「池上通り」ができたので、古道となり車の通行は比較的少ない。やがて呑川を浄國橋で渡る。
 その先は中央6丁目、4丁目となる。殺風景な町名だが元々は新井宿といった。古東海道の宿で、6、4丁目のあたりに比定されている。●中央4丁目に入る入口に●「いにしえの東海道」と刻む石碑が立っている。池上道を古代の東海道が通過していたのだと大田区では言っているようだ。また「春日通り」とも呼ばれ、名前の由来になった●「春日神社」が「環七通り」手前にある。10:40

■中央1丁目~大森駅前
 環七通りを越えるとその先で●新道の「池上通り」に合流する。新道に入って間もなく、左手の「新井宿義民霊地参道」という常夜燈形標柱に従い、左奥に入って行くと善慶寺があり、墓地の片隅に、●「新井宿義民六人衆」の墓がある。江戸時代新井宿村は旗本木原氏の知行地であり、延宝5年(1677)に新井宿村の名主六人が、木原氏の圧政に耐え兼ねて、将軍徳川家綱に越訴しようとした。ところが事前に発覚し、六人が捕らえられて極刑に処せられた。史料は殆ど残っておらず、ただ新井宿村の伝承として伝えられてきた。明治になって事件に関する史料が出て来て、この事件とその経過が確認されたという。
 やがて道は八景坂にかかる。大森駅前にある●天祖神社はかなりの高台にあり、元の坂の頂点に存在していたというから、昔は相当な急坂であったことが想像される。現在では削られて大したことはない。また神社には「八幡太郎源義家が奥州征伐でこの地を通った折り、天祖神社に戦勝を祈願し、松に鎧を掛けた」いう伝承のある松が昭和初期まで残っていたと云われる。   11:05

■大森駅前~大井6丁目
 大森駅を過ぎた右側のNTTデータビルの奥、JR線路際に●「大森貝墟」の石碑が立っている。この付近がモース発見で有名な大森貝塚が広がっていた場所で、発見場所について大田区と品川区が主張し合い両方の区に記念碑が建っている。こちらは大田区の碑で、この先「大森遺跡庭園」に品川区の碑が設置されている。現在では品川区の方が正しい発見場所とされている。
 この先品川区に入り、下道は池上通りを単純に進むのではなくて、鹿島神社、 来迎院、光福寺の東側を通る裏道が旧道らしいのでそちらをたどってみることにした。
 ●鹿島神社は池上通りから入るが、社殿の向きが昔は今のように西向きではなく東向きであったという。その為旧道は神社の東側を通っていたことがわかる。 北側にある来迎院は江戸時代には鹿島神社の別当寺で、もとは境内がつながっていたが、明治になって神仏分離され、境内も仕切られた。よって来迎院へは池上通りから入っていく。寺前の道路1本向こうに側に、お堂が3つ並んでいる。中に2基、外に1基●来迎院石像念仏講供養塔が納められている。    11:35

 ■大井6丁目~大井三つ叉
 来迎院のお堂の隣の斜めの細道を入り、マンションの角を曲がって行くと、光福寺がある。本堂裏の墓地の中に「大井」の地名の由来になった●「大井」がフェンスに守られて存在している。
 旧道は光福寺を出て西光寺から住宅地の中の●曲がりくねってはいるが、比較的広めの道を行くと、その先は池上通で、すぐ●大井の三つ又交差点に出た。   12:00

 ■大井三つ叉~品川区役所前
 大井三つ又から先は旧道は消えてルートはわからない。が 芳賀本では大井三つ又から北上し、大井中央公園を抜け、東急大井町線の高架を越えて、品川区役所の東側を通り、JRの車庫の中通過して旧道が復活する「居木橋」へ達していたものと推定している。よってなるべく記述通りの道をたどってみる。
 大井三つ又の五差路の角に●身代わり地蔵がある。左側の道を北へ少し行くと左手に庚申堂がある。といっても波板で囲われただけの粗末なお堂だが、中に4基の庚申塔が収められている。古くは源頼朝が戦死者の為に写経をを埋めたので「納経塚」とも呼ばれていたという。 その先を左折すると「中央公園が」がある。公園を過ぎて右折して道なりに行くと右手に●「大井蔵王権現神社」がある。現在は神社だが、以前は神仏混淆の修験道の寺であった。これが旧道を示す痕跡の一つという。
 神社を過ぎると●東急大井町線の高架商店街にぶつかる。ここを高架に沿って左へ行き、品川区役所前でガードをくぐる。
 12:15

 ■品川区役所前~北品川5丁目
 ●品川区役所西側の坂を下る。この先はJR総合車両センターで旧道は切断されているので適当に進めばよい。新幹線のガードをくぐってすぐの歩道橋は老朽化により取り壊し中で、手前の新設歩道橋により線路を越える。 越えた先は山の手線やらビル街で旧道はわからなくなっており、また付近が工事中で「第一三共」側へ迂回させられ、やっと●居木橋交差点に着いた。このあたりから旧道が復活しているらしい。 正面の印刷所とMTビルの間の坂道を上る。かなりの急坂で、「御殿山通り」という標識が立っている。坂の上が太田道灌の館があったという「道灌山」で、登り切ると●平坦になりあんまり山という感じがしない。大使館などが点在して、かなりの高級住宅地と見える。  12:45

 ■北品川5丁目~高輪消防署
 坂を下って行くと●八ツ山通りにぶつかり、御殿山というバス停がある。右に曲がって交番の脇を左に行く。又々坂道である。「高輪」の地名に変わった。高輪プリンスホテルの裏手にあたる。やがてグランドプリンス新高輪ホテルにぶつかり、枡形の様に左折して右折して行った先●高輪3丁目交差点で向こうから来た中原街道が左へ折れている。
 この先の鎌倉街道は中原街道と一緒になり皇居方面へ向うことになる。中原街道は一度歩いているの、細かくは見ていかずザーと通りすぎて行こうと思う。 右手に広い境内を持つ「高野山東京別院」がある。高輪警察署の前には珍しい●レトロ調の建物の高輪消防署。現在は二本榎出張所で「東京都選定歴史的建造物」に選定されている。  13:25

 ■高輪消防署~赤羽橋
 泉岳寺の裏を通り、伊皿子の交差点を越えると三田に入る。左手にはやたらと寺が多く集まって、なぜかとネット調べたら寛永12年からのの江戸城改築に先立ち、八丁堀地区の寺院を芝、三田に移す命令が出されたので多くなったという回答が得られたが、本当かな? 右手に「亀塚公園」がある。●「亀塚」は円墳と考えられ、海も近いし、高台で住むには最適で、古代から人が住んでいたものと考えられている。 やがて聖坂と呼ばれるが下り坂になり、右へ折れて行って●三田3丁目交差点に出る。左に折れて行くと「桜田通り」につながり、前方に●東京タワーが見えた。  14:15

 ■赤羽橋~愛宕山下
 赤羽橋の交差点から右手の道を行き、●芝公園の中に入る。ここはど江戸時代は増上寺の境内地で寺の壮大さが偲ばれる。
東京タワーを過ぎるとプリンスホテルに沿って、右へ大きく曲がっているが、旧道はこれを真っすぐに愛宕下まで出ていたものと推定されている。左側に●青松寺がある。太田道灌が始め平河町に建てたものを近世初期にここへ移転してきたものだという。両隣はモリタワーやフォレストタワーだが、ここも青松寺の境内地だったのだろう。
 青松寺から先左側の愛宕山の上に愛宕神社がある。●参道の石段が見える。この石段は極めて急で、ここを馬で駆け上がったという曲垣平九郎の逸話で有名。   14:50

 ■愛宕山下~大手町
 愛宕山の先虎ノ門1丁目あたりは虎ノ門ヒルズが完成して大きく変貌した。特にビルと一体化した環状2号線は歩道・自転車道が広く取られて歩くには絶好で一度あたりを歩き回ってみたいものだと思う。
 外堀通りを過ぎると●霞ヶ関官庁街で「カスミの関」という関所が置かれたので霞ヶ関と呼ばれた。右側は日比谷公園で、今では広く知られたことと思うけど、平川の河口となった所で日比谷入り江が大きく入り込み、天然の良港「江戸湊」と呼ばれた。旧道は海岸のへりを真っ直ぐ進んでいた訳だと思う。
 内堀通りの先が●祝田橋交差点である。両側に江戸城の石垣が残っている。交差点を過ぎて●皇居外苑の中を通過して行く。皇居すなわち江戸城は徳川氏が築いた城であるが、中世には太田道灌が古河公方足利成氏に対抗するため築き、その前は平安末期武蔵平氏秩父氏の流れをくむ江戸氏が造った館が始めてといわれる。
 鎌倉街道としては左に二重門、桔梗門を見て、パレスホテル横の大手門交差点を右折して進む。旧道はなめらかに右へ折れているようだが、現在では不可能で、ビルの谷間をカクカクとして曲がって行かざるを得ない。大手町交差点を左折すると●地下鉄大手町駅入口があったのでキリも良しということでここから地下鉄で帰宅の途についた。   15:40

      2 保土ケ谷~丸子橋   4 大手町~松戸