鎌倉街道上道を歩く 7 
          (小前田~高崎まで)
歩行地図はこちら 地図
 小前田駅-用土-中野-猪俣-中里-駒衣西-摩訶池-陣街道-児玉-長浜町北-植竹-神流川    17.26 km


2015年2月28日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■小前田駅~原宿
 9時16分小前田駅到着。前回終わりとした●秩父鉄道の踏切へ向かう、●踏切を渡った道は鎌倉街道上道と伝えられる道で、昔のままの未舗装の道を歩くことができると云われていたが、未舗装ではあるが、現在は相当広い道で鎌倉街道の面影がない。
 広い道を過ぎると細い道になって街道らしくはなってきた。
 県道を過ぎると●原宿である。江戸時代には小前田の宿とともに人馬の継ぎ立ての機能を果たしていたというし、原宿という名前は鎌倉街道の宿駅があったことから付けられた地名ではないかという。現在もほぼ直線状の道が中央を通り、両側に家並500m程続くがあんまり古い景観が残っているとは思えなかった。 集落の中央付近には八幡神社と常光寺がある。   9:50

■原宿~用土城跡
 道は北西に真っ直ぐ進む。しばらく行き、寄居町に入ると道の左手に●墓地と大きな石柱が見えてくる。石柱は道標を兼ねており、道路側には「・・・地蔵尊 六丁」、左側には「脇往還川越道 用土邑」とある。
 ここでちょっと寄り道をしておく。 道標の所を左折して行くと●連光寺がある。鎌倉時代の正和元年(1312)藤田持阿上人(良心和尚)によって開山された。用土城の城主藤田氏ゆかりの寺と云われる。
 寺の前を通って北上して行くと高台になり、小さな公園があって、●用土城跡の石碑が立っている。用土城は関東管領山内上杉氏の重臣である藤田康邦が北条氏に降った後、移り住んだ城である。城跡に立つと高台にあるので、相当眺めが良く、城を築くには都合良いことがわかる。10:30

■用土城跡~中野交差点
 用土城から街道に戻った。ちょうど八高線用土駅前あたりに出た。街道は県道175号線と同じなので県道をしばらくすすむ。右手の●四区公会堂の庭先に●庚申塔などが集められている。
 美里町に入りどんどん行くと右手に●普門寺がある。 杉並木の参道が気持ちが良い。この付近にはかつて多数の古墳があって普門寺古墳群と言われた。やがて●野中の交差点に到着。街道は先に続くが、またここでちょっと寄り道して行く。交差点を左折して行くと、「猪俣」で武蔵七党のひとつ猪俣党の本拠地で、史跡がいくつか残っているというので寄っておく。  11:00

★猪俣
 野中交差点から左へ700mほど歩き、寿司屋さんの角を右折して道なりに回り込んで行くと、突然●猪俣小平六の館跡という石碑があった。説明板は全くない。地図を見ると猪俣川が二本に別れる間に建っていて、川が堀の役目を果たしていたのだろうと思われる。 猪俣党は武蔵七党として、児玉、横山、村山、野与、丹、西、などで知られている武蔵七党の一つ。小野篁の末裔を称す横山党の一族といわれる。 保元の乱や平治の乱、一ノ谷の戦いで活躍した猪俣小平六範綱と岡部六弥太忠澄が有名。 猪俣小平六範綱は保元の乱、平治の乱では源義朝に使え軍功をあげた。また源頼朝にも仕え、しばしば軍功を上げたという。
 館の南側にある●高台院の下の方に●小平六範綱の墓がある。
 小平六の死後、一族の霊を慰めるため猪俣百八燈という行事が毎年行われている。その場所は高台院からすぐ見える●堂前山の尾根にある。堂前山の尾根に築かれた百八基の塚に火をともすそうだ。  11:40

 ■中野交差点~中里
 野中の交差点に戻って先に進む。新天神橋の手前に●横関酒造がある。「天仁」というお酒と奈良漬など造っているようだ。
 ●新天神交差点を渡ってすぐ左に斜めに分かれる道があり、この道が旧道である。ここから先の旧道は国道と平行した裏手をジグザクに通って駒衣西あたりまで続いている。 コンビニの裏手を通過して右折し●一つ目の角を左折して行く。角の庚申塔の大きな石碑が立っている。   12:15

■中里~駒衣西
 ゆるやかな上り坂になって、すぐ右手に●雷電神社がある。征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の為、この地に至った時、激しい雷に遭遇し、これを鎮めるために雷電を祀ったのが始まりと伝えられる。●本殿は覆い屋に覆われて中に鎮座していた。詳しくは案内板を見られたし。 すぐ先の右手に塚があり、浅間大神の石碑が建っている。やがてやや広い道路に出ると、青いトタン壁の家の所に●鎌倉街道の新しい案内柱が立っているので、案内に沿い、右手の道へ入って行く。    12:28

この道は弓状になっているだけで、すぐ元の道へ合流してしまう。700mも歩くと●変形十字路の様な所へ出て、その角に●六道能化地蔵尊と刻まれた石碑と隣に道標がある。
 更に進むと●国道に合流しそうな所に来るが、旧道は左手の細い道に入る。このあたり道路工事中で入れないかと思ったが、ちょうど休み中で脇を通ることができた。左手に●庚申塔など石仏群が沢山立っていた。 道はなだらかな丘陵を上り、下って行って、●突き当たりに木が一本ぽつねんと立っている所で左折する。角に鎌倉街道の案内板がある。12:55

■駒衣西~常福寺
 旧道を西へ行くと、枌木川に架かる橋にさしかかる。橋を川に沿って少し行くと●曝井(さらしい)の遺跡というのがある。 さらし井は枌木川の端にある岩石で囲まれた湧き水で、その昔、織布を洗いさらすために使われた。昔織布を洗いさらすために使用された湧き水で、ここでさらされた布は調布として都に運ばれた。ここはいかなる旱魃にも枯れたことがなく、又織布をさらす井戸は共同作業所であり、若い女性が集まる所から愛を語る場所ともなったという。  井戸の先へ行くと、● 大伴部真足女遺跡( おおともべのまたりめ)という県指定旧蹟がある。案内板によれば・・・・・掘形の田畑に囲まれた90メートル四方の遺跡で、豪族:檜前舎人石前(ひのくまのとねりとねりいわさき)の館跡といわれています。万葉集には妻である真足女が、防人として赴任する夫に寄せた歌が載っています 、万葉集二十巻
        ・・・・・枕太刀腰にとり佩きまかなしき背ろがまき来む月のしらなく・・・・・
 遺跡の前の●常福寺は創立が天平年間といわれ、領主檜前舎人石前の創建した寺と伝えられる。  13:10

■常福寺~摩訶池
 元の旧道に戻って西へ進む。途中右手に国道北側にあるみか(漢字が難しく使えない)神社の参道入口がある。参道は国道に分断されて、常夜燈だけが残ってしまったようだ。
 旧道は下り坂となって、程なく国道と合流する。合流すると国道をしばし行くのだが、国道を行ってもつまらないので、国道の北側には遺跡や古墳群などがあるので、そっちを見て回ることにした。
 国道の脇に●みか神社がある。 延喜式内社で、●社殿は朱で美しい。みかとは酒造りに使う大型の「かめ」のことで、周辺の美里町・児玉郡は古くから拓けた地で数多くの古墳が点在、埴輪や甕等の土器が製作されていたという。
 神社の前の池は●摩訶池といい、常福寺の空興上人がこの地方が水利が悪く農民が困っているのを見て、摩訶般若の秘法を修して面積4町歩の池を築かせた。その名残であろう。今でも灌漑用に利用されていまという。   13:30

■摩訶池~陣街道
 摩訶池の西側を北に向かって少し進む。池の西側に前方後円墳がある。●二子塚古墳と呼ばれ、広木・大町古墳群の中の一つ。北に向かって少し進み、左折して国道の方へ戻ると、水田の中に小さな古墳が群集しており、●広木・大町古墳群と呼ばれている。昭和48年からの3回にわたる発掘調査で98基の古墳を確認し、その内の84基を精査したところ、
 1 墳形は、前方後円墳、円墳、方墳で、少なくとも100基以上で構成された群集墳である。
 2 埋葬施設は横穴式石室で、小山川で採集されたと思われる片岩系の河原石を使用している。
 3 出土した代表的遺物は埴輪、直刀、馬具、勾玉などの装身具、高坏・平瓶などの須恵器など。
 4 築造年代は6世紀中頃から7世紀代と推定されている。などと説明されている。
 国道に戻って少し進むと●広木の一里塚榎跡というのがあり、旧道はここで直角に左折して行く。かってここに樹齢400年の榎があったが、現在は枯れて切り株のみが残っている。美里町の鎌倉街道はここで終わり、左折して児玉町の陣街道に続いていく。また道の角に●新しそうな一里塚の石碑があって、馬頭観音と刻まれた石碑などが集められている。   13:45

■陣街道~児玉
 陣街道に入って何故か写真撮るの忘れてしまったのだけど、右手は有名な「ガリガリ君」の赤城乳業の大きな工場がある。右手はほとんど工場の敷地になっている。秋山川を越えて行くのであるが、橋の架け替え工事中で通行不能なので手前を右に曲がり、小山川の土手に出た。旧道は小山川を渡っている。運がいいのか川には水が流れておらず●旧道らしき所の突堤を難なく歩いて渡った。 川を渡って●本庄児玉病院の間を抜ると、●国道254号に合流した。   14:05

■児玉~玉蓮寺
 国道を西へしばらく行くと●道の右手に折れる道があり、折れた先に●龍體稲荷神社がある。龍體という名前は珍しいと思うが、由来はよくわからない。神社の西側に鎌倉街道が通り、山車の収納庫の所に鎌倉街道の案内板が立っていた。
 稲荷神社の前を抜けて北に向かう●小道は鎌倉街道らしい雰囲気のある道気持ちの良い道であった。  14:15

■玉蓮寺~雉岡城跡
 この先でちょっと広い県道を越えて、更に北に向かうと玉蓮寺の裏手に出るので、裏口から入って行く。正式な参道は国道に面している。
 ●玉蓮寺は児玉党の領主、児玉六郎時国の開基で境内は時国の館跡である。日蓮上人が佐渡に流罪となった時と赦免を得て佐渡から帰る時、ここに泊まったと云われる。
 玉蓮寺の東隣には●東石清水神社がある。源頼義、義家親子が奥州平定後鎌倉へ帰る途中この地に立ち寄り、京都の石清水八幡宮を勧請したことから始まると伝えられている。児玉六郎時国が深く崇敬し社殿を整備し代々信仰した。又風格のある青銅製の鳥居は埼玉県の指定文化財である ここでちょっと街道をはずれ寄り道
 国道に出て北上し、駅入り口で左折すると●「指定史蹟雉岡城跡入口」の古い案内標柱が立っていて、その奥に●雉岡城跡が広がっている。とても広いので回りきれず入口付近をウロウロして見ただけ。中世、山内上杉氏の居城として築かれたが、地形が狭いということで上杉氏は上州平井城に移り、この城には家臣の夏目豊後守定基が入り、永禄年間に北条氏によって落城した。現在では公園となって堀などが残っている。 14:40

■雉岡城跡~長浜町北交差点
 公園入口から東へ細道を真っ直ぐ向かい、旧道に出会って左折して●細い住宅街を進んだ。やがて八高線にぶつかり、旧道はここで消える。「長浜町交差点で」線路のガードをくぐる。
 右手に●長福寺がある。●長浜町北交差点手前で左折して、「カインズホーム」の裏手の道が旧道らしく、八高線で消えた旧道は長福寺の所を曲がってここに繋がっていたのだと芳賀氏は述べている。   15:00

■長浜町北交差点~第七八日市踏切
 真っ直ぐ進むと八高線をまたぐ道路橋に出会う。その道路橋をくぐる手前に女掘川という川があり、●雀の宮橋という小さな橋が架かっている。旧道は橋の先の●水田の中をクネクネと続いているわけだが、水田の中に消えてしまっているようだ。そこでやむを得ず八高線に沿って真っ直ぐ進むことにした。 途中から旧道が復活するようで、踏切があるあたりから婉曲した道を通るようになった。また踏切を越えた所に塙保己一の生家があったのだが、忘れてしまって通過してしまった。塙保己一は言うまでもなく江戸時代の国学者で、盲人ながら歴史書の、『群書類従』、『続群書類従』の編纂者である。児玉町が生んだ最大の功労者といえる。 やがて●第七八日市踏切を越えた。 15:28

■第七八日市踏切~植竹
 踏切を越えて右へ曲がり、●特養ホームの前の細い道を進む。前方に見えてくるビルは●神川町役場である。県道を越えていくと低地に下りて行き、●一面水田地帯となっている。神流川の流域地帯であろう。ここから旧道は左右に二手に分かれると芳賀氏は述べている。1本は北へ向かい中肥土へ向かう。その先は群馬県側の道中郷という所に向かうので中肥土に行ったのでは北に回りすぎるが、中肥土にある出雲神社の前の道も旧街道であるという。もう1本はほぼ真っ直ぐ進み、上肥土を通って行く道の方が古いと云われるので、こっちを通ってみることにした。
 旧道は神流川の氾濫域でもあってわからなくなっているし、あぜ道が縦横に走っているので、ほぼ旧道だろうというあたりのあぜ道を迂回路にして通ってみた。   15:55

■植竹~神流川
 このあたり石仏を多く見掛けることができるということだが、見方が悪いのかあんまり残っている様には思えなかった。やがて●土手に向かう真っ直ぐな道へ出て、この先は川を越えて、群馬県側の旧道へ繋がっているはずである。左手に小公園があって●お堂や石仏が集められている。やがて●神流川土手にぶつかった。対岸はどんな感じと思ったら灌木で繁茂しており、全く視界が効かなかった。そこで少し川岸を探検してみようと思ったが、土手に上がるとき休憩なしで歩いて来たせいか、足がけいれんを起こしてしまい、歩けなくなったので断念せざるを得ず、少し休んだら回復してきたのでこのまま八高線「丹荘駅」まで戻り、倉賀野経由で帰宅の途についた。次回は高崎までで上街道一応のゴールとしたいと思います。 16:10

      武蔵嵐山駅~小前田駅   8 群馬藤岡駅~高崎駅