川越・児玉往還を歩く4 
       (児玉~群馬藤岡)
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 児玉駅-仲町交差点-長浜北-八日町-元阿保-神流川土手-藤武橋-天龍寺-群馬藤岡駅          9.34km


2016年7月31日
■児玉町界隈
  JR八高線児玉駅9時25分着。本日は群馬藤岡駅まで行って児玉街道ゴールとしたいと思う。児玉町に来るのも3回目だけど、ゆっくり見ていないので少し界隈を見ておこうと思った。
 まず駅から●競進社模範蚕室へ向かった。養蚕技術の改良に一生をかけたという、競進社社長木村九蔵が明治27年に競進社伝習所に建設した養蚕専用の蚕室である。 九蔵は炭火の火力で内部の湿気を排除し蚕の病気を防ぐ「一派温暖育」という方法を考案したという。 その近くに●玉蓮寺がある。 武蔵七党の児玉党の領主児玉六郎時国の開基で、境内は時国の館跡という。 日蓮上人が佐渡に流罪となった時と赦免になった時ここに泊まったといわれる。
 境内に接して●東石清水八幡神社がある。前九年の役の際、源頼義、義家親子が奥州征伐に向かう折りにこの地に立ち寄り、帰陣のさい、再びこの地に立ち寄り社殿を建立し、京都の石清水八幡宮を勧請したことから始まると伝えられている。●随身門は 宝暦6年(1756)の建立。 町の文化財。 ●社殿、青銅製の鳥居は享保7年(1722)に完成したもの。    9:50

  八幡社の隣が●玉蔵寺。児玉党が新田義貞及び義宗の挙兵に従った折、僧元弘は戦死した者の霊をなぐさめるため、招魂碑を八幡山雉岡に建て、救世観世音を安置し永く供養の霊場としたというのが起源。 門前に●寛政12年(1800)の庚申塔などが集められている。 仲町交差点を左へ入った所に「実相寺」があり、本堂前に●文永2年(1265)の阿弥陀一尊種子板碑が立つ。その手前にある●田島屋旅館は木造三階建ての風格ある旅館である。児玉町は繊維で栄えた町なので、商人宿と思うが三島由紀夫も宿泊したことがあるそうだ。  10:15

■仲町~
  さて、児玉街道歩きを仲町交差点から再開する。●児玉宿の家並みは普通の町並みと変わりがないが、いくつか風格ある家が残っている。 宿継ぎ業務は児玉と八幡山が月交替で行っていた。右手の蔵造りの店にコンクリート造りの建物を合体したようになっているのが●中林美容院。 元々は登記所で、その後郵便局、現在の美容室と変遷してきているだとか。
 その先左へ雉岡城跡へ通じる細い道は●八幡山町と児玉町境で大名小路と呼ばれたという。その先左手に●廃屋ながら全身緑に覆われたすごい建物がある。    10:22

     ~長浜町北
 その先左手の●旧家は福田家。児玉町に関する絵図や文書が沢山保存されている。 左手のコインランドリーは元名主の桜沢家であるという。 八高線のガードをくぐると●長福寺がある。寺内をかっては鎌倉街道が通っていたと考えられている。境内に●延宝8年(1680)の庚申塔等が林立している。寺を過ぎ、ボーリング場を過ぎて直ぐの●「続ケ橋」を渡った先を左折するが、橋袂に●馬頭観音がある。残念ながら上部が欠けて何がなんだかわからなくなっていた。   10:42

 ■長浜町北~八幡山橋
 ●トンガリ屋根の美容室の前を左折して旧道に入る。ホームセンターの裏を通過すると●雑草に覆われた道となり、ここは民家の敷地のようで、進むのにちょっと不安を感じるが、そのまま進み●雀の宮橋を渡る。すぐ先で農免道路をくぐる。その先●あぜ道の中に なんとか道がついているが、旧道はぷっつりと消えてしまっている。。   10:53

 ■八幡山橋~八日町東
 そこで左折して●八高線沿いに進む。日差しを遮るものがなく、かなり暑い。かなり進んでから斜め右に細道に入ると●五叉路の辻にぶつかった。 左手20mくらいの所に●「右 八日町を経て藤岡町 左 児玉町」という道標塙保己一百年碑と記念館入口という石柱が立つ。 五叉路の辻を直進し●八日町の元集落のあった地域を進む。かって両側に集落があったが、江戸時代の大火後右手450m位の所に平行して移ったといわれる。   11:13

■八日町東~熊野神社
 道は●防火槽の所で右へ折れる。真っ直ぐ進むのが鎌倉街道である。まもなく熊野神社が見えてくるが、●手前両側の家は「調査書」に云う、「お熊ん前の店屋」という建物ではないかと思う。かつては飲食を供し、雑貨物を売っていたそうだ。正面に●熊野神社がある。熊野神社は八日町の総鎮守で町指定文化財の獅子舞が奉納される。境内に大きな●万延元年(1800)の庚申塔がある。   11:35

■熊野神社~八日市交差点
 街道は神社の左側を進むが、すぐに●水田で阻まれ消滅している。水田を斜めに突っ切ると旧道跡らしき道が確認できるので、そこに入る。国道254254号左側の未舗装の道を進むこのあたりは左斜めに旧道が通っていたので、その跡を出来るだけたどるように現在の道をたどって行く。集落の中を通り、八日町交差点を右に見ながら進むと、グリーンピア裏の●五叉路の所へ出た。 右角に●道標らしき石柱があるが磨滅していて全く読めない。11:48

 ■八日市交差点~元阿保公会堂
 五叉路からは左斜めに進み元阿保に入る。●周囲に畑と梨畑が広がっている。道沿い左手に「大蔵塚」と呼ばれる古墳があるというが、それらしきこんもりした場所はあったが、案内もなくそれが古墳だとは確認できなかった。
 まもなく県道22号とにぶつかるが、その手前左手に●庚申塔、馬頭尊等石造物が多数ある。観音院跡といわれる。県道を渡る交差点の左角にも●小さな古墳があり、石造物が並んでいる。県道を渡り、●元阿保公会堂の先で左に旧道に入る。   11:51

 ■元阿保公会堂~阿保氏館跡
 入った先は●旧道の雰囲気をよく残していると云われ、毎年2月28日に「ひな市」というのが行われて、露天商が店を連ねるといわれる。突き当たると●一本松跡という 変則交差点に出る。昔は安保館の門前に植えられたいたという松や、旅人が腰を下ろして休憩したという腰掛石、道標があったというが、今はない。●道標だけが残っていて、「右児玉町至 里強」、「右 藤岡 左 本庄」と刻まれる。 左へ進み●旧家の前を右折して行く。左手の大きなカエルの置物が印象的。ここを右へ曲がると● 安保氏館跡之碑が立てられている。安保氏は武蔵七党の一角を占める武士団である丹党を構成する氏族である。元阿保のこのあたりに居館を構えた。
 12:15

 ■阿保氏館跡~神流川土手
 旧道は左に折れ、神流川へ向かう。左手に●阿保神社がある。 かつては「六所大明神」と称したこの神社は安保氏が深く帰依し、社殿を造営し神田を寄付したと伝わる。境内を出た所に●馬頭尊や庚申塔などがまとめておいてある。
 真っ直ぐ進むと● 神流川の土手に突き当たった。道は北西方向に川を渡って上野国へ入った。かつては四軒在家村の管理下に往還の橋が架けられていたという。 神流川土手の先は河原にもかかわらず樹木が繁茂して、川の流れすら確認できない。少しでも川面を確認しようと思って、●轍道を入って行ったら、●御野立所という石柱に出会った。裏面に昭和22年建立とあった。天皇の行幸の休憩所と思って調べたら、昭和21年に天皇が群馬県、埼玉県を視察に出ているので、その際に休憩された場所であろうと思う。
  12:45

 ■神流川土手~小林西
  神流川土手は途中で無くなり、右手の車道に出るしかない。真っ直ぐ行くと国道254にぶつかり、●藤武橋を渡り上野国(群馬県)に入る。●神流川下流は河原は樹木で繁茂して、川の流れは真ん中を細く一条流れるのみ。
 橋を渡った北側の弓状の道が本庄宿からやって来る●下仁田道の跡らしいので、橋を下りてその弓状の道を進む。この道は●沢田橋手前で県道と合流している。   13:20

 ■小林西~群馬藤岡駅
  JR八高線の藤岡街道踏切を渡る。左手は●天龍寺。境内に●霊符殿古墳というのがある。様子は樹木に覆われ写真ではよくわからない。説明板によると墳頂に霞符殿が祀られ、前方後円墳か円墳かはっきりしていないようである。六世紀後半以降に造られたものと考えられるという。 ●八高線に沿ってひたすら真っ直ぐ北上する。西側の県道の方が旧道だったかも知れない。やがて●群馬藤岡駅に到着した。ここが児玉街道の終点とはわからないが、一応のゴールとしておいた。  以上    13:40 

      3 奈良梨~児玉