下総鱻(なま)街道を歩く 2
 下総航空基地-松戸まで
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  布佐-発作-平塚-富塚-矢の橋-基地前-左津間-六実-八柱-松戸   31.6 km

    下総航空基地で切断された鮮魚街道 (スーパーマップルver8)


房総鮮魚(なま街道1)より続く ※ 写真をクリックすると拡大します
2008年3月1日(土)、布佐駅到着、利根川土手脇の観音堂より始め、下総航空基地まで歩く。その先地図のように基地で切断されてしまっている。基地正門から千葉レインボーバスというのが基地の北西までいくことができるが、1時間に2本程度しかない。北方へ迂回して★街道再会地点(鎌ヶ谷市左津間)へやって来た。
 当然基地は金網で囲まれ入ることはできない。右手にさつま幼稚園がある。右手方向に佐津間城跡を探してみたが、よくわからず,先を急ぐし、で取りやめた。   14:25

 南下してきて、渋谷重兵衛米店の信号を左に行く。左手方向には北部公民館がある。手前で右折をして行く。その先右手に★小さな鳥居と道祖神がある。さらにその先に★「南無大師遍照金剛」の碑があり、「左松戸・江戸道」などと道標を兼ねている。道は県道に出、六実駅北側を通る。

六実という所は、明治時代北総地区に開拓団が入り、開拓順にに地区名をつけたもので、初富(はつとみ)、二和(ふたわ)、三咲(みさき)、豊四季(とよしき)、五香(ごこう)六実(むつみ)七栄(ななえ)、八街(やちまた)、九美上(くみあげ)、十倉(とくら)、十余一(とよひと)、十余二(とよふた)、十余三(とよみつ)などとなっている。このあたりは五香六実といって、5.6番目に開拓されたという地区になる。県道をしばらく歩くと五香地区に入り右手に★高お神社がある。「お」の字は(ユニコード 9F97)を用いる。日光今市にも同じ名前の神社があった。境内に「開墾百年記念碑」と共に「史跡 香実会所跡」という石碑が建っている。  15:22

  間もなく道は五香十字路を通過する。新京成線五香駅は線路のの下をトンネルで通過していく。その先左手にぎょっとするような風景に出くわす。大仏の頭だけがでんと置いてある。これがテレビ朝日の「ナニコレ珍百景」という番組で放送された、★仏具店の翠雲堂、の松戸工場の宣伝用の大仏頭部。地元の人には普通の風景なのだろうけど、初めて見るとびっくりするね。
   15:54 

その先常盤平けやき通りとの交差点の真ん中に★子和清水がある。案内板によると昔酒好きな老人が住んでいて貧しい暮らしなのに外から帰るときは酒に酔っている。息子がいぶかってあとをつけてみるとこんこんと湧き出る泉を手で掬って「ああうまい酒だ」と言って飲んでいた。父が帰った後息子が飲んでみるとただの清水だった。この話を聞いた人々が「親はうま酒、子は清水」と言うようになった。・・・・ここは、この水を魚にかけ、鮮度を保つ場所でもあったそうだ。 

 ここから先は、道を間違えたり、撮りもらした所があったりしたので2008年3月16日八柱駅から江戸川まで歩き直しました
 和清水の先、常磐平柳町交差点を右に進み、八柱駅の北側に日本の桜百選に入っているという「さくら通り」の入り口があった。3月半ばとはいえまだ桜は咲いていない。この通りを少し入ったところに江戸幕府が置いた金ヶ作陣屋があったが、現在は★陣屋跡を示す標柱が一本が立っている。鮮魚輸送隊はここで、付近の住民から陣屋の権威を嵩に何度もがらせなどを受けた為、、馬子たちは仕方なく荷の魚をいくらか置いて通してもらうということもあったとか。 

 新京成線・みのり台駅脇で踏切を渡り県道に戻る。工業団地を過ぎ、シャープの工場の先で左斜めに入っていく。★湯楽の里というスーパ銭湯の前を行く。次の交差点の脇に★文化11年(1814)の庚申塔が立っている。その先の道路は広くなり、街路樹もあって、散歩するには気分がよろしい。左側はテニスコートのように聞いていたが、取り壊されたようだ。植え込みの中に★日清戦争の軍馬供出に関する記念碑があり、 このあたり小金牧といわれ、江戸時代は馬の放牧場であったという名残を残す。

  次の交差点で右折して国道464号に出る。「分実」という交差点にぶつかるが、で「わかさね」と読むには少々難しい。鮮魚街道は国道6号に出たところで、千葉大学園芸学部に突き当たって、迂回せざるを得ない。西美登交差点をまっすぐ美登里橋を渡って下りてくると、右手は★松戸隧道、交差点を渡って園芸学部を回り込んでいくと、★学部の入り口がある。

 大学を回り込んで迂回する道は、車も通らず、右側は学部の林が続きなかなか、歩きやすい道であった。突き当たって左折すると、右手の土手に「維新の志士 従五位 竹内啓先生の墓」という案内板があった。竹内啓は慶応3年(1867)流山で小川節斉と名乗って赤報隊の一派を率いて尊皇倒幕の兵を挙げるが敗れて捕縛され、江戸に護送される途中、この地で処刑されたという。墓のあるらしい場所は小山になっていて、立入禁止になっており、下からはかろうじて石碑のようなのが見える。そのまま進むとJRに線路に当たる

 線路を歩道橋で渡り信号で右折、そのまま進むと角町交差点に出る。旧水戸街道、松戸宿である。ここらあたりは水戸街道、松戸宿編に載せておいた。宮前町交差点の先右手に★松戸神社。松戸の総鎮守で寛永3年創建。、御嶽大権現と称したといわれ、明治15年)松戸神社と改称している。日本武尊ゆかりの神社。右手の★原田家は元文2年(1727)創業のお米やさんで、現在の建物は昭和初期のものだがa、建物正面の「しとみ戸」が今でもシャッター代わりに使われている。 

西蓮寺の先の細道を左に入って江戸川土手方向へ向かう。土手にぶつかる角に、舟運をほぼ独占していたという★旧船問屋の青木源内家の塀が再建されている。再建といっても本当に塀だけで、奥はアパートだし、青木家の家は手前に別に建っている。源内というのは世襲名のようで、「青木源内」の表札が架かっていた。土手を上って鮮魚街道の終点である江戸川を眺めてみた。このあたり、★納屋河岸跡という。蔵や納屋が沢山建ち並んでいたのでという。もちろん当時の面影は全くない。これでなま街道の旅も終わるけれど、途中寄り道したり、基地を迂回したりで、行程は35kmを越えた。街道としては7里半30km程度であったという。航空基地までは結構旧跡も残っていたりしたが、越えてからは車道がほとんどで、地元の人の関心もないだろうし、石碑の写真を撮る変人と思われているかもしれない。

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