奈良街道を歩く 2
      (京都から 奈良へ  小倉堤経由)
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 観月橋-向島-西目川-三軒家-小倉-広野新田-久世-城陽駅             9.2km (全38.4km)


 2011.06.24 奈良1からの続き ※ 写真をクリックすると拡大します
■観月橋~向島駅
 ●観月橋を渡ります。上を通る高架橋は新観月橋といい、昭和50年に完成した橋。観月橋は鎌倉時代末期から架かっているもので、桃山時代に豊臣秀吉が架けたものは豊後橋と呼ばれていたるようになる。鳥羽、伏見の戦で焼け落ちて、復旧したのが明治6年。その時から月を観るのに好適の場所にあるということから、「観月橋」と呼ばれるようになった。
 橋の途中から左側を見ると●月見館と三十石舟の看板が見える。月見館は昭和12年に建てられた木造三階建ての旅館で、昔の雰囲気がとても良い。三十石船は伏見と大坂間の船で下りは半日、上りは一日程度で結んでいた。
 橋を渡ったら●観月橋南詰交差点で右折し、秀吉が作ったという小倉堤の上を通る道へ入っていく。  12:40

  宇治川の南部は南部は昔は「巨椋池」と呼ばれる広大な池があり、このあたりは伏見の向うにあるというので「向島」と呼ばれている。戦国時代、秀吉は伏見城の築城資材の運搬水路の水深を保つため、巨椋池内の島を結んで堤防を造った。これから歩く堤防は小倉堤と呼ばれており、この堤防は奈良へ通じる最短の道として使われるようになったのである。巨椋池は昭和16年に干拓されて農地にあり、堤も壊されてきたのだだが、まだ痕跡が残っている所がある。
 右折すると●中之町、両側に家が連なって、細い道が続き、街道の雰囲気がある。所々●白壁の旧家なども残っている。下之町、中島町と続いて行く。 道の両側を見ると、明らかに回りより5m位は高く、堤防の上を歩いているという感じがする。しかし堤防の上に街道を造り、家も造ってしまうので相当幅の広い堤を造ったものだと思う。 ●最初の信号の所で道が広くなって、前方がずっと下り坂になっているので、堤防が壊され宅地化されたのだろうと思う。

 向島駅~落合
 ●近鉄京都線「向島駅」が見えた。東側に向島ニュータウンが広がり、本丸とか二の丸という町名がある。天正末年、豊臣秀吉は、当地に向島城を築き、一時家康の下屋敷として使ったことがあるという。  駅西側は巨椋池を干拓してできた水田が広がっている。 駅前のコンビニで食糧を仕入れた。
 ●駅から最初の踏切地点で、前方は急激に下がり、左手方向に同じ高さに道が続いているので、ここを左折する。小倉堤の古図を見ると、西目川の所が湾曲しており、その名残であろうと思う。 現在の地名は●落合となっているが、左側に家並が続き、右手を見ると明らかに高くなって堤防の上とわかる。古そうな旧家も建っていた。     13:11

■落合~小倉
  ●京滋バイパスの高架をくぐる。この先は堤の痕跡はなく、普通の道が続く。右手は巨椋池干拓地の整然とした水田が広がっている。 「南落合 槇島団地」まで来たら、前方の電柱に●0(ゼロ)の通りという標識が立ち、それが「8の通り」まで続いて、8の次が当然9の通りかと思ったら「12の通り」なのであった。団地は長方形で区切られた、同じような区画になっていた。
 団地を過ぎて、コンビニの先で左折方向が、ゆるやかな上りになっているので、堤防へ上がって行くのだと思い、左折して進んだ。ここは旧●三軒家といい、もっと東側にあった家が、水害の為、堤防上に移転したといわれている。  13:34

  三軒家の集落は両側に家が並び、●虫籠窓を備えた旧家も残っている。
 途中左手に●蛭子嶋神社御旅所がある。御旅所というのは神社の神(御輿)が巡行の際休憩する所をいうので、蛭子嶋神社本体はどこかと調べたら、東側に400m位の槇島町、石橋にある。このあたり旧名を夷島(えびすじま)といい、産土神であったという。 道は府道69号線を越えて行くと左手に●巨椋神社がある。式内社であり、境内にある子守神社の由緒書は立っているが、巨椋神社の由緒書が見えない。巨椋池のほとりに住んでゐた巨椋氏一族がその祖神を祀つたという。  13:50

 小倉~広野新田
 老いの木を通り過ぎる。右手奥は●近鉄「小倉駅」が見える。「任天堂」の工場脇を通って進む。●「井川」を越えた。右側に遊歩道が整備されている。この川は所々暗渠化されているが、平等院の池と藤棚の間に暗渠が通って宇治川に達しているという。
 道は右にカーブして●府道69号、城陽宇治線と合流する。   14:15

 
 府道はやがて、●近鉄「伊勢田駅」をすぎた信号の所で、再び府道と分れ、左へ入って行く。少し上りになっている。
 「広野新田」に入り、府道15号線と交差点で●宇治屋の辻と呼ばれる。左手角に大きな道標が立っている。東側から小倉堤が開通する以前の古い「奈良街道」が進んで来ている。古い奈良街道は、巨椋池をさける為、深草大亀谷から六地蔵、六地蔵から宇治経由のルートがとられていて、それは現在のJR奈良線と同じように進んでいる。秀吉が小倉堤上の道を抜ける新「奈良街道」を造り、古い巨椋池の東側を進む「奈良街道」とここで合流するのであった。
 角に2つの街道の分岐を示す●道 標が立っていて、蓮華を持つ「十一面観音」浮彫りされ、「右 うぢミち 左京道」と大きく彫ってある。但し道標自体は新しいもので、本物は広野公民館に移されているとか。   14:36

  広野新田~久世神社
 
JR新田駅を過ぎて、右手に●皇大神宮社がある。淀藩第二代藩主、永井信濃守尚政公が、慶安2年(1649年)広野新田村を創設した時に、円蔵院の鎮守として、天照大神を捧祀した。明治維新の神仏分離令により、円蔵院から分離された。
 やがて●城陽市に入って来た。境界を過ぎてすぐ右手奥の小さな、建物に囲まれた、見にくい所に●御拝茶屋八幡宮がひっそりとあった。読みにくい由来書を見ると、延喜20年(920)の鎮座と歴史が古く、このあたり奈良街道では一番高く、峠状を呈して、遙か西方に石清水八幡宮を遙拝できるとしてある。現状ではとても峠状とは思えないし、石清水八幡宮遙拝所とは信じがたい。
 14:54

  ところがすぐ先の右手に●六角形の屋根を持った、石造りの燈籠のようなものが立っていて、御拝茶屋八幡宮と同じ説明がしてある。ここは西方が良く展望できる場所であるし、先の八幡宮の環境が悪くなったので、作り直したのではないかと思う。歴史のある八幡宮であると強調したいのであろうか。 左手に●久津川車塚。丸塚古墳がある。 長約272m、墳丘長は約180m。二重の周濠が巡る。5世紀前半に作られたと考えられており、南山城地域の首長の墓と見られている。   15:04

 続いて右手に●平川廃寺跡がある。平川寺は奈良時代中頃に創建され、平安の始めには焼失して再建されなかった。伽藍配置は法隆寺様式であり、かつては国分寺に匹敵する、大規模な寺院だったと見られる。南山城地域における奈良時代を代表する寺院として昭和50年国指定史跡になった。 次に奈良線の踏切を渡った高台に、久世神社がある。●参道から続く境内は久世廃寺跡地とされる。奈良時代前期に創建され、11世紀前半に廃絶している。塔を東に、金堂を西に置く、法起寺式伽藍配置をとる。
 ●久世神社本殿は丹塗りの一間社流造、檜皮葺。室町中期の創建とされ、重要文化財である。  15:20

 ■久世神社~城陽駅
 
久世神社の脇の坂を「鷺坂」といい、万葉集など和歌の名所であり、久世廃寺など古代遺跡が集中し、政治文化の中心地だったとされる。そこで境内玉垣の脇に●万葉歌碑が建つ。
                  山代 久世乃鷺坂 自神代 春者張乍 秋者散来
                   (やましろの くせのさぎさか かみよより はるはりつつ 秋はちりけり

 また神社の東側に●正道官衙遺跡というのがあるので行ってみた。当初、古代寺院跡と推定されたが、大規模な発掘調査により、奈良時代の郡衙(役所)中心部分と推定される掘立柱建物群跡が見つかり、地名を取り、正道官衙遺跡と名付けられた。奈良時代の山城国久世郡の郡衙中心部であると推定される。当時の掘立柱建物群が復元されている。
 その後●城陽駅付近の旧道へ戻り、城陽駅で本日の歩きを終えた。寄道が多くていささか疲れました。     16:10