奈良街道を歩く 3
      (京都から 奈良へ  小倉堤経由)
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 城陽駅-長池-山城多賀-玉水-山城-木津川橋-奈良坂-今在家-転害門        21.02km (全38.4km)


 2011.07.03 奈良街道2日め  ※ 写真をクリックすると拡大します
■城陽駅~長池
  2日目は●JR奈良線「城陽駅」から始ります。城陽市には大規模な寺院跡、官衙跡など古代の遺跡が点在しており、駅前のモニュメントの回りには埴輪が並べられて、きれいに整備されている。朝9時30分旧道に戻って奈良へ向って出発。このコース、街道の回りに旧跡が点在しているようだけど、寄道していると、きりがなく、奈良まで行着かない可能性が高いので、近い所だけにしようと思う。 歩き始めるとすぐ、左手に●水度神社の参道が奥へ続いていた。式内社で本殿は重要文化財ということだが、地図で見ると片道700m程あり、とても無理と思い、寄らないでおいた。 ●府道69号線に合流して、JR長池駅前あたりで、左手の旧道へ入って行く。    9:50        

  旧道に入った所は昔の●長池宿である。このあたりは、京都へ5里、奈良へ5里と中間に位置し、「五里五里の里」として、秀吉の時代には宿場が置かれ、 京都と奈良を行き来する人々でいつも賑わっていたといわれる。現在は静かな落着いた町並となっている。右手に観光案内所を兼ねる「菓子司 松屋」がある。
 街道入ったすぐ右手に●長池の碑と呼ばれる道標が立っている。・・ 「是北 京都街道 新田??丁 京都 五里  伏見二里  長池驛」 「南  奈良街道 奈良四里半  木津三里半  玉水一里半」・・等。昭和3年のもの。確かに京都5里となっている。
 少し行くと右手正面に明らかに昔は●茅葺だったと思われる家がある。道標の向い側にも格子を備えた旧家があった。そんなところが宿場の面影と言えようか。     10:10

  右手の家に小さな石柱が立っている。●「明治十年二月八日木戸孝允公御中飯処」とあった。天皇が行幸の時、休憩したという(天皇御駐輦記念碑)碑というのは各地で見たが、明治政府の要人とはいえ、木戸孝允が昼食取ったくらいで、記念碑が立つとは、初めての経験である。「木戸孝允日記」を図書館で見たところ、確かに明治10年2月8日、田口乾一ら3人と「梅本甚兵衛」宅で昼食を取っていた。ちょうど前日7日より明治天皇の大和行幸が始っており、その随行の際の出来事であろう。しかし木戸孝允は同年5月に病没しており、没する3ヶ月前で、かなり辛かったのではないだろうか。 隣は棟続きでかなり大きい●旅籠のような建物で、「梅本家」の建物だろうと思う。●「南城陽中学」の西角の所を左折して行く。     10:23

■長池~山城多賀
 「長谷川」を過ぎると、●道は急激に下り坂になる。右手のとんがり帽子の建物は●青谷保育園」。その奥にJR奈良線「山城青谷駅」がある。このあたりは梅干など造る工場があちこち目に付き、左手奥に「青谷梅林」というのがある。収穫された梅は梅干しなどになり、栽培面積、生産量とも府内一を誇って、結構有名だそうだ。
  道は段々上り坂になってきて、てっぺんで国道307号と交差する。渡ると「青谷橋」があって、下は水がちょっぴりしか流れていない●青谷川。かなりの天井川になっている。上り坂はこの川の為であった。先の「長谷川」もそういえば、天井川だった。
 滋賀県や奈良県は寺院建設や燃料の樹木の供給基地になり、森林の伐採の為、山が荒廃し、雨で流失した大量の土砂の堆積により河床が高くなり、洪水と築堤を繰り返して天井川が形成されていったという話がある。東海道草津宿の「草津川」も天井川だったのを思い出す。ここで城陽市から「井手町」に入る。     10:50 

  ■山城多賀~玉水
 下り坂の●「山城多賀駅」付近を過ぎる。駅への案内板がちょこっと立ち、駅への道も狭く、無人駅だろう。
●「南谷川」を渡る。この川は結構水量が多かった。奈良線のガードをくぐって、●木津川の土手の手前に出た。府道70号を南下して行く。     11:11

 玉水~木津川市
 
●「玉水駅」が見えた。城陽駅の次の快速停車駅なのだけど、その割に駅前周辺が寂しく、「玉川繁栄会」という駅前商店街らしきものはあるのだが、一般の商店がなく、電気店が3軒とお茶屋さんだけ。駅を過ぎて左折して玉川を渡っていくが、この玉川には結構歴史があった。  本来左折して線路を越えて行くが、右手の玉川の土手に架かっていた看板につられて、玉川の方回ってみた。
 ●玉川の遊歩道が整備され、「小野小町」の歌のプレートなどが設置されている。
 土手上に立っている案内板によると、この地に橘諸兄が盛大な別荘を構え、この●玉川に聖武天皇の行幸を仰いで盛大な宴遊を催したといわれる。天平の昔に水際にくまなく山吹が植えられたといわれ、永年その美を誇った。日本六玉川(注)の一つで古来和歌などによく詠まれています。近年地元の努力により、山吹、桜の名所として復活した・・・・・という
 外に小町塚など見所は結構あるようだけど、とても回ることはできなかった。       11:31
  (注)
 ・高野の玉川 紀伊-毒水 和歌山県高野山
 ・卯花の玉川 摂津-卯花 大阪府高槻市
 ・井手の玉川 山城-山吹 京都府井手町
 ・野田の玉川 陸奥-千鳥 宮城県塩釜
 ・調布の玉川 武蔵-調布 東京都調布市
 ・野路の玉川 近江-萩   草津市野路町

 ■木津川市~蟹満寺
 やがて●木津川市へ入って来た。木津川市入ったらとたんに、両側に旧家が見えた、但し左側は「阿弥陀寺」で、門が閉じられ入れない。●右手はかなり大きな旧家。 前方に「以仁王」の墓の案内板が立っているので、案内に従い、左手へ入り、奈良線の踏切を越えると、●高倉神社があった。高倉神社は、平安時代末期(12世紀)の後白河法皇の第二皇子以仁王を祀る神社で、隣接して以仁王の御墓があります。 ここの鳥居は変っていて、何故か柱の上に鍋ぶたが乗っている。     11:55

  ●以仁王御墓
 後白河天皇第三皇子にあたり、治承4年(1180年)平家追討のため、令旨を出して3位頼政と共に挙兵したが、宇治川合戦に敗れ、奈良におもむく途中、この地の光明山の鳥居前で流れ矢に当たって落命した。この悲劇の王を悼んだ里人により墓が築かれたといわれています。皇族の陵墓なので宮内庁が管理している。
  街道に戻って、600mも歩くと、蟹満寺の案内表示があるので、天神川沿いに400m歩いて行く。寺の入口の前に
 ●綺原(かんばら)神社がある。綺原神社は、「大日本史」、「日本書紀」、「延喜式」にも綺原座伊那太比売(かんばらいにますたていなだひめ)神社として記述される古い由緒を持ち、祭神は、「タテイナダヒメ」とされる。「綺原」は、神に献ずる衣服を織る、紙織(かびはた)、神織(かむはた)とも呼ばれたことによるといわれる。神社の前に蟹満寺がある
 ●蟹満寺(かにまんじ)
 蟹満寺は、「今昔物語」に出てくる「蟹の恩返し」の縁起で有名で、実際には蟹幡(かむはた)郷という古代の地名に由来するとされる。この地には渡来系民族で織物にたずさわる人が多く住んでいたようで、白鳳時代末期に国家かそれに準ずる豪族によって建てられたと考えられています。本堂は宝暦9年(1759年)に建て替えられ以降そのまま250年間経ち、平成22年改築されている。本尊の釈迦如来像は国宝。      12:20

 ■蟹満寺~椿井大塚古墳
 街道に戻って、南下を続ける。●棚倉小学校の先の細い道へ入り、奈良線を低いトンネルで抜け、JR棚倉駅前には●湧出宮(わきでのみや)という神社がある。入口に大きな「湧出宮」の石碑が立っている。実名は和伎座天乃夫岐賣神社(わきにますあめのふきめじんじゃ)といい、式内社にして、創建は天平神護2(766)年、伊勢国五十鈴川の畔より、天乃夫岐賣命勧請したと伝わる。 天乃夫岐賣命とは天照大神の御魂であるとされる。後に宗像三女神を伊勢より勧請、併祀している。
 大神をこの地に勧請したところ、一夜にして森が湧きだし四町八反余りが神域となったということから、湧出宮という。 本殿は元禄5年の建築で、三間社流造。 その後又奈良線のガードをくぐり、府道70号線も越え、左折すると●鳴子川を越える。ここも天井川であった。  13:10

  西音寺、春日神社と過ぎて、府道70号に合流するので、200m行ったら、●左手の脇道の坂を上がって行く。椿井大塚山古墳の案内板が立っている。案内に従って、奈良線のガードをくぐると、線路際に●椿井大塚山古墳がある
  昭和28年、奈良線拡幅工事が行われた際に、偶然に竪穴式石室が発見され、その後の発掘調査で、石室内からは、邪馬台国の女王卑弥呼の鏡とも呼ばれる「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」三十数面を含む四十面近い銅鏡や多くの副葬品が出土し、全国的に大きな注目を集めたという。築造期は3世紀末で、山城地方最大の前方後円墳である。後円部はJR奈良線によって分断されたり、破壊が進んでいて本来の規模などわかっていない。   13:28

 ■椿井大塚古墳~木津川橋
 ●古墳から府道70号までの道は、細く両側に古い建物などが混在した、旧道の雰囲気が残る道で中々良かった。府道に入って、「上狛」交差点から、真っ直ぐ南下する道は●山城茶問屋ストリートというようで、茶問屋が沢山並んでいる。  左手に「伊右衛門」で有名になった●福寿園本店がこんな所にあった。寛政2年の創業で木津川の船着場として、また大和・伊賀街道の交叉地として諸物の集散地であった、この地に福井伊右衛門により茶商として始まった。左手に「山城茶業之碑」がある。
 またこのあたりの山城町上狛には8世紀前半まで、山城国府が置かれていた。大将軍の地名は国府の4方を守る為に大将軍を祀った跡といわれる。街道をはさんで「東作り道」、「西作り道」などの古い地名も残っている。    14:00

  問屋ストリートは木津川の土手に突き当る。左手に●泉橋寺がある。泉橋寺は、奈良時代に行基によって木津川に架けられた「泉大橋」を守護・管理するために建立された寺院である。その門前にある●地蔵石仏は、徳地3年(1308)に地蔵堂が上棟された時にはほぼ完成していたとみられる。しかし応仁の乱の際焼失して、それ以来石仏は建物がないむき出しのままとなっている。 
 昔の「泉大橋」は度々洪水により流失し、無くなった場合は渡しによっていたようである。現在の●「「泉大橋」を渡る。

 ■木津川橋~馬場南
 「泉大橋」を渡り、土手を右折して、昔の橋の地点まで向う。 土手から下りて行った、「学研都市線」の踏切の脇、名前がわからない寺の中に●和泉式部の墓がある。1.3m程の五輪塔。式部の墓はあちこちで見たが、ここにもあった。最近では西国街道の「伊丹坂」で見ている。地元の伝承では木津で生まれ宮仕えの後、木津に戻って余生を送ったといわれている。
 踏切を渡った、右手に正覚寺がある。境内に●洪水供養石佛という供養碑が立っている。お堂の中に石造阿弥陀如来像が座す。正徳2年(1712)に起きた大洪水で大きな被害をもたらし、台座には次のような銘文が刻まれています。
  ・・正徳二年辰八月十九日洪水によって此の川筋の近在辺境の人民おぼれ死するもの幾千人といふ数をしらす、・・
  正覚寺を過ぎると、また両側に古い家が連なり、●旧道の感じを醸し出す道が続いている。  14:40

 左手の●天主神社は京都の八坂神社を勧請して、祭神は牛頭天王。本殿が室町時代後期で、小さい割に古い。
 「極楽橋」を越えて、●井関川沿いに続く道も、軒卯建を持つ家があったりして、旧道らしい道である。やがて●関西本線(大和路線)のガードをくぐる。このあたりからずっと奈良に向って上り坂が続き、いささか疲れてきた。    15:05

■馬場南~奈良市境
 右手に法然上人、御旧跡の●安養寺がある。案内が見あたらず、どこが旧跡なのかよくわからないが、なんでも、法然上人念仏石というのが伝えられているとか。 ●「市坂南口」信号で右手に入る。この道はすぐ府道754号に合流してしまう。大きな「州見橋」をくぐると、やっと、京都府と別れて、●奈良県、奈良市へ到着した。    15:37

■奈良市境~般若寺
  「梅谷口」交差点を経て、●「奈良阪」バス停の所を右に入る。いよいよ奈良坂で、あと少しでゴールとなる。右手に●奈良豆比古神社がある。境内には、創建の時からとされる樹齢1300年の樟の木があり、天然記念物に指定されている。 奈良坂は大和国と山城国を結ぶ古くからの交通の要所である。●町並もいささか崩れかけた古い家なども並び、歴史を感じさせる。   16:00

般若寺
 創建ははっきりしないが、寺伝によると629年高句麗の僧慧灌がこの地に寺を建て文殊菩薩像を安置したのに始まり、その後天平7年(735)聖武天皇の時、平城京の鬼門鎮護のため堂塔を造営されたと伝えられています。平重衡による南都焼き討ちの際には、東大寺、興福寺などとともに般若寺も焼失した。その後徐々に復興し、鎌倉期の建築様式をもつ●楼門(国宝)が残っています。●本堂は入母屋造、本瓦葺き。棟木に寛文7年(1667年)上棟の銘がある。寺のシンボルの●十三重石塔(〔重文)は、高さ約14.2m、建長5年(1253)頃、南宋国明州の石工、伊行末が建立。規模の大きさ、みごとさで日本代表的石塔である。明治初期の廃仏毀釈でも甚大な被害を受けた。第二次大戦後、諸堂の修理が行われ、境内が整備されている。

■般若寺~今在家
 般若寺から350m程下ると●北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんと)が建つ。鎌倉時代につくられたハンセン病などの重病者を保護・救済した福祉施設である。寛元元年(1243年)、西大寺の忍性によってつくられた。当初は般若寺の北東に造られたが、焼失し寛文年間(1661~)に現在地に移った。東西約37m、内部は18室に区切られている。1室の広さは2畳ほどで収容者に衣食住を提供した。その数はのべ1万8千人といわれる。国の史跡だが施錠されて、非公開のようだ。
 右手にいかにも崩れ落ちそうな、レンガ造の廃屋が建って、●「奈良市水道計量器室」の表示が見える。別に文化財というわけでもなさそうで、よくも壊さずに保存してあるものだと思う。
 奈良坂を下りきると、佐保川にかかる●土橋があります。鉄製の欄干があって、舗装してあるので、普通の橋に見えるが、慶安3年(1650)前に奈良奉行所が架けた当時の土台をそのまま使用している。文化財ではないかと思うけど、特に案内らしきものは立っていない。親柱も昔のままらしい。「さほかは」などと彫ってある。   16:37

■今在家~東大寺転害門
 「今在家」信号で●国道369号に入る。奈良の北の入口である。さすがに旧家、老舗らしい店が並んでいる。ほどなく左手に●東大寺転害門が見えた。幾度かの戦火をくぐり抜けた、天平時代の東大寺の唯一の遺構である。ここの角の●「転害門前」交差点が奈良街道の終点であるという。京都五条から寄道なしで38km。昔の人だと1日の行程だろうと思う。あちこち寄ってきたので50km弱かかり、2日で完歩しました。   16:35