佐倉・成田街道 2
                          八千代台から成田まで  
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    新宿-小岩-江戸川-市川-船橋-成田分岐-八千代-佐倉-酒々井-成田     52km


2008年6月15日、※ 写真をクリックすると拡大します
朝8時30分東葉高速道八千代緑丘駅
へ到着。早速、前回の地点まで戻る。
■八千代台~大和田
 合流地点左手に、●馬頭観音やなどがまとめられている。またその先の所などにも●如意論観音、十九夜碑などがまとまって置いてある。子安講中、女人講中の建てたもの。安永五年などの年が刻まれている

●長妙寺
 街道はやがて大和田地区に入るが、ここは大和田宿があった所。市役所を過ぎた先の長妙寺に、なぜか江戸の大火で火あぶりの刑となった八百屋お七の墓があった。特に案内板は出ていない。黒御影石の墓碑や墓の造りは新しいもの。お七は現在の八千代市に生まれ、江戸本郷の八百屋徳兵衛に養女となった。恋の相手に会いたいが為放火をし、天和3年(1683)、鈴ヶ森で火あぶりにあった。実母が密かにお七の遺骨を受け取り、長妙寺に葬ったという。文京区白山の円乗寺にもお七の墓がある。ちなみに恋人吉三郎の墓は東海道島田宿、関川庵という所にある。 9:30

●時平神社
 道は下り坂となって谷間を流れる新川を横切っていく。左手に時平神社がある。時平とは藤原時平のことで、菅原道真を大宰府に左遷させた張本人だといわれている。昔時平の子孫が難船してこの地方に漂着し、のちに定住し、先祖の時平を祀ったという由来がある。
 新川を渡る。新川は印旛沼の排水路で、橋の左手に●「水資源公団」の大和田排水機場である。印旛沼はあばれ沼”と呼ばれ、幾多の災害を引き起こしてきた。 江戸時代から、治水・利水をめざして開発が進められたものの、事業は次々に挫折し、この排水機場の完成まで治水の歴史が続くこととなる。9:45

■大和田~臼井台
 すぐに東京の周辺をぐるっと回る●国道16号の立体交差を通過。左手に大きな●長屋門備えた旧家らしき建物を発見。地元の名家でしょうか。ゆるい坂を上ると八千代市勝田台。京成電鉄勝田台駅が右側にあり、東葉高速鉄道の終点東葉勝田台駅も地下にできていて、東京方面が便利になった。駅前を通り過ぎると、すぐ佐倉市です。9:55

 ●加賀清水
 井野交差点手前に、マンションの手前の路地を入った先に小さな親水公園が設けられている。加賀清水という涌き水があって、そこの水を使って、その水を使って「林屋」という店が茶屋を商い、当時成田山の信者であった歌舞伎の七代目市川団十郎が、参詣の度に立ち寄ったといわれます。そして団十郎は、天保2年(1831)に、旅人のため成田山への道と加賀清水の案内を兼ねて●道標を建てた。今では中古車店の車にはさまれるようにして常夜燈や道標が立っている。 10:25

 ●ユーカリが丘は、ディベロッパーの「山万」が中心となって開発した大規模な住宅地です.。ショッピングモール、スーパーSATY、そして高層マンションが林立している。。そしてここのユニークな点は、純民間会社の「山万」1社で運行されている、新交通システムが存在している点にある。[ユーカリが丘線」というモノレールがラケット状に住宅地内を走っている。駅前を過ぎと、坂道になり、上がって行きます。右側に上座公園がある。上座の信号を過ぎると●手繰の坂を下りますが
、相当急坂で、昔は雨が降ったりするとぬかるんで難儀したのではないでしょうか。その代わり、坂の上からの眺めは結構良い。手繰橋を渡ります。11:10  

■臼井台~新臼井田
 橋のすぐ先から●左手へ登る坂道は成田街道の内で最大の難所といわれた所で、臼井台とよばれる。坂を上りきった丁字路正面に●文化3年(1806)に建てられた道標がある。左側面に「西 さくば道」、正面に「右 成田ミち」、右側面に「左 江戸みち」と刻まれている。このあたりは普通の住宅地だけど、周囲には名所史跡があるようで、案内板も整備されていて、わかりやすい。その中で、有名な雷電為右衛門の碑と墓へ向かいます。

●雷電為右衛門の碑
 道を少し下りた、妙覚寺の境内に史上最強名大関雷電の碑が立っている。当時はまだ横綱という位はなく大関が最高位だった。雷電は信州のうまれだが、巡業か成田詣での途中でこの宿場に立ち寄ったとき、甘酒お茶屋の娘おはんを見初めて結婚した。晩年はしばらくここにも住んだという縁で、建てられたものである。左側に手形と案内板があり、自分の手と比較してみた。自分の手は男にしては小さい方だけど、雷電の第一関節くらいまでしかなかった。外の人もあてて見るようで、黒光りしていた。 11:25

元に戻り、これまた急な坂を下りると、国道と合流します。このあたりに臼井宿が広がっていた。左にすすむとすぐに中宿の丁字路にぶつかる。
左角に臼井 color="#0000ff">●町の道路元標と「明治天皇臼井行在所」の碑が集められている。このあたりが宿場の中心地だったのだろう。中宿交差点から京成電鉄の踏み切りを渡った三叉路に●「道標と石仏」が並んでいる。道標の正面には「西 江戸道」、右側に「南飯重生ケ谷道」、東側に「東 成田道」、文化3年(1806)とある。右隣の石碑には仏像の下に「さくら道」と彫られている。左の道標より古いもので、当時は「成田道」でなくて「佐倉道」とよばれていたとある

■新臼井田~江原
 京成電車の線路沿いに歩きます。国道はゆるやかに上って行く。やがて竹林の中の左側に、江戸時代、ここに●佐倉藩の江原刑場があった。左の藪中に「南無妙法蓮華経」と彫られた大きな供養碑が建っている。天保14年(1843)佐倉藩の藩医「鏑木仙安」らがが刑死者の遺体解剖を行った。付近には首洗いの井戸があると案内板に書いてある。刑場跡を過ぎ、鹿島川を渡ります。12:05

■江原~佐倉城址公園
 佐倉城
  ●鹿島川を渡ると、右手に大きな森が広がっている。江戸時代、土井利勝が築いた佐倉城があり、現在は広大な「佐倉城址公園」になっている。中心に「国立国立歴史民俗博物館」が建つ。旧道は右手に折れていくようで、西側●「出丸跡」の方から堀に沿ってUターンの様にして入って行く。土井利勝はその後古河藩に転封していくが、以来佐倉城は、徳川譜代の有力大名が城主として封じられ、中でも堀田氏は5代126年間も続き、幕末の時の藩主堀田正睦はペリーと交渉にあたったりして有名である。また正睦はオランダ医学を藩に導入したりしている

●国立国立歴史民俗博物館正面
 美術系の国立博物館などとは違って歴史系の博物館として設立された。歴史学、考古学、民俗学、民族学を通じて、日本の歴史、文化を研究する博物館です。一回行ったことがあるが、模型などで豊富に展示され勉強になる。
●麻賀多(まかた)神社
 公園の東側成田街道脇にある。佐倉の総鎮守で、社殿は天保14年藩主堀田正睦が再建したもの。あまり聞かない名前の神社で、印旛沼の東側から南にかけての地域にのみ存在する神社だそうです。
 13:15

■佐倉の町並み
 神社を出るとすぐ、新町交差点で、ここを鉤形に左折して行く。ここから佐倉新町郵便局あたりまでが宿場の中心街であった。旧家や商屋があちこち点在していて、趣のある通となっている。
●蔵六餅本舗木村屋
 銀座木村屋より第二号店として、明治十五年に創業された。堀田家に伝わる亀の甲のような蔵六石を模した最中「蔵六餅」を造る。●市立美術館
 大正時代の建築・旧川崎銀行佐倉支店(千葉県指定有形文化財)を活用して建設された。 13:25

●さくらまちづくり交流センターという建物がある。古い商家風建物を利用したもので、「佐倉案内人本部」という張り紙もある。家の前には「明治の寿るがや跡」という行灯が置いてある。佐倉の古い資料が置いてある。中には入らなかった。
●三谷家住宅
 明治から昭和初期の建築で、近代佐倉を代表する有力商屋建築を代表する、造形的にもすぐれた建物であり、佐倉の伝統的な商屋建築として貴重なもの。

●佐倉順天堂記念館
 佐倉順天堂は藩主堀田正睦の招きを受けた蘭医佐藤泰然が天保14年(1843)に開いた蘭医学の塾。西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ、佐藤尚中をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出した。佐藤泰然は麻酔を用いる手術を危険として採用せず、無麻酔手術を行った。治療室にはそのとき用いられた手術用具が展示されている。それにしても、麻酔なしで手術というものがどんなものか想像がつかない。昔西部劇の映画で、麻酔が無く、ウイスキーを飲ませて手術を行う場面を見たことがあるけど、阿鼻叫喚のすごい情景になるのだろう。 13:45

■本佐倉~酒々井
 旧道は上元佐倉で国道296号に合流する。国道51号線と交わる一つ手前の道を左折して行くと、酒々井の宿に入ります。特別案内などはないので通過してしまいがちになるが、旧宿場風情は十分感じられる。右手の●八坂神社から農協あたりにかけてが宿場の中心地だったようです。商屋風建物や土蔵造りの旧家が数軒並び、静かなたたずまいをみせている。

■酒々井~伊篠
 酒々井の宿を出て、左手に●「酒々井下り松三山碑」という案内がある。携帯用QRコードが付いていて、案内が聞けるようになっている。中々面白い試みだと思う。
 京成酒々井駅前通りから、旧道は左斜めへ入り、すぐ右折します。集落の曲がり角に●庚申塔や、道標があり、旧道であることがわかります。 14:35

コンビニの先で国道と合流するが、旧道はすぐ次の●交差点で右にはいって行く。信号の下に道標が立っていて、右折して行くことを示す。道標はほとんど文字がわからないくらい。
 国道を横断した先は段々坂になっていて、竹林の中の上り道は●「大坂」とよばれ、ここには通行人の荷車を後押しする「押し屋」が常駐しており、荷車の後押しに活躍した場所であったらしい。14:50

●伊篠の松並木跡
 坂をのぼりつめたあたりから、国道に隣接しながら800mにわたって伊篠の松並木がはじまる。昭和43年に史跡として指定された当時は、松並木を形成していたが、松食い虫にやられ、多くは枯死してしまい、史跡の指定も解除になってしまった。今でも石碑なども残っており、街道の面影は残っている。

■伊篠~成田
 旧道はコンビニの先で国道を斜めに横切りって行く。左手に●古い石仏がたたずむ。顔の風化がひどいが、文政4年(1821)とある。のどかな田園地区を通り過ぎていく。国道51号に合流するとまもなく成田市境である ●国道の先の交差点で道は左の国道51号と国道409号に分かれる。この先500mほどで再度交差するので、どちらを行っても良いように思い、古くさそうな409号の方を進んだ。15:25

 ●並木の交差点に出て、51号を横断して行く。そのまま成田山参道の入口である一本松に到達する。一本松跡交差点に●記念碑がある。昭和51年まで文字通り一本松があったらしい。この三叉路から左に出ている道は宗吾街道とよばれ、酒々井とのほぼ中間点の西方にある宗吾霊廟に通じている。そのまま真っ直ぐ歩き、JR成田線を越し、●京成成田駅を過ぎると、成田参道に出ます。16:00

■成田山参道
 成田は伊勢と並ぶ大きな門前町で、参拝客は1300万人くらいと言われている。同時に成田空港開港で、今や国際都市と言って良い。天保年間、門前には、
旅篭屋が30軒余り、あったそうです。今では老舗やみやげ物屋がずらりと並んでいる。ひときわ目につくのが●望楼が目印の「大野屋」旅館。文化庁の登録有形文化財に指定されている。
創業300年というけど、建物は築70年ほどで、あまり古い物ではないという。当初は成田山へ納める蝋燭を商っていたと言うが、その後旅館業を営んでいる。ちなみに昭和初期には旅館が46軒あって、参拝客の9割が宿泊したが、今では日帰り客が多く、旅館も数軒ほどだそうです。

■成田山新勝寺
 真言宗智山派の大本山で、開山は940(天慶3)年。平将門の乱を平定後、朱雀天皇が東国鎮護の霊場として、不動明王を祀り、新勝寺を建立させたという。。その後、江戸深川で本尊の出開帳を行ない、
また歌舞伎役者初代市川團十郎が「不動明王霊験記」を上演してから、信者が急増したという。●総門・・開基1070年に当り、その記念事業として完成した。唐様、五間三戸の楼門で総欅造り、壮大で立派。さすがにお金持ちであるね。
●仁王門・・文政13年(1830)建立。左右に密迹(みっしゃく)金剛、那羅延(ならえん)金剛の2 像が奉安されており、境内入口にあって境内守護の役目をしています。

 ●三重の塔
 正徳2 年(1712)建立。塔内には五智如来を奉安し、周囲に「十六羅漢(らかん)」の彫刻がめぐらされた塔です。また、雲水紋の彫刻をほどこした各層の垂木(たるき)は一枚板でつくられた珍しいものです。塔の高さは約25m。
●大本堂
 昭和43年建立。弘法大師によって敬刻開眼された不動明王を御本尊として成田山で最も重要なお護摩 ご祈祷を行う道場です。東西の翼殿の1階は、お護摩ご祈祷札お渡し所。2階は身代御守りなどの 御守受場となっています。・・・・・いずれも成田山のHPから     16:15
 さて一応ここで成田街道の旅も終わりとしたいが、本当のゴールは少し先の寺台にあった、寺台宿まで行かないといけないらしい。参道周辺が賑わう享保年間(1716~)以前は寺台宿で庶民は宿泊していたとのこと。ま、くたびれたし、お寺見物で終わりにしようと思う。2  回にわたり約52lmの歩きでした。帰りはJR成田線経由にて

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