西近江路を歩く 3
      (大津市~海津町)
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    近江舞子駅-樹下神社-北小松-岩除地蔵-白鬚神社-48仏-打下-大溝城-本町-安曇川-新旭       17.4km


■南小松~大堂川 ※ 写真をクリックすると拡大します
 2013年2月3日 西近江路3回目 今回は近江舞子から新旭あたりまで行くことにしたい。
 駅から前回の南小松の終了地点まで向う。●白髭神社道標が立つ二股を左に行くと、高くなっている天井川があり、そこを越えて行くと下り坂になる。西方寺前信号で国道に合流する。左手に●西方寺がある。もとは天台宗で開基は忍性といわれるが、現在は真宗本願寺派。
 50m程で街道はすぐに左の●旧道にはいる。畑の中を行く農道となっている。ところが大堂川手前で●鉄柵が張られていた。よくあるイノシシよけの柵で、かんぬきでもはずして通り抜けても良いのかと思い、しげしげとみてみたらガッチリ固定してあって、通るのは無理のようだった。そこで国道へ迂回し国道を進む。     10:12

 ■大堂川~樹下神社
 ●旧道が通っているはずの所は整備された圃場地帯であり、回りをぐるっと金網で囲ってある。それでも旧道を探してJRの高架を過ぎると、国道のバイパスが通っており、付近に●「楊梅の里」と深く刻まれた土地整理事業記念碑が立っている。
 北小松駅の北西の所に落差76mの県下一美しいとされる楊梅の滝がある。それにちなむものかと思う。
 国道を進んで「北小松駅」前の樹下神社の所まで来ると、左手から●旧道らしき道がやって来ている。この間1800m程旧道が圃場の中に消えていた。    10:40

  ■樹下神社~北小松
 左手奥に●樹下神社がある。同名の神社が十禅師権現とみえ、日吉大社摂社樹下宮を勧請したのに始る。一間造りの社が二社あって。天満宮と金比羅宮。 鳥居を出て、●交差点の先を右に入り、北小松の集落に入っていく。湖畔近くで丁字路を左折すると●北小松町並の中心に入った。北小松は西近江路の宿場が置かれた所であり、前の木戸宿から2里8町。次の河原市宿(現高島市新旭町)まで3里半である。本陣役を池田家が勤めていたという。 落着いたの感じの町並だが、あんまり往時の雰囲気は残っていないようだった。 10:56

  ■北小松~岩除地蔵
 北小松の集落を抜け●国道に合流する。このあたりは湖岸側に歩道がなく、左側に一段高く歩道が付いている。しばらく行くと左手に●岩除地蔵というのがある。回りに常夜燈や石仏が沢山置いてある。由来がよくわからないが、琵琶湖と崖に夾まれた交通の難所であったので、旅の安全を祈願したものかも知れない。
 その先は崖がせり出し、●国道が一本通るだけの幅しか無い所。昔は通行するには相当困難が伴っていただろうと思われる。湖西線は内側のトンネルを通っている。   11:11

■岩除地蔵~白鬚神社
 狭いところを抜けると旧道は●国道から右に分岐している、この道は相当に広く湖岸側にびわこクラブがある。しばらく行くと●高島町の境界になった。高島町は平成17年にマキノ町、今津町、朽木村、安曇川町、新旭町が合併して高島市になっている。表示は町の時代のまま。国道に合流してすぐ右手に●大きな題目碑が立ち、その隣が白鬚神社御旅所になっている。
 1.5kmほど進むと旧道は左手、●食堂の裏側を通って進んで行く。    11:52

 ★白鬚神社
  裏手を進んで行くと●白鬚神社の本殿東側に突き当った。右手湖中に●朱塗りの鳥居が立っている。まさに広島の厳島神社の趣。全国にある白鬚神社の総本社であり、近江国最古の神社とされる。創建は垂仁天皇の25年、倭姫命により社殿を創建したのに始まるというから相当古いが、本殿は慶長年間、豊臣秀頼によるもの。祭神は猿田彦大神。
 境内には与謝野鉄幹・晶子歌碑、芭蕉句碑、紫式部歌碑など沢山建っている。その背後には山が立ちはだかっている。山の斜面を利用して境内社や歌碑があった。神社の裏手に中世の近江路が通っていたらしいが、すでに消えている。 12:00

 ■白鬚神社~48体仏
 神社の先に●左の山中に入っていく道がある。坂を上がっていくとすぐに道は山中に消えていが、これが旧道というので、強引に突っ込んで行った。 しかしこれが●倒木だらけの道なき道で、昨年9月の山陽道、松子山峠などで散々な目にあった体験を彷彿とさせたが、冬場で枯木になっていて、進むのにそう困難でもないので、倒木を避けながら進んで行った。すぐ右手下に国道が平行していて。歩道も付いているのだが、旧道にこだわるとこうなる。知らない人が見たら馬鹿みたいだろう。
 10分ほどで舗装道路にぶつかり、左手に墓地があって、手前に●鵜川四十八躰仏の石仏群がある。天文22年(1553)に観音寺城主六角義賢が亡き母の追善のため、阿弥陀48願にならって阿弥陀如来坐像を石で刻んだと伝えられる。現在33体の石仏があり、不足の15体のうち13体は坂本の慈眼院に移され、残り2体は盗難にあったとか。  12:21

  ■48体仏~打下
 四十八躰仏の先は下り坂で、国道にもどる手前に●万葉歌碑がある。
      思いつつ来れど来かねて水尾が崎 真長の浦をまだかへり見つ 
 作者が北陸から都に帰る船旅の徒次に、真長の浦の風光に心をひかれて詠んだ歌である。 国道に合流してその先く、再び●左の旧道にはいる。乙女ヶ池と国道の真ん中を通る道である。左に●日吉神社がある。元は神社の裏山に十禅寺があり十禅師宮と呼ばれていた。信長の焼討ちに遭い、織田信澄が造営したという。 「歴史の道調査報告書」添付の地図では日吉神社の脇から中世の「西近江路」の古道がJRの西側を新旭まで延びているので、その痕跡を探して回ったのだが、見つからなかった。こちらの古道にも史跡が沢山あるようなので、日を改めて歩いて見ようと思う。   12:40

 ■打下~大溝港口
 左手の乙女ヶ池に通じる道をたどっていくと、●風情ある木造りの橋が池の中央を横切っている。万葉の時代、「香取の海」と呼ばれ、山の麓まで琵琶湖の入り江になっていた所。恵美押勝の乱で押勝が挙兵に失敗し、高島郡三尾崎で捕らえられ、「勝野の鬼江」で斬罪されたと伝えられる地でもある。 左手に日吉神社旅所がり、その向かいにはスラリとした●山王大権現常夜灯が立っている。
 道は左へ曲って行き、水路を渡りすぐ右折して、左折すると●旧長刀町へ入る。このあたり、昭和に入って鉄道輸送が開始されるまでは湖上輸送で栄えた所。運漕屋・旅籠などが軒を連ね、なんとなく宿場の雰囲気を感じる。 13:10

 ■大溝港口~大溝城跡
 右手の●大溝港は古代にあっては万葉集にも詠まれた勝野津と考えられている。港を臨む公園の角に●万葉歌碑がある。
        「大御船 泊ててさもらう 高島の 三尾の勝野の 渚し思ほゆ」
               (天皇の御船が泊って、風待ちしている高島の、三尾の渚が思い出される。)
             但し横にある解説板の文字が擦れて読めないので、高島市のHPで確認した
 ここで一旦、道をそれて、高嶋総合病院前の●大溝城本丸跡へ向った。織田信長が安土に壮大な城を築いた頃、甥の織田信澄に築城させた城で、明智光秀の縄張といわれ琵琶湖とその内湖をうまく利用して造られている。浅井三姉妹のお初は京極高次の正室となり、ここで新婚生活を送ったと伝わる。その後大溝城は織田信澄自害後解体され、大溝の地には伊賀上野の城主分部光信が転封して整備され、湖西の中核的存在として歴史と文化を育んできたという。 13:20

  ■大溝城跡~本町
 ついでに昼食を取ろうと「近江高島駅」まで来ると、駅前に何故か「ガリバーメルヘン公園」があって、●ガリバーの大きな像が立っている。案内によると「・・・・私達も固定した価値観にとらわれず、柔軟な価値観を持った人間性を養い、保守的なものから脱皮し、絶えず新しいものに挑戦し「まちづくりは自分達の手で」という意味あいを込めて町民一人ひとりの町づくりのシンボルとして建設したものです。・・・・などとあった。特別高島市そのものとは関係ないみたい。
 先の長刀町まで戻って来た。道は城下町らしくクランク状に進み県道300号へ出た。交差点を西に少し入ったところに分部時代に築かれた●惣門が残っている。 惣門があった通りの一本北の道を入ると、旧十四軒町という。高島市は近江商人を輩出した地域の一つであった。その高島商人を代表する存在であった小野組の総本家の建物があったが、現在は案内板だけが立つのみ。
 県道300号、●本町を北へ進む。   14:10

 ■本町~小川口
 旧商家を「びれっじ」と称して再生され現在8号館まであるようだ。右手に●福井市之進商店。相当古そうな商屋である。その先右手に●「萩の露」の造り酒屋福井弥平商店がある。創業は江戸中期の寛延年間(1748~51)の老舗。板塀に囲まれている広大な屋敷を構えている。 高島町は色々見所も多いが、きりがないので先に進む。本町通を抜けると、鍵の手のように左右に屈折して、新町に至る。道は真っ直ぐ北進し、鴨川橋まで来た。 鴨川の土手に大きな●常夜灯と藤樹道という道標が建っている。藤樹神社への道標だろうか。 鴨川橋を渡ると●安曇川町に入る。道の両側が賑やかになってきた。    14:45

 ■小川口~藤樹神社
 小川口の交差点を右折して藤樹神社の方に寄り道してみた。
 交差点から10分程で●藤樹神社がある。右手に500mも行くと「藤樹書院跡」というのがあるが、そっちは時間も無いのでパスしておく。 中江藤樹は近江出身の陽明学者であって、身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく商工人まで広く浸透し「近江聖人」と呼ばれた。代表的な門人として熊沢蕃山、淵岡山、中川謙叔などがいる。
 神社は大正11年藤樹を慕う人々によって建立された。創建にあたってはすべて寄付でまかなわれ、中国や朝鮮からも寄付が寄せられたという。鳥居の扁額は東郷平八郎により書かれたもの。境内に●藤樹神社創立由来の碑というのがある。
 神社の北隣には●陽明園がある。中国陽明学の祖・王陽明の生地である中国浙江省余姚市と、中江藤樹の生地である安曇川町との友好交流を記念して建設された中国式庭園である。中に真っ赤な東屋風な建物が目を引き、陽明亭という中国にあるものと全く同じ様式で建てられているとか。  15:25

 ■藤樹神社~安曇川
 小川口の交差点に戻って来て先に進んだ。西万木交差点の左手に●日吉神社がある。日吉は通称で、正式には與呂伎神社と呼ぶようである。昔この地区には広い範囲に「万木の杜」と呼ぶ森が広がり、社地はその杜の遺跡跡とされる。
 西万木交差点の角に扇のの形をした石碑が立っていた。●井保壽太郎翁顕彰碑という。調べたところによると、安曇川町の第一の特産品といえば扇骨であり、全国生産量の約80%がここで生産されている。幕末のころ、西万木に生まれた井保久吉は、名古屋より進んだ扇骨加工技術を学んで帰り、その甥・井保寿太郎が広く京都、大阪へ販路を開拓、扇骨産地としての形態を整えたという。
 その先安曇川を渡るが、旧道は安曇川スポーツセンターの手前辺りから左斜めにのびて川を渡っていたが、旧道は失われており、現在では●安曇川大橋を渡らないと行けない。
 橋を渡って●土手沿いの車道を通るが、おそらく旧道は土手上を通っていたと思われる。  16:10

 ■安曇川~新旭駅
 県道を進んで湖西線をくぐった先で、右斜めに入る道が旧道となっている。旧道の所が河原市宿があった所といわれているらしいが、およそ宿の雰囲気は全く無く、閑散とした集落の間道である。川原市の一里塚跡があったと後で知ったが、全く気がつかず通り過ぎた。河原市宿は3里半で小松に継ぎ、今津や海津と異なり、湖上の運輸の役割はなく、単に陸路で小松に送る中継地としては貨客が少なく閑散とした宿であったらしい。
 旧道を斜めに通過して,県道に出ると左手から中世の近江路が合流している。安井川交差点左手に●「馬方又左衛門宅址」の碑が建って、・・・寛永の頃、大金を落した飛脚を榎木宿まで追って行き、藤樹の教えを守って、礼金を受取らずそのまま返したという正直者の馬子の話が伝わる。藤樹の教えを実行した人物として今に伝わっている訳だ。
 交差点から県道を北に向う。そろそろ時間もせまり、新旭駅も近くなった。右手に●安養寺子安地蔵尊を祀るお堂がある。延暦寺別院延命院の本尊として造られた木造の座像と案内にあるが、見ることはできない。
 その先の「平井」の交差点で本日は終りとして、右折して●新旭駅に到着した。1時間に2本程度の本数で30分程度待ってから帰宅した。      16:45