大山道を歩く 1
              (赤坂~二子玉川まで)
 歩行地図はこちら  地 図
 赤坂御門跡-青山通-渋谷-三軒茶屋-(旧道)-松陰神社-世田谷代官屋敷-用賀-瀬田-玉川新地  14.3km

大山街道

 大山は、神奈川県丹沢山系にあり、古くから雨乞いや豊作祈願の神として信仰されてきた。江戸時代に入ると御師の活動などにより大山信仰は一層盛んになり、各地から大山に向う参詣路が作られた。
 今回歩くのは江戸赤坂御門を起点とした、大山阿夫利神社までの道で、「大山街道」の代表的な道になります。大部分が「矢倉沢往還」と重なり、矢倉沢往還は東海道の裏道として、各地の商品を江戸に運ぶ重要な輸送路として利用され、大変栄えました。この道が「大山参詣道」として庶民に盛んに利用されるようになった。距離は70キロ程度。都心を通り、道幅も拡張され、街道の面影はあまりないと思われますが、古道なりの面影を探して歩いて見たいと思う。
 参考資料
    「ホントに歩く 大山街道   中平龍二郎 風人社刊」。
    「川崎国道事務所 大山街道 見どころマップ」 など

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 ■赤坂御門跡~南青山3丁目 
 2010年6月6日 地下鉄半蔵門線「永田町駅」9a出口を出ると、●赤坂御門跡がある。江戸城外堀にあった郭門の一つで石垣が残されている。大山街道はここが起点となっている。
 坂(三宅坂)を少し下ると●弁慶橋に出会う。下の堀は●弁慶堀という。弁慶といっても、あの義経と弁慶の弁慶ではなく、堀の工事を請負った、「弁慶小右衛門」という者にちなむもの。弁慶橋は江戸時代にはなく、架けられたは明治22年といわれる。橋を渡った先にはホテルニューオオタニや上智大学がある。     9:10

  ●国道246号(青山通)を歩き始めます。途中右側に●豊川稲荷がある。元々街道沿いにはなく、明治20年に赤坂一ツ木からこの地へ移転した。大岡越前守忠相の子、忠宣が赤坂の屋敷内に三河の豊川稲荷を分祀したのが始まり。稲荷というと普通神社をいうのだけど、正式には「豊川荼枳尼天堂東京別院」といい、愛知県にある、豊川閣妙厳寺の正式な別院で、荼枳尼天が稲穂を担ぎ、狐に跨っているので、通称「稲荷」と呼ばれているお寺です。

   青山通は渡れないので、少し戻って歩道橋を渡ります。●左手に入る道があり、ここが大山街道の古道で、●牛啼坂という坂を上がって行く。荷を引く牛が啼くほど急坂といわれるが、今はそれほどでもない。左手に「山脇学園」があり、日曜日で静かなものだ。国道に合流する手前、左から●薬研坂が上がってくる。断面がV型の坂や堀に薬研坂とか薬研堀の名前が付くことがある。昔はV型をしていたのであろうか。  9:35

  国道に合流すると、右手は広大な●赤坂御用地であり、皇太子のお住いの東宮御所がある。江戸時代は紀州徳川家藩の下屋敷があった。 
 左手に「高橋是清翁記念公園」がある。高橋是清の私邸があった所で、小さくなったとはいえ、5,320㎡もある。是清は大蔵大臣や総理大臣も歴任した人物で、2.26事件で自宅にて暗殺された。その屋敷地が遺族より東京都に寄付され記念公園となる。中に●是清の銅像が立っている。
 「青山2丁目」の信号の右手突き当りには「絵画館」が見える。「地下鉄 外苑前駅」の左手に両側に孟宗竹が植えられた道がある。これは●「梅窓院」の参道になっている。 「青山」の地名は徳川家家臣、美濃郡上藩「青山氏」が、この辺り一帯を配領したことによるといわれ、領主青山幸成の法号に因み名前がついた。(※道の北側の篠山藩の青山氏にちなむという説もある)   10:00

  ■南青山3丁目~青山5丁目
 表参道の交差点手前右手奥に●善光寺がある。徳川家康が長野善光寺から勧請して慶弔16年(1611)に谷中村に建立したものをここに移転してきた。極彩色の朱塗の門が美しい。左奥に高野長英が自殺を図ったという場所があり、●記念碑が建てられている。人通りの多い表参道の裏手にあたり、境内の中は静かで静寂そのもの。
 その先の右手には●国連大学のビルが建つ。左手は青山学院大学が広がっている。   10:30

  真っ直ぐ進むと「宮益坂」に出るが、青山学院の塀沿いに左へ折れて、少し寄道をしておく。左へ折れ、高速3号線の上を過ぎると●金王八幡宮の大きな鳥居にが見えてくる。渋谷の地名の元になった、渋谷氏の祖である「河崎土佐守基家」が寛治6年(1092)創始したといわれます。●現社殿は慶長17年(1612)に建てられたもの。
 街道に戻り●宮益坂を下って行く。宮益坂の地名は途中御嶽神社のご利益で益々栄える町ということにあるという。

  ■青山5丁目~道玄坂
 
その途中の右手の石段を上がると●御嶽神社がある。明治天皇が行幸された際、休憩された、「明治天皇御御嶽神社御小休所阯」の碑もある。
 宮益坂を下り、JR山手線のガードをくぐり、駅前のハチ公の像など眺めスクランブル交差点を渡ると●道玄坂へ入る。相変らず人が多い。入口右手は「109」のビル。道玄坂の由来は「和田義盛の後裔大和田太郎道玄が、山賊如く振舞ったという説と道玄庵という庵があったことに由来するという説がある。
 右手に●百軒店の入口が見える。ここは関東大震災で被災した店を受入れて出来た横丁ということだ。   11:35

   ■道玄坂~三軒茶屋
 
国道に合流した先、「大坂上」バス停の先を右に入って行くのが●旧道。「大坂」という急な下り坂であり、大山街道の中で一番の急坂だった。入口に「大坂」の説明が書かれた標柱が立っている。
 下りきった先は「山手通り」で、おまけに工事中で通れずちょっと左折してから、横断した。●横断した先にまた坂があり、上っていって右手階段を上がって行くと●氷川神社がある。
 帰りは石段を下りると国道側へ出て鳥居がある。鳥居横に供養塔や天保3年(1842)に建てられた大山道の道標がある。  11:59

  少し国道を歩き、目黒川の架かる大橋を渡り、「食糧専門学校」の大きな看板が掛っている所で、旧道は●左斜めに入って行く。
 旧道の真ん中あたりの右手に●池尻稲荷神社というのがある。江戸時代延期の経歴年間(1655~)に池尻、池沢両村民により建てられた。子育て、火伏せの稲荷として、信仰されてきた。境内には「涸れずの井戸」というものがあり、大山道の旅人の飲料水に使われていたという。
 三宿交差点で、再び国道と合流する。左手には「世田谷公園」や「昭和女子大」などが広がっている。
 やがて●三軒茶屋交差点に到着した。三軒茶屋からは左右に道が分れた追分になっていて、三軒の茶屋があったので三軒茶屋と名が付いた。  12:35

 三軒茶屋からのルート
 三軒茶屋から大山街道は左右に分れます。付け根の所に●追分道標が立つ。右に向かう道(現在の世田谷通)の方が古く、江戸前期の旧大山街道(矢倉沢往還)であり、世田谷代官屋敷前を通り、用賀に通じ、さらに慈眼寺坂を下り丸子川を渡って多摩川へ到着する。
 三軒茶屋から左の道は(現在の玉川通)文化・文政期に成立した新しい大山道で、桜新町を経由し、用賀の所で古い方の旧道と合流します。さらに行善寺坂を下り、多摩川に達します。
 右へ向う道を上町、慈眼寺線
 左へ向う道は新町、行善寺線  と「風人社本」では名付けられている。本の名前に従って、まずは上町、慈眼寺線から歩くことにしました。

★ 上町、慈眼寺線
 ■三軒茶屋~松陰神社
 
三軒茶屋から●世田谷通りを進みます。その前に駅北側にある●教学院に寄りました。教学院は「目青不動」 といわれ、江戸五色不動尊(目黒不動(滝泉寺)、目白不動(金乗院)、目赤不動(南谷寺)、目青不動(教学院)、目黄不動(永久時・最勝寺))の一つ。別に不動像の目の色が五色というわけではなく、密教の陰陽五行説に由来し、五色は東・西・南・北などの方向を表している。教学院はもともと青山にあったが、明治にここに移転している。
 帰りに「三軒茶屋駅」へ寄ってみたら、玉電の●赤い車両が止っていた。東急世田谷線が正式だけど玉電の方がなじみが良い。昔はグリーン色だったと思うが、新型の赤い車両できれい。駅の構内は通路のように自由に入れた。

 ●松陰神社
 世田谷通を進むと、「松陰神社入口」のバス停に来る。入口といっても神社は右手奥、500m位の所にある。ここから、神社、その先豪徳寺と寄っていくことにした。右折して商店街の参道を進み、まもなく松蔭神社に着いた。
 いうまでもなく「吉田松陰を」祀る神社で、萩市にも同名の神社があるが、伝馬町の獄中で刑死後、小塚原の回向院に葬られたが、門下生の高杉晋作、伊藤博文等により この地に改葬された。その縁で明治15年松蔭神社が建立され、●松陰の墓はこの地にある。伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、らの名前が燈籠の寄進者としてずらりと並んでいる。   13:20

  ■松陰神社~豪徳寺
 神社を出て、西の方向に進むと、国士舘大学、世田谷区役所などを経て、●「豪徳寺」へ着く。
 彦根藩主井伊氏の菩提寺で。藩主井伊直孝が豪徳寺の前身弘徳院の前を通りかかった折、一匹の猫がしきりと招いたので寺に入ると急な雷雨となり、猫のおかげで濡れずにすんだ。直孝が大いに喜び、その縁で菩提寺にしたという。
 境内の●三重の塔の間斗束の装飾に招き猫が使われていたのは面白い。境内に井伊家の代々の墓地があり、●井伊直弼の墓もあるが、工事中だったので、掲示中の写真を撮っておいた。   13:50

 豪徳寺~旧道・代官屋敷
 旧道への帰り際、●世田谷城跡に寄ってみた。城跡が公園として残っている。南北朝の頃足利一族の吉良氏が世田谷を領地としてもらい受け、築城したとされる。天正18年(1590)豊臣軍に敗れ廃城になっている。
  「上町駅」から旧道へ戻り、●左折して行く地点まで来ました。右手の●大吉寺は僧侶で作家だった「寺内大吉氏」の生家で住職も務めていた寺であり、マリリン・モンロー13回忌の法要をおこなった。  14:15

 道を左折してすぐ右折すると左手に、●世田谷代官屋敷跡がある。彦根藩世田谷領の代官大場氏の役宅で、文2年(1737)と宝暦3年(1753)の二度の工事で完成したもので、江戸中期の上層民家の遺構を良く残し、表門と主屋が国の重要文化財に指定されている。またここは「世田谷ぼろ市」の起源にもなっていて、天正6年(1578)北条氏政が世田谷新宿に宛てて発した楽市掟書に起源を持つとのことだった。屋敷の前の通はボロ市使用される。
 その先は世田谷通りと交差して、通りを渡り、三角形の二辺を通るようにして、●桜小町交差点を渡ることとなる。
 そこを入って行くと、畳屋山の前に道標が置いてある。これは本物ではなくて、本物は先ほどの郷土資料館に移されている。
 少し進んだ左手の小公園の中に●大山道旅人の像がある。大山道を旅する人が一休みする姿が楽しい。14:45

  ■代官屋敷~用賀
 その先の道は●細い旧道らしい感じの真っ直ぐな道が続いている、用賀三丁目あたりから下り坂となっており、坂を下って行くと、●大山街道追分がある。三軒茶屋で別れた新しい大山街道が左側から合流している。右手に「大山道追分」という新しい碑があるが、もとの道標はまたも郷土資料館に移設されている。
 「用賀4丁目」交差点を過ぎると●用賀商店街に入る。追分から先には旧用賀宿があって、幕末には旅籠、油屋、蕎麦屋などがあって賑わっていたといわれる。  15:08

  ■用賀~瀬田
 用賀商店街に入ると、まず入口付近、左手の●鎌田酒店は創業150年の老舗。 右手奥に●真福寺。赤い山門が見事で赤門寺とも呼ばれていたという。真福寺は、小田原北条氏家臣飯田図書が開基したと伝えられる。
 さらに進むと東名高速をくぐる。ここは●田中橋といい、「谷沢川」に架かる橋だったが、橋の面影は全くない。

 その先二股になっている所に●延命地蔵がある。右へ進む道の方が古く、今回は右の道を取り、慈眼寺方向へ向う。
 環8交差点は真っ直ぐ渡れないので、少し迂回して進みます。右手に「大空閣寺」があり、その先T字路の正面に●瀬田教会がある。
  、教会の前を右に行った所に「笠付庚申塔」という古い庚申塔がある。その先の坂の上に●慈眼寺がある。徳治元年(1306)法印定音の開山と伝えられ、もとは崖下にあった修験所を瀬田の郷士長崎四郎左衛門が崖上に移し長崎家の祈願所とした。  15:32

  瀬田~二子玉川
 
慈眼寺の隣は●瀬田玉川神社が建つ。急な崖の上に建つ神社で、寛永え年間に創建された御嶽神社があったところで明治41年にあたりの神社を合祀して現在の神社となった。急な階段を下ると道は多摩川の河岸段丘でできた急坂を下って行く。治大夫橋を渡り、●玉川商店街を過ぎて行くと、左側に●東急「玉川駅」が見える。 15:55

 土手を過ぎるとその先に多摩川、●兵庫島公園が広がっている。初期の大山街道はこの辺りで多摩川を渡っていたと考えられる。公園の名前は、南北朝時代、新田義興(義貞の次男)は矢口の渡しで自害した際、家臣由良兵庫助も討死した。その肢体が二子の島に流れ着いたことに由来するとか。
 さて、本日はこれまでとしたいが、次回は三軒茶屋から南側を行く、新道を歩いて見たいと思います。ゴールはまたここ二子玉川になります。

 16:15 終了

★ 新町、行善寺線
■三軒茶屋~新道(玉川通)
2010年6月20日
 地下鉄半蔵門線経由で三軒茶屋へ再び来ました。●追分地点で,右は前回歩いた旧道、左は玉川通りに沿った江戸時代の文化・文政期頃(1800年代前半)に開通したといわれる新道で、●首都高速の高架が続いている。
 300m程で●左へ入る道があり、左斜めに入って行く先は「中里通」という 。  10:50

 すぐ右手のビルに囲まれた、きゅうくつな所に●伊勢丸稲荷大神がある。正一位とあって、威勢がいいのだけど、とても小さな社ではある。案内石碑も立っているが、小さい字で読みにくい。「大山通」と書かれた丸い石碑がある。
 ●「中里通り」は玉川通りの喧噪から離されて、いかにも旧道という感じで静かで少し上がり坂になっている。やがて「玉川通り」に合流してしまうが、その手前左手に●「地蔵尊」が建つ。   11:05

 
 ■中里通~新町一丁目
 「玉川通り」に合流して、すぐ「環7通り」の交差点になるが、右折して、前回立寄り損ねた、駒留八幡神社に行くため、「環7」を右折した。右折して700m位の左手に●駒留八幡神社がある。
 鎌倉時代徳治3年(1308)にこの地域を治めた北条左近太郎入道成願により創建されたといわれる。愛馬を自由に走らせたところ、この地に留まったので、ここに八幡神を祀ったという
 再び玉川通りへ戻って進みます。すぐ左手に●宗円寺がある。駒留八幡神社の別当寺だった。門を入ってすぐ左手に疫病除けの木造の「しょうづかの婆様」の小堂がある。本堂が工事中でほとんど中に入れなかった。
 駒沢交差点の少し先、右手に●庚申塔と道標が建つ。   12:00

 新町一丁目~用賀
 ●新町一丁目交差点
で、玉川通りを左に分けて、右斜め前方に入って行く。 左手に●善養院がある。元和2年(1616)に開基の豪徳寺の末寺である。
その先左手に久富稲荷神社への長い参道があり、ここは長すぎるのでパス。右手に●桜神宮がある。ここは、いわゆる教派神道13派の中の「神習教」の本山に当るという珍しい神社である。祀られている神様は「天御中主神」以下メージャーな神様ばかり。境内で結婚式が行われていたので、邪魔しては悪いと思って、中には入らなかった。 12:15

 桜新町に近づくにつれ、「サザエさん」のイラストがあちこちにあふれてくる。「桜新町」信号を左へいく道は「サザエさん通」で、300m位行くと、●長谷川町子美術館が左手にある。作者の長谷川町子さんが住んでいた所である。
 旧道に戻って先に進み、●三叉路の所で右斜め前に進む。やがて前回歩いた旧道とぶつかる所が古い●大山道との追分地点になる。左手角に「大山道追分」と書かれた新しい追分道標が立つ。元の道標は郷土資料館の庭に移設されている。   13:10

 
 ■用賀~二子玉川
 ここから田中橋の先の延命地蔵までは、前回と同じ道なので割愛。 延命地蔵では今回、直進して行く。
 ●瀬田の交差点は環八と246号、466号が交わる六叉路になっている大きな交差点で、大山道は真っ直ぐ行かれないので歩道橋を渡ってここを斜めに横切って行く。。その先の瀬田交番の二股で、左斜めに入って細い道を行く。地下を東急田園都市線が通っていて、緑が多い静かな道になった。しばらく行って、左手に教会がある●二股地点では左へ入って行く。   13:35

 右手に●行善寺がある。この寺は多摩川の河岸段丘である「国分寺崖線」の高台に立地しており、●境内からの眺めは素晴しく、行善寺八景と呼ばれている。というものの、建物が建てこみ、そう絶景とは言い難い感じがする。
 寺の先の坂道は●行善寺坂といい、多摩川に向った急坂となっている。昔は眺めが良かったのだろうと思われるけど、今は多摩川すら見えない。途中左手の上り坂には「行火坂」と書かれた石碑も立つ。   13:45

 坂を下りきった所で●六郷用水(丸子川)を渡る。渡って左に少し行くと、●調布橋道標がある。摩滅して全く読めないが、川崎国道事務所のHPによると、安永6年(1777)瀬田村の講中により六郷用水脇に建てられたもので、『南大山道、左・西、赤坂道、右・東、目黒道』となっている・・・・とか。
 道標の所を右折して行くと、「東急大井町線」にぶつかり、その先は「二子玉川駅」前の再開発の全面工事中。・・・・
 旧道を訪ね歩くという雰囲気は全くなく、●「ライズ」というショッピングセンターが建っている。  13:56 

  ■二子玉川~二子新地
 バス停の為の仮設通路など巡り、多摩川堤通りへ出ると、、目の前に堤防の●切通しが現れた。そこを通過していくと●多摩川の土手にぶつかったが、土手の工事中で立入り禁止であり、土手には出られず、往時二子の渡し場あったはずなどの感慨に耽ることなど不可能だった。渡し場の記念碑は土手にあるのだと思い込んでおり、「福祉作業所」脇にあったとは後々気がついた。
 この後、先へ進むため●「二子橋」を歩いて、「二子新地駅」より帰宅することにした。本日は10km足らず 14:40

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