大山道を歩く 4
     (さがみ野~愛甲石田まで)
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 さがみ野-赤坂-小園-望地-国分-海老名-相模川-厚木-旭町-岡田-愛甲石田    13.4km  


2010年10月7日  9:50 ※ 写真をクリックすると拡大します
■さがみ野駅~赤坂
 横浜駅から相鉄本線を乗継ぎさがみ野駅着  大山街道4回目で「愛甲石田駅」までの予定
 早速●さがみ野駅から前回終了地点まで戻った。昔の●大塚宿は「大塚本町」交差点の近くにあった。昔は色んな店や旅籠、木賃宿が沢山あって賑わっていたといわれる。が、現在はそんな空気は全然感じられない。
 「大塚本町」を過ぎ、「赤坂」バス停手前、右手奥にあるという、「富士塚」に行って見ることにした。土屋獣医科病院の所を右へ曲がって行くと、左は住宅造成地を造っており、右手には車体工場があったりする。少し行くと、●富士塚に着いた。富士塚といっても小さくて、石碑が乗っかていないとなんだかわからないというもの。塚の上に文化3年(1816)に建てられた庚申塔が乗っている。      10:40

■赤坂~小園(東海古道) 
 「赤坂」バス停のところに、●赤坂道標と不動明王坐像がある。道標の上に不動明王坐像が乗っている。バス停の先に●ゆるく上がっている道があって、「崋山ゆかりの道」という解説板が立っている。・・・ここから右手に向かう道は、古東海道との言い伝えがあり、天保2年(1831)渡辺崋山はこの古道から小園村に入り、少年期に世話になった「あこがれのお銀さま」を訪ねたのでした。・・・・。看板の右、江戸方から見て左手に斜めに上がって行く道があり、古東海道跡もあるらしいので寄道してみた。 左へ入って行き、県道を越えて行くと、山道へ入る入口にぶつかり、その先が●古東海道の面影を残す道である。ちょっと寂しげな山道だけど、「小園」バス停付近で終ってしまい、出口に小さな道祖神があった。11:00

 ■小園(東海古道)~望地
  「小園」バス停の所の坂道を下っていくと前方に●地蔵堂がある。元は東光山延命寺といい、相模国分寺の隠居寺と伝わる。本尊は地蔵菩薩だけど、●寝姿の「釈迦如来像」が珍しい。
 JA小園支店の先の公園の中に●お銀さまの墓があった。お銀さまというのは侍女の頃、「田原藩主三宅康友」に寵愛され、友信を生み、その後小園村へ戻っていた。友信は藩主になれず隠居し、友信につかえていた渡邊崋山は友信の実母であるお銀さまの消息を訪ね、大山街道を通り、ここまで来たのであった。  11:15 

 ■望地~国分
 墓からバス通を通って●「望地」交差点まで戻って来た。その名のとおり、道の正面に「大山」が良く望める。街道は県道40号を横断して●道下公園の方へ迂回して上がって行く道である。公園から坂を下って、また県道に合流し、●目久尻川を渡る。川を渡って、川沿いに右折して行く。少し行くとフェンス沿いに宝暦7年(1757)の石橋供養塔があった。 

  左手森のような高台は●伊勢山自然公園。公園の中をぐるっと通って外へ出たら、●「伊勢山大神宮」への参道替りの階段があった。階段を上がると大神宮とは名ばかりの、小さな祠が建っていた。 公園の中を歩いてしまった為に、「史跡逆川碑」を見損ってしまったようだ。逆川は目久尻川から引いた、人工の用水堀で、低い場所から高い所へと流れていることから逆川と呼ばれたという。
 県道へ出てその先、「国分」バス停のあたりは「国分宿」があった所で、村役場があり、大変賑わっていたらしい。国道406と407号が交差するあたりは国分の辻」と呼ばれる。ここに嘉永年間に建てられた●道標、庚申塔などがある。またここには高札場もあった。     12:06

 ■国分~海老名駅前
  防災倉庫のようなものの脇をすり抜けて行くと突然、広い公園の様な場所に出た。ここが●相模国国分寺跡である。相模国分寺は、天平13年(741年)聖武天皇の詔勅により建てられ、東西160m南北123mの回廊に、講堂金堂、七重の塔を持つ大寺であった。全国の国分寺の中でも最大級の規模だという。
 現在の●国分寺は道を挟んだ、南側の小高い丘の上にある。ここにはもともと薬師堂があり、国分寺が度々の火災で消滅した時に、ここに移して再興された。   12:20

  国分寺を出た所に、●海老名の大ケヤキという大木が立っている。目通り7.55m、樹髙20m。かって舟つなぎ用に打った杭が発芽して大きくなったものとされる。
 旧道の坂を下りて、「国分坂下」を右折して、●海老名駅前通りをまっすぐ進む。この真っ直ぐな道は古代の条里制の名残で、「一大縄」と呼ばれ、東西の基準線となっていた。駅前は「ビナウオーク」、ユニクロなどが建っていて、大変に人出が多い。「公園入口」で右手へ行った、中央公園内に●相模国分寺七重塔モニュメントが置いてある。小さいものかと思っていたら、1/3だそうで、高さ20m以上もある大きな建物だった。 ちなみに相模国府はどこだったかと言うと、国分寺の跡がある海老名市、小田原市の国府津、平塚市の相模四之宮の前鳥神社の周辺など諸説あって何回か移転をしているようである。  12:45

 ■海老名駅前~海老名駅前
 海老名駅前を進み、小田原線を陸橋で越えて行くが、陸橋から●大山が正面によく見える。河原口を過ぎて●県道40号線は左へ折れて行くが、旧道は真っ直ぐ細い道を少し進み、コンビニの裏を通って行く。ここから先は何回か右折左折を繰返し、「七曲り」といっていたという。途中左手に児童館と●歴史資料収蔵館という建物があった。 13:15

 ■海老名駅前~あゆみ橋
 「七曲り」の最後の左折をして、相模川に沿って南下して行くと、「圏央道橋脚工事」の中を●相模川へ出る細道があり、そこを行くと相模川に出た。右手に「爛漫の桜堤に渡船跡」という標柱が立っていて、ここが●厚木の渡船跡だとわかった。「厚木の渡し場」は海老名の河原口と厚木の山王町を連絡して徳川家康もこの渡船場を渡ったという。 現在は渡船などないので、●あゆみ橋を通って相模川を渡ります。  13:40

■あゆみ橋~厚木町
 相模川を渡ったらすぐ川沿いに右折して行くと、●厚木の渡しの碑が建っている。この地は矢倉沢往還や藤沢道、八王子道などが相模川を渡る渡船場で常時5艘の船が備えられ旅人に利用されていた。「渡辺崋山」もお銀さまをを訪ねた旅の帰り厚木を訪ねた際ここを利用している。
 渡船の碑から今度は国道601号を南下して行くと、●厚木宿へ入る。厚木宿は江戸から13里、相模大橋を渡ったあたりが上宿、さらに中宿、下宿と続いていた。矢倉沢往還、八王子道などが厚木で合流し、物流輸送などの大動脈として街道一といわれるくらい繁栄した。 通りの商店のシャッターには●当時の店の絵などが描かれ、繁栄した厚木宿の雰囲気を醸し出している。

 ■厚木町~旭町
 「相模大橋」過ぎた左手奥に●史跡「烏山藩厚木役所跡」碑がある。享保13年(1728)下野国烏山藩城主大久保常春の所領となり、相州領支配のため厚木役所が置かれた。以来、明治に至るまで140年間支配し、厚木の経済、文化、治安に関する行政が施かれた。維新以後町役場、税務署、市役所などに使用され、昭和46年庁舎が移転するまで250年間行政機関の所在地となったという。 碑の南側隣に●厚木神社が建つ。創建は天延年間(973~)と伝えられ、元は牛頭天王社と称し、付近は天王の森と呼ばれていたが、明治5年)に厚木神社と改められ厚木の総鎮守となった。
 神社の南側には●渡辺崋山由縁の地碑が立っている。ここは渡辺崋山が宿泊した、旅篭屋「萬年屋」の跡といわれる。現在では駐車場になってしまっていた。    14:02

 ■旭町~岡田
 旭町三丁目の先、右手に●最勝寺がある。門は閉ざされて入れる雰囲気ではなかった。昔、旅の僧が動かなくなった阿弥陀仏を拝んだところ、村が流行り病を免れたので、宿にした閻魔堂の隣に寺を建立したのが始まりといわれている。境内の閻魔堂は見ることができず。 最勝寺の先の●熊野神社の所に「あるぎの文化財案内」が立っていて、旧厚木宿の古い写真が貼ってあったので、参考になると思って撮っておいた。 熊野神社の境内には●渡邊崋山「厚木六勝図」熊林暁鴉の記念碑というのがあって、神社付近は、古くからうっそうとした森で、天保2年に厚木を訪れた、渡邊崋山が描いた「厚木六勝図」の一枚「熊林暁鴉」は、その風景を描いたものとされています。  14:20

 ●旭町7丁目の信号の所から左前方に入って行くのが旧道。左手はソニーテクノロジーセンターのビルが並んでいる。
 ●旧道は相模川の土手の様な一段高い所を通っている。「富士見町」信号の右手に「旧平塚街道」碑がある。この辺りは矢倉沢往還と八王子平塚間を結ぶ平塚街道とが重なった部分のようである。
 岡田一本杉前というバス停がある。一本杉とはどこだろうとあたりを見回すと、右手に●大木2本と小さな祠があるので、これを指すのだろうか。一本杉という感じではないけど。   14:50

■岡田~片平 
 東名高速のガードの手前に●三島神社がある。伊豆の三島神社の御祭神大山祇神を勧請したもので、社殿正面の扁額は第五代烏山藩主大久保忠成筆によるものといわれる。また神社入り口には矢倉沢往還の石標があり、神社前の道を相模川へ向うと、対岸の社家に向かう「岡田の渡し」があった。
 東名高速のガードをくぐると右手に●長徳寺がある。山門を入ると美しい日本庭園があるというが、見ている時間がなかった。
 リバーサイド住宅を過ぎ、●酒井バス停手前のT字路を右折する。全く風化して字の読めない道標であろう石碑と五輪風な石塔が置いてある。   15:15

■片平~愛甲石田駅
 さて、大山街道は国道を過ぎ、玉川を渡り、真っ直ぐ進んだあたりは昔は酒井村といい、「酒井宿」があったという。小田原・厚木道路をくぐり、片平に入り、●玉川橋を渡ると直角に左折する。右手角に「愛甲宿の道標」と呼ばれる●庚申塔がある。「右 江戸 青山 あつぎ道。 左 大山道」などと刻まれている。 左折すると●愛甲宿に入ったと思われた。愛甲宿は比較的小さい宿場で、立場の外にまんじゅう屋、紺屋などがあったという。    15:50

 右手奥に、いささか派手な●円光寺の山門が見える。この寺の前の住職はかの有名な「織田無道」が勤めていたとか。寺を過ぎた先の交差点は何故か●「宿愛甲」と名前が逆に付いている。
大山街道は信号を右折して、すぐ左に折れると●小田急線愛甲石田駅に着いた。本日は4時を過ぎたのでここで終りとした。
  16:05

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