下妻街道を歩く 4
        (森下交差点~下館)
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 森下町交差点-鬼怒川-砂場-三妻-上三坂-石下-宗道-下妻  18.7km 下妻-大宝-梶内-黒子-野殿-下館 14.7km

 1 北千住~吉川駅   吉川駅~利根川(小山の渡し)  3 利根川(小山の渡し)北水海道  4 北水海道~下妻・下  5 下館~益子   益子~喜連川

2015年2月21日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■森下町交差点~後宿
 下妻街道も4回目。今回は北水海道駅から下妻駅まで。関東鉄道北水海道駅を下車。前回終了した●森下町交差点へやって来た。ここからほぼ鬼怒川に沿って北上して行く。
 水海道有料道路を横切り県道357を進む。右手に第42番霊場の石柱があって●空き地が広がり、大師堂がちょこんと建っている。空き地の右側には●石仏が沢山並べてあり、宝筐印塔の折れたのや、如意輪観音などがあった。明らかに第42番霊場だったお寺が建っていて、廃寺になったものと思われる。ただ大師堂が建っているので参拝者はいるのだろう。前回の「東山入口」バス停の所に21番があったが、そこの続きなのだろうか?。  9:15

■後宿~鬼怒川土手
  その先左手に馬頭観音と彫られた小さな石柱があるので奥に入って行くと、●小さな祠があった。中に馬頭観音像があるのだろう 北上につれて段々鬼怒川の土手が近づいてくる。左手土手脇に●寺前子育地蔵尊という看板が立ち、お堂と●大きな庚申塔や石仏群が並んでいる。その先から県道を歩いても面白くないので●鬼怒川の土手を歩いた。   9:27

■鬼怒川土手~砂場
 しばらく進んだら土手下に寺が見えたので寄ってみた。●醫王閣といって墓地と小さなお堂がある。無住のようで、お堂の中の●僧侶の姿をした像が安置されている。少々面白い顔であるが、弘法大師かな?っという感じ。
 ●中妻駅の先から左へ入り県道と鬼怒川の間を通ることになる。この道は鬼怒川の自然堤防を通っているのではないかと思う。途中公民館を過ぎた辺りに●折れて補強してある石柱製の道標が立っていた。指差し道標で、戻る方向へ「水海道」、右へ「五箇村」などと彫られている。  9:40

■砂場~三嶋神社
 ●県道357を横切って行く。すぐ左手保育園の隣に●中妻神社。なんの由来書きもないが、元々はすぐ南側の保育園の場所にあり、、保育園ができたため現在地へ移され、もっと重々しい雰囲気だったのだそうだ・・・・・というのがネットで仕入れた知識。
 その北隣に● 三嶋神社がある。こちらは境内が公園になっていて広い。由緒はわからず。    10:00

 ■三嶋神社~三妻
 県道123号をくぐった先左手に●十家公民館がある。 左右に道標があり、●右の道標は指差し道標で「十家渡船場入口 対岸大花羽村大輪 北 石下町に至る」などと彫られ、左のは●「安楽寺元三大師堂」と彫られている。このあたりの地名が十家なので、ここに鬼怒川の十家渡船場があったのだろう。「安楽寺元三大師」は対岸の大輪町にあるようだ(http://www.joso-kankou.com/page/page000038.html)。
  ●三妻小学校の校庭に植えてあるイチョウの木は根元から枝が伸びていて、こんなイチョウあったかな。珍しい感じ。学校の先県道に出る手前に●道標が一基立って、摩滅して読みにくいが「志もつま道」と読めた。   10:27

 ■三妻~三坂神社
 県道に出ると正面に●豊受神社がある。これから先は県道をしばらく行くようになるが、見所もなさそうだし、車の通行も結構あるので県道を避け又々鬼怒川の土手を歩くことにした。ところが風が非常に強く、帽子が飛びそうになるしで、早々に下りようと思ったが、それでも少しばかり進むと土手下に神社が見えたので下りて行った。●三坂神社という。由緒書きによると・・・・延暦年間坂上田村麻呂将軍東征の途この地に布陣。大同2年由縁の地に日野皇子大権現宮を建立という・・・。天保13年、三坂神社と改称。   10:50

 ■三坂神社~上三坂
 神社の先を行くと、あたりがなんか異様な感じがしてきて、ガソリンスタンドの土台が盛り上がって休業しているし、一面どろだらけで道路だけきれいだ・・・・と思っていたら。 気がついた。そうだここらあたりがあの平成27年9月の台風27号による鬼怒川決壊の場所だったことを・・・・。左手の●土手に鉄製矢板が打ち込んである。ここが決壊場所らしい。●右手一面水田か畑の所は泥で埋まり、重機が稼働している。あれから五ヶ月経つけど、建物はそんなに水に浸かった痕跡は見受けられず、復興状況はどうなのだろう?・・・・・ 上三坂バス停先の●コンビニの所を右へ行く。   11:25

■上三坂~西福寺
 左手奥に●八幡神社がある。本殿は覆屋に囲われて大事にされている。その北方●東弘寺(山門)は親鸞聖人二十四輩第9番の寺である。真宗大谷派。親鸞聖人の高弟、善性坊の開山になる。
 その先信号を右に行った所に●西福寺がある。右手の池のある公園の中に四国88ケ所の霊場が祀られているのだが、お寺は浄土宗である。何故かな?と疑問が湧く。入口脇に●平将門供養碑がある。由来はここ     12:05

■西福寺~石下
 街道は北へ少し行くと石下駅があるが、その前に右手奥に●地域交流センター(通称豊田城)があるので寄っておく。 ここは堂々たる城郭の形をしているが、ホールなどがある公民館のような公共施設である。この地域を支配した豊田氏が築いた豊田城にちなんで名付けられたもの。実際の豊田城はこのような天守閣の城ではなく、カヤ葺きの館だったと考えられているそうだ。 残念ながら洪水の影響で展望室などほとんどが休室になっていた。
 豊田城からゆるゆると街道に戻ってきて先に進むと、左手奥に●石毛稲荷神社という神社がある。延享2年(1745)、豊受大神宮の分霊を祀って創建したのが始め。神社一帯は陣屋敷という地名で陣屋があったという。境内の●大イチョウは陣屋以前からあったといわれる。  その左手向こうには●山中酒造。  清酒「一人娘」で有名だそうで、文化2年(1805)の創業。鬼怒川の水を仕込んで造っているそうだ。12:45

 ■石下~玉小入口
 石下駅を通過し●消防署の先の交差点で左折し、県道357号に出るのが下妻街道の道筋という。
 県道を少し進むと●道が分岐し真ん中にお堂と石碑がある。いかにも追分けという感じで近寄ってみた。左へ入ると鬼怒川にぶつかる。渡しでもあったのだろうか。道標はあるかと探したら、小さく折れた道標が左側にあった。摩滅してなんと書いてあるのかわからなかった。 「玉小入口」交差点の所に●手作り味噌店があった。旧道風で雰囲気が良い。   13:27

 ■玉小入口~宗道十字路
 ●下妻市に入ると結構歴史を感じさせるような●旧家が見受けられる。左手江連用水土地改良区事務所の敷地内に●江連用水神社がある。江連用水は鬼怒川と小貝川にはさまれた地域のかんがい用水で、もとになった用水は江戸時代の享保年間(1716~36)に完成した。その後鬼怒川の河床上昇などで取水できなくなり、この神社に祀られている義人達により改良されて文政12年(1829)に江連用水として完成したとされる。
 ●宗道十字路交差点に到達。街道は真っ直ぐ進み、宗任神社脇から左へ弓状へ曲がって行くと思われるが、交差点の左側は宗道河岸跡という史跡で、面白そうなのでそちらへ回って行く。    14:00

 ■宗道十字路~宗任神社
 宗道十字路交差点を左へ行くと●宗道神社がある。スサノオを祭神として京都の八坂神社より遷宮したという由緒ある神社である。境内の天然記念物の●大欅は平安の昔より鬼怒の清流に影を落としてきた銘木で・・・・・・という説明がある。 樹齢何年になるのだろう。 ●神社西側の一帯は地図を一見しても、鬼怒川の旧河川が舌状に流れていたことがわかるように、宗道河岸跡と呼ばれている。神社の裏に史跡宗道河岸址の説明板が立っている。現在では埋め立てられて住宅地になってしまい昔の面影が感じられない。 宗道河岸は江戸時代初期に開かれたとされ、高瀬舟が往来し相当に賑わっていたようだ。 東側の宗任神社へ行く途中に●大きな長屋門を持つ旧家があった。   14:20

 ■宗任神社~
 東側にある●宗任(むねとう)神社は前九年の役(1051~62)で源頼義の軍勢に敗れた安倍(阿部)宗任を祀った神社。 家臣松本七郎秀則親子がこの地でやって来て宗任公の神託を受け、地名を宗道と改め社を創建したという。
 本殿裏手に●松本七郎秀則の像が建っている。藤原秀郷の子孫にあたり、信濃守秀勝を以て「松本」という姓名の元祖という説明がある。 続いて境内の最裏手に●江連用水旧溝宮裏両樋というのがある。 明治33年に設けられ、江連用水を分水する施設で下妻市初となる国登録有形文化財。 先ほどの旧家の前を戻って行くと宗道河岸に面して●島屋百貨店があり、かっての宗道河岸華やかし頃を感じさせてくれる。  14:40

       ~下妻仲町
 北上を続けていく。右手に●田下稲荷神社がある。案内ではこのあたりの地名は田下(たげ)という。平安時代、豊田郡手向郷と呼び、それがなまってタゲになったという。
 その先右手に●指差道標が一本。 右側面に、「下栗ヲ経テ二本紀渡船場ニ至ル約廿町」、地図で西に下栗、二本紀という地名が確認できる。正面には「石下町ヲ経テ水海道町ニ至ル 下妻町ヲ経テ下館町・・・・・・」などと読める。その先で左へ曲がるが、曲がり角の道標は倒されている。 左手に●見世蔵の趣ある商家が一軒。そして仲町交差点を過ぎて●上町通りへ来た。   15:20

 ■下妻仲町~下妻駅
 右手に●藏造の書店があり、その隣も旅籠風。この先で常陽銀行に突き当たる。ここは●枡形になっているので、ここら辺りから宿場が始まるのであろう。  街道は左折してすぐに右折して行くのだが、今日はここまでとし右折して●下妻駅に向かい、関東鉄道に乗車して帰宅した。   15:50

 2016年3月13日
■下妻駅~上町
 下妻街道の5回目。今日は下館まで。距離が短く旧蹟の類もあまりないので、頁を改めないでそのまま使おうと思う。
 下妻駅に関東鉄道の急行で9時頃着いた。最初に駅の反対側にある●多賀谷城(下妻)跡に寄った。 多賀谷氏が寛正2年(1461)に 築城したもの。戦国時代末期には20万石もの 実力を有していたそうだが、関ヶ原の戦いで西軍に与し、7代147年で滅びてしまう。城そのものは松平定綱が城主となった後、元和5年(1619)廃城になったという。ちなみに多賀谷に滅ぼされた豊田氏の遺族がが落ち延びた先が現在の草加市である。由来の女体神社を第1回目に紹介してある。
 駅を越えた反対側の下妻第一高校の脇にあるのが●稲荷神社で下妻陣屋土塁の跡が残っている。下妻市には江戸時代、下妻藩が置かれ陣屋が置かれていた。下妻第一高校が下妻藩の陣屋跡といわれる。 その後前回終了した●上町の枡形を右に曲がる。常陽銀行の植え込みに「下妻発祥の地」という案内碑があった。 9:30

 ■上町~下妻神社
 、その先の●不動院東の枡形を曲がって真っ直ぐ北上して行く。
下妻神社手前左手に下妻坂東三十三観音第4番目の●西町土器地蔵堂というお堂が建ち、中に●金色の地蔵尊が置かれてあった。
 突き当たりは●下妻神社である。 創立年代は不詳だが、正徳年間(1711~1715)当時の領主井上遠江守正長が社殿を再建したという。境内の大ケヤキは樹齢500年以上、樹高約20m。周囲7m。削るとたいへん美しい玉杢の模様が現れる紋理材で、巨木でないと現れないという銘木だそうだ。  9:45

 ■下妻神社~大宝神社
 関鉄の上宿踏切を渡り、下妻警察所南交差点で県道357号を渡る。1km程行き、「左 大宝神社」の標識があるので左へ曲がり、大宝八幡宮へ向かう。 銅製の鳥居が見えてきて、右側は●大宝城跡土塁跡が続いている。この大宝八幡宮の境内周辺が大宝城の跡である。貞永元年(1232)に下妻長政が城を築き、代々下妻氏が城主を務めた。暦応4年(1341)春日顕国が興良親王を奉じて小田城よりここに移ってから、東国における南朝方の拠点となり、北朝方と激戦が繰り広げられた。その後、2年あまりで落城し、城主下妻政泰は討死したといわれている。
 鳥居を過ぎると●大宝神社楼門が見える。●神社は大宝元年(701)、藤原時忠が、常陸国河内郡へ下向の時、筑紫の宇佐八幡宮を勧請して創建されたという。平将門も戦勝祈願で度々訪れ、当宮の巫女によって新皇の位を授けられたと伝えられていたり、頼朝が奥州征伐の際鎌倉の鶴岡八幡宮若宮を勧請し摂社若宮八幡宮を創建したりとか伝えられ、とにかく歴史が古いことがよくわかる。
 ●本殿は重要文化財で、桃山時代の地方色が濃くあらわれていると案内にはある。  10:30

 ■大宝神社~筑西市・梶内
 ●県道357号に戻ってひたすら北上する。 この先特に見所、旧蹟の類はなく面白くはない。途中の●騰波ノ江駅は 「関東の駅百選」認定駅だそうだが無人駅。 ●筑西市に入った。少し大きめの交差点の角に「左2km 関城跡」の案内板があった。歴史好きにとってはこの関城も案外重要な城であって、南北朝の動乱時、北畠親房が「神皇正統記」を完成させたとされる城である。こちらにも行って見たかったが往復4km 1時間はかかるので行かれなかったのは残念。
 その先右手に●梶内観音(福蔵院)がある。行基菩薩作と伝えられる十一面観音が本尊。一刀三禮の作とされ、安産、子育てに霊験があるとして知られる。清和天皇の貞観元年、慈覚大師の創建という。  11:30

■ 筑西市・梶内~下館駅
 その先は又々何もなくひたすら北上。黒子、井上、下野殿、野殿と過ぎ、野殿橋(大谷川)を渡り、その先の●交差点で左折して、一路真っ直ぐに下館駅に向かう。2.8km程で●下妻街道踏切を渡る。 ・・その後中村美術館、羽黒神社など見て回ったが、次回に回すことにして●下館駅から帰宅した。 次は真岡へ向かい、喜連川温泉でゴールとなるのだが、交通の便が悪く距離もあるのでどうしようか思案中・・・・というところです。    13:55

      3 利根川(小山の渡し)北水海道    5 下館~益子