下妻街道を歩く 5  
             (下館~益子)
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 下館駅-田町-大橋-稲荷宿-川澄-加草橋-北関東自動車道-専修寺-桜陣屋跡-小林南-東田井-塙-益子駅  24.6km

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2016年4月10日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■下妻街道踏切~大町2丁目
 東武線、JR水戸線経由で下館駅に8時40分頃着いた。今日のゴールは益子辺り。距離30km程度あるので相当急がないといけない。早速歩きを再開するわけだが、下館駅北口を左に進み●下妻街道踏切から始める。しかしながら踏切から田町交差点までは前回歩き終わっているので、写真は前回の分です。
 緩い坂道を上がると●妙西寺がある。妙西寺の前に●加波山事件志士の裨が建っている。 加波山事件は明治17年、下館の民権家富松正安等が起こした栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件のことである。暗殺計画が明らかになると、加波山に決起、「圧制政府転覆」等を呼びかけた。主導者らは死刑の判決を受け、妙西寺に富松正安・保多駒吉・玉水嘉一・平尾八十吉の4名が葬られ、「加波山事件志士の墓」として市指定文化財となっている
 県道を真っ直ぐ進むと右手に●中村家住宅がある。中村家は下館で代々続く旧家であり、中村家所有の美術品を改造した土蔵で公開している。土蔵造りの建物が美術館。又脇に立つ「中村兵左衛門氏顕彰の標」によると、十三代中村兵左衛門は二宮尊徳の教えに感銘し。江戸時代の天保7年(1836)の大飢饉に多額の負債を抱え窮乏する藩の財政再建と農村復興に尽力したという。
 9:00

■大町2丁目~田町交差点
 大町2丁目交差点を右折した左手に●下羽黒神社がある。 下館城初代城主水谷氏崇敬の神社である。初代水谷監勝氏が文明13年(1481)に出羽三山から羽黒権現を勧請した。●本殿は県指定有形文化財である。
 街道は●羽黒坂を下る。江戸時代この坂はなく、大正の初め、稲荷町周辺が開発され商店等が進出したことから台地が切り開かれ坂道が出来て現在の羽黒坂になりましたという。と・・・すると下妻街道としてはどうなるのか? 一つ疑問が湧くところ。
 「地域交流センター・アルテリオ」を左へ進むと●田町交差点に出た。対面に「板谷波山記念館」がある。板谷波山(いたや はざん)明治から昭和中期にかけて活動したの陶芸家で、陶芸家としては初めての文化勲章受章者である。「波山」は筑波山に因む。   9:10

■田町交差点~
 田町交差点を右折すると左右に蔵造りの商家などが点在している。。国道50号線沿いから金井町にかけて黒漆喰塗りや町屋形式の商家建築があちこちにある。 下館は下館藩の城下町として、また鬼怒川水運を利用した真岡木綿、結城紬などの集散地として繁栄した。その名残と思う。左手の3階建ての洋風建築と和風建築の合わさった建物は●荒七酒店。建物は国登録有形文化財である。
 道を挟んだ対面のこれまた風格ある同じような洋館と和風の建物は T’s conseptと看板が出ていて設計事務所かと思った。脇に緑色の看板が立っていたのを見落として説明を読めなかったので、帰ってから調べると●料亭「食の蔵 荒為」という建物で登録文化財らしい。 金井町交差点を左折する。角に建つのは●中島商店。屋根下の軒蛇腹が特徴的。 左に曲がったら古い建築が沢山残って楽しそう。右手には●旧中屋製菓。重厚なく黒漆喰の壁、蔵が並びレンガ塀もある。今は製菓は廃業して不動産業らしい。   

 ~大橋
 その奥もまた●重厚な見世蔵建築。名前はわからない。左手にも●こじんまりとした店蔵がある。どれも重厚な感じですばらしかった。下館の歴史を感じさせる通りであった。 右手は●三峯神社。看板が立っていて、このあたりは加波山事件を起こした富松正安が自由民権思想の普及、啓蒙活動を行う為に「有為館」という道場を建てた所という。左に曲がる所に●薬師堂本堂がある。文明10年(1478)下館城主水谷勝氏により創建された。本尊は薬師如来で、眼病に効くということで昭和の中頃まで参拝者で賑わったそうだ。   9:25

 ■大橋~川澄交差点
 三峯神社手前をを右へ行き勤行川に架かる●大橋を渡る。●欄干に御神輿を担ぐ人々のプレートが貼り付けてある。羽黒神社のお祭りで、最終日に大神輿を担いだまま勤行川に入り禊ぎをするのだそうだ。
 その先しばらく行って竹島小学校を過ぎると、左に曲がると●川澄(稲荷宿)という所に出た。・・・宿というので街道の宿場かと思ったのだけど、右手に●旧家もあるし、地形も両側に枡形のように曲がっているので宿場らしいのだが、調べたけどわからなかった。宿場ではないようである。 国道50号を越えると川澄交差点になり、交差点の脇に●お堂と如意輪観音等の石仏があった。   9:55

 ■川澄交差点~北関東自動車道
 その先は北へ●県道207を小貝川に沿って進むようになる。川澄交差点の角に馬頭観音の石碑があった。その後1時間弱何事もなく県道を進むと、●加草橋が見えた。河原には菜の花がきれいに咲いている。県道ばかり歩いていても面白くないので橋を過ぎてから、●小貝川の堤防を歩いてみた。 ただこの堤防は歩いて行くと県道から離れてしまうので、適当な所から県道に戻った。 まもなく真岡市へ入る。 市境から10分位の所を右へ入り、道なりに行くと正面に地蔵堂があるので、そこを右に曲がり左に曲がって「北関東自動車道」の●真岡46号トンネルをくぐって行く。   11:28

 ■北関東自動車道~専修寺
 左手に●三宮神社がある。由緒などはわからず。その先に●泰澄寺。手前に「親鸞聖人直弟子慶信坊開基 髙田泰澄寺」と大きな案内標柱が立っており、その後ろに大きな長屋門があったので、てっきりこっちかと思って写真を撮ったら、農家の門で寺は奥の所だった。 さらに進み、左に折れると●高田専修寺に出た。 真宗髙田派は東西本願寺派に比べるとずっと小さいわけだが、直接親鸞が教化布教にあたった地にあって、こちらの方が歴史が古く初期専修念仏の根本道場とされた。専修寺は後になって三重県一身田に移っており、こちらは本寺、三重の方は本山と称している。三重の方は伊勢別街道を歩いたときに訪れているのでなつかしい思いがする。   12:10

★専修寺
 専修寺は嘉禄元年(1225)親鸞聖人によって創建されたと伝わる。案内板 親鸞の弟子、真仏から顕智によって受け継がれ、再建された建物の残る広大な境内は、国指定史跡となっています。唯一の創建当時の建物と伝わる茅葺きの●総門をくぐり境内に入ると、総門と如来堂の軸線上に●楼門がある。元禄年間の建築で重要文化財。その後ろが延享元年(1744)再建された●如来堂。本尊の一光三尊仏を安置する。もとは茅葺きで、現在銅板葺きになったのは天保6年(1835)だそうだ。●宗務所の建物は茅葺きでこれはこれで趣がある。

■専修寺~桜町陣屋跡
 専修寺から先の経路よくわからないのだが、小貝川に沿って東北方面へ行くのが筋のように思う。 しかしこの先一つ桜町陣屋跡という重要な史跡があるので寄っておきたい。専修寺から北に向かい、県道45号線を斜め左へ行くと、「史跡桜町陣屋跡」がある。このあたりは小田原藩の飛地「下野国桜町領」だった所で、文政6年(1823)、小田原藩主より農地復興の命を受けた二宮尊徳が「報徳仕法」と呼ばれる独自の農村経営法と思想哲学を編み出し、26年間も村々の復興に力を尽くしたという。広場に建っている●茅葺きの陣屋は尊徳が桜町領復興の為に滞在した建物。また●尊徳資料館やその裏に●二宮神社もある。神社は尊徳没後50年の明治38年に尊徳の遺徳を偲んで創建された。    13:05

 ■桜町陣屋~小林南交差点
 陣屋跡から戻って、●県道166号を真っ直ぐ進む。しばらくすると磯山遺跡の案内標識がある。左手磯山にある旧石器時代遺跡らしいが、遠そうなのでパスしておく。右手にこれまた大きな●長屋門を備えた庄屋みたいな家があった。
 その先少し行くと●西念寺がある。享和1年(1801)真岡の復興に尽力したという岸本代官が建てたもの。門前に●岸本代官遺跡の碑がある。●小林南交差点を右に曲がる。    14:00

 ■小林南交差点~能仁寺
 交差点の向側に●三宮神社がある。境内に神楽殿があった。その先「山前小学校南」信号を左折します。駐在所隣に大豪農のような広い敷地を持つ家があり、そこの●長屋門は蔵造りの様なすごい立派なものでありました。
 20分くらい行き小林北交差点を右折する。しばらく行くと左手奥に●能仁寺がある。創建は康永2年(1343)に足利尊氏の開基による、尊氏から一千貫の寄進を受け、鎌倉円覚寺派十刹の一に列し、下野国では最高位の寺院だったという。   15:00

 ■能仁寺~益子町境
 県道に戻り、小貝川の手前で左へ小貝川に沿うように街道は続いている。この道は地元では●タツ街道と呼ばれている道という。芳賀郡衙と東山道を結び奥州へ抜ける大事な道となっていた。
 少しすると左手高台に●観音堂がある。暦応元年(1338)足利尊氏により創建された。尊氏15歳の時、夢枕に出てきた聖観世音菩薩と馬頭観世音を祀ったお堂である。後に観音堂の守護のため愛宕下に能仁寺を創建したというので、由緒的には能仁寺の方がおまけという感じになる。。 やがて●益子町との境を過ぎた。   15:11

 ■益子町境~塙交差点
 東田井団地を過ぎると道は二股になり、街道は右を進む。踏切を過ぎる菊池病院の大きな建物が目に入る。国道294号がL字型に曲がる角の両側に●北向き地蔵●西向き地蔵堂があり、それぞれき国道の北と西へ向いて交通の安全を祈っているようである。
 北へ200mも進むと右手に●外池酒造がある。宇都宮で文政12年(1829)に創業した外池酒造がルーツで、こちらは1937年の創業。観光バスも止まるほど有名な酒蔵という。 時間も帰るにはちょうど良いので次の●塙交差点で本日の歩きは終了として、益子駅に向かうことにした。 15:35

 ■塙交差点~益子駅
 交差点から15分程で●益子駅に到着した。切符を買ってちょっと待つと●1両の真岡鉄道の車両がやって来た。濃淡の緑がモザイク模様のハデな車両で、下館までの帰りは桜並木の脇を通ったり、カメラマンが沢山いたりで楽しかった。次回は喜連川まででゴールの予定。 距離28.7km(寄道込)

      4 北水海道~下妻・下        益子~喜連川