竹内街道を歩く  歩行地図はこちら  地図
 堺-大小路-金岡-岡-羽曳野-白鳥陵-古市-太子町-竹内峠-當麻町-長尾-いわき  30km

 竹内街道
 堺市の大小路から松原市、羽曳野市を経て、太子町、竹内峠を越えて奈良県當麻町の長尾神社までをいう。
その起源は古く、日本書紀に推古天皇21年「難波より京に至る大道を置く」とあり、この大道は「丹比道」(たじひみち)とも呼ばれた。
 竹内街道はこの「大道」とほぼ同じルートを通 っている。大道のルートはすでに消滅し、大阪城下の難波宮跡地からまっすぐ線を引くと街道途中の金岡神社にぶつかるので大道はここから奈良へ向かうと考えられます。金岡神社付近には大道の地名も残っている。古代には遣隋使、遣唐使が通過した外交のルートとして、太子信仰の道として、また中世には、自治都市、堺と大和をつなぐ経済の道として重要な街道でありました。現在では国道166号となり奈良と大阪を結ぶ重要な道です。街道はよく整備され中世の町並みが残る雰囲気のある街道です。
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2006年12月16日
   東京より夜行バスにより南海線堺駅に朝到着する。駅正面から東へ大小路筋を行く。●堺市大小路(おおしょうじ)より竹内街道は始まる。ここは摂津と和泉の国境となっていた道で堺を南北に分け、市などが立って賑わった所。写真の左右に走るのは●紀州街道で江戸時代に紀州・泉州の交易ルートとして栄えた道。紀州街道の●現代の道標が立っていた。

堺駅から東方2kmほどの●堺市役所を右に見てから、堺東駅へ向い駅でハンバーガーの朝食を食べた。後駅の先の踏切を渡る。線路沿いに歩き、市立榎小の先で二叉に分かれる。店の前に●道標が立っており、左が竹内街道、右が西高野街道で高野山に向かう道。竹内街道は終点長尾神社まできれいに色分けされ、案内板も各所あり、わかりやすい道です。

 向陵西町で大阪中央環状線と合流し、●阪和線三国ヶ丘駅を越える。すぐ南側には仁徳天皇陵以前行ったことがあるので今回は素通りとした。天皇陵は航空写真だと、大きさがわかるけど地上で見ても面白くはないものと思う。中町で、●手打ちうどん屋さんの右側を入って行くと、中世風な雰囲気を持つ家が並ぶ●街道が続いている。所々に道標が立っていて迷うことはない。

  国道28号線を過ぎ、金岡小の塀にはタイル絵が描いてある。
●金岡神社
難波宮からの大道の交差する場所にある、巨勢金岡ゆかりの神社。主祭神は底筒男命、表筒男命、素戔鳴命、大山昨命を祭る。このあたりは昔、河内国八上群金太郷とよばれ、河内絵師といわれる人々が住み、これらの人々は優れた絵や彩色などの技術を持ち、奈良の大仏殿の絵を描くなど活躍した。その中で特に優れた金岡は絵所長者といって絵の仕事をする役所で最高の位を極めた。・・・案内板より。本殿は春日造りの一間社3棟が並んでいる。

●大泉緑地
 神社から東へ進むと再び大阪中央環状線と合流するが、横断して大泉緑地沿いの道を進む。中を少し歩いてみる。地図を見aるとこのあたりは溜池が多い。大池の脇を通り、金岡中央病院を過ぎて行く。このあたりは●町工場が結構あります

●南町図書館の道標
松原市に入る。こじんまりした図書館があり、入り口脇に道標がある。右 ひらの 大坂 。 左 さかい  とある。左側が今来た道。上方が大阪方面です。
 図書館で少し休憩。時間は午前10時30分。立部東で阪和自動車道の高架下をくぐると、街道は南東の方角に曲がる。羽曳野市に入る。●新ケ池の北側を行くが、くねくねし出すのでGPSを見ながら慎重に歩く。

●伊勢橋の道標
 東除川に架かる伊勢橋を渡る。橋のたもとには道標が固めて置いてあった。伊せはし、伊勢橋の外は読めない。伊勢橋と言うからには伊勢参りで通った橋であろうか。しばらく行くと左に野中寺交差点が見える道とぶつかる。左脇に●木製常夜燈があった。このあたりに野中寺の南大門があったらしい。

●野中寺
 寄り道して参拝する。八尾市の勝軍寺(下の太子)太子町の叡福寺(上の太子)と並んで(中の太子)と呼ばれる。法隆寺様式の伽藍で有名であったが南北朝の戦乱で焼失した。塔、金堂はなく礎石跡が残る。弥勒菩薩像は毎月18日公開だそうで2日前で残念。境内には●ヒチンジョ西池古墳石棺が移設され、また,説明はないが●朝鮮風石像などもあった。

 街道に戻り、道を横断しすぐに●道標があるので、そこをを南下する。池の左側を歩く。高台になっており二上山が見える。
 左手に●仁賢天皇陵があるので寄ってみた。
 高台を降りていくと軽里1丁目。●峯ケ塚古墳墳丘が前方にある。長さ98mの前方後円墳。築造時期は5.6世紀、副葬品にすぐれ大王程度の古墳と推定される。ここから北東数百mの所に応神天皇陵があり、見たいと思ったが先が長いので割愛することとした。

■古市古墳群について
このあたり、北東には応神天皇陵、南東には日本武尊陵があり、この地域には大王陵が多い。古市古墳群という。4~6世紀の築造時期である。外に山辺の道にある、3世紀からの箸墓、崇神天皇陵を中心とした柳本古墳群、仁徳天皇陵の百舌鳥古墳群と大王ヤマト地域から大阪、河内地方へ移っており、河内政権の誕生とか、大和政権が移動したとかの論議の根拠ともなっている。

 軽里北から南東へ入っていくが、●ウオーキングトレイルとして整備されてて歩きやすい街道になっている。やがて●日本武尊白鳥陵が見えてくる。日本武尊が白鳥に姿を変え最後に降り立った地とされている所で、羽曳野の由来にもなっている地。実際は何処かの大王クラスの古墳であろう。 

 古市駅踏切を渡り、途中にあるのが西琳寺。
●西琳寺

欽明天皇の勅願寺として建立された向原寺が起源とされ、8世紀後半に百済系渡来人の王仁博士の後裔である西文(かわちのふみ)氏が開基とされる。王仁といえば初めて日本に漢字をもたらしたと伝わる人で、その子孫はこの付近に住んでいたと言われる。境内には舎利孔と添柱穴をもつ巨大な塔心礎と叡尊五輪塔と呼ばれる塔が残っている。

 西琳寺の門をでて街道に戻ると、道は鍵型に曲がっている。蓑の辻という。
 竹内街道、東高野街道が交わる地点で江戸時代大変賑わったと●プレートに書いてある。
 東へ歩き、石川に架かる●臥龍橋を渡る。右折して166号線に沿い歩いていく。

 近鉄駒ヶ谷駅近くの逢阪橋を渡って●●旧道に入っていくと、また雰囲気のある町並みが続く。 歩いてすぐ左側にあるのが 杜本(もりもと)神社で、案内板を読むと式内神名大社だそうで参拝するかと思ったが山道が続いているようで、これはきついなと思えど、せっかくだからと思い直し長い参道を登っていった。

●杜本(もりもと)神社
 祭神は経津主命、経津主姫命、平安初期には百済宿禰永継(くだらすくねながつぐ)とその祖先の飛鳥戸氏を祭る神社でした。永継の子・冬嗣は、娘の順子と仁明天皇との間にもうけた文徳天皇が即位すると、外祖父として宮廷の実権を握ります。そして、永継とその祖先神を祭っていた杜本神社は、大・小の官社(式台社)とその祭神を記した平安時代前期の「延喜式」「神名帳」の明神大社として、宮中の月次祭(つきなみのまつり)や新嘗祭には朝廷の勅使が派遣されました。 織田信長の高屋城攻めの兵火を受けて焼失しますが、江戸時代に金剛輪寺(宮寺)の住職・覚峰によって再興されて現在に至っています。例祭は春が、4月8日、秋が10月7,8日で、後醍醐天皇や後村上天皇の書状、人身獣面の「隼人石」などが残されています。・・・長いが、案内板から

 ●近鉄・上ノ太子駅前を通る。この先で踏み切りを越える。500mほどで、南河内郡太子町春日に入る。
 街道は踏切を越えて初めの信号で国道166号線と分岐する。信号を直進。街道はゆるい上り坂になっている。ダンプも通る普通の道である。
 春日西交差点で直進しダンプ道と分かれて、旧道に入るととたんに又●旧家が並ぶ旧道らしい道になっている。途中で太子ゆかりの叡福寺へ寄ることとする。

 ●叡福寺
  聖徳太子が、推古28年(620年)にここに墓所を造営したといわれている。没後、聖武天皇の勅願により、太子の墓を守り霊を鎮めるため神亀元年(724年)に建てられたのがこの叡福寺であるという。織田信長の焼き討ちにより全焼、その後再建され、ほぼ現在の寺の規模になったようです。  ●多宝塔 1652年の再建になる物で、重要文化財。

●竹内峠への入口
 
六枚橋を渡り、●竹内街道の案内標を見ながら竹内峠へ向かう。
 国道166号と合流するのだが、●旧街道の面影が残り、楽しく歩ける。しかしここから登り道になり、20数キロ歩いてきた身にはちょっとつらい。當麻町側から歩くと、歩き始めであるし、登りが少ないかもしれない。

●竹内街道資料館
 街道途中にある「太子町立の竹内街道歴史資料館
日本最古の官道・大道として知られる竹内街道の歴史的な史料等を展示している。時間がなくて15分ほどで退室してから●国道166号と合流し當麻町方面へ向かう。
 が、なんと最初の100m位しか歩道が付いていない工事中のフェンスを過ぎるとガードレールの中を歩く羽目になる。 前から普通車、大型車、タンクローリーなどがビュンビュンと通過する。居眠り運転の車と遭遇したりすれば一貫の終わりである。これは早急に改善する必要があるでしょう。

 ●河内国山田郷役行者遺跡
峠手前にある祠である。石柱に河内国・・・・・・とあるだけで詳しいことはわからないが、ウィキペディアの当麻寺の項をを読むと寺の起源が山田郷と関係あるような記述があるので、なにか当麻寺と関係あるのかもしれない。
●竹内峠頂上
ここから先奈良県に入る。やっと来た感じ。ここから地下トンネルをくぐって裏道を通るので危険な歩きはここまでで済む。

●鶯の関
 案内板が虫食いで所々読めないが、ここには鴬の関があり、茶屋・旅籠が建ち、多くの文化人達の往来があったそうである。ベンチがあり公園になっている。
 道を横断して●地下トンネルを通る。
落ち葉だらけでなんか寂しい感じがする。潜ったらなんと公園から下る●階段があった。国道を横断する必要はなかった。

●裏道をといっても旧竹内街道である。
 国道を歩く危険はなくてすむ。路面は一応舗装されている。冬の季節でもあろうか、人が一人も通らない。車も通らない。落ち葉が散乱している。女性では危険を感じるでしょう。
 男でも心細くなる。やがて●上池に出てくる。池の向側に人が一人いた。なんかほっとする。又166号と合流して、歩道のない道を歩かねばならない。

●竹内集落
 竹内街道もそろそろゴールに近づく。竹内集落に入ってゆく。集落の中では、竹内街道はほぼ一直線に東西にのびる道である。 きれいなカラー敷石舗装された穏やかな道が続く。 道の両側に並ぶ民家は、伝統的な大和造りの家屋が多い。瓦には●大黒様の像が立っていた。福招きの意味でしょうか。中山道、上尾あたりでは火災よけの鍾馗像がのっていたが・・・やがて終点長尾神社。

●長尾神社
 薄暗くなった4時半頃長尾神社に到着。鳥居前が道路工事中でオレンジ色の鳥居の写真が撮れず、暗くもあるので拝殿の写真だけ撮っておいた。 
 説明板より・・・昭和11年の新築で瓦葺、単層入母屋破風掛造、拝殿の正面に入母屋造の祝詞屋があり渡廊下で拝殿とつながっており、 明治17年の再建です。本殿は二社並しており向拝が付された素木の春日造を基本にした紫宸殿造で、軒は二重繁垂木、桧皮葺の屋根には千木カ堅魚木が配されています・・・・・・・これで竹内街道歩き旅も終り、近鉄いわき駅より明日山辺の道を歩くので、桜井駅まで行く。 いわき駅着4時50分 歩行距離34.1km 歩行時間9時間。いささか疲れました。