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房総往還を歩くⅡ-1 (木更津~青 堀) |
歩行地図はこちら 地図 |
| 木更津-吾妻神社-選擇寺-木更津郵便局-八釼八幡神社-証城寺-桜井-君津緩衝緑地-人見神社-青堀駅 10.80km | ||
| 房総往還 Ⅱ 房総往還は千葉県船橋市から館山市まで通じる街道で、房総半島西側を通って江戸に通じる主要な交通路でした。房総諸藩に取っては参勤交代路でもあり、近世では外国船に対する江戸内湾の警護のために重要な役割を果たしてきた。木更津までは平坦の道が通じるが、木更津から山側、海側の道に分かれ、山側の道の方が古いが、海防政策の進展により、海側の交通量が増えてきた。今回は房総往還Ⅱとして木更津から館山まで向かいます。 距離115km程度 資料 「歴史の道調査報告書 房総往還 Ⅱ」 千葉県教育委員会 |
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| 1 木更津-青堀 | 2 青堀-大貫 | 3 大貫-竹岡 | 4 桜井-佐貫町 |
| 5 竹岡-保田 | 6 保田-那古船形 | 7 那古船形-館山 |
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| ~吾妻神社 平等院から西に向かうとバス通りへ出ます。右折して北上して「吾妻神社」へ向かうが、途中右手へ入る道の角に●安政5年(1858)の道標が立っている。指さし道標になっていて「江戸道」「吾妻神社」と刻まれている。「江戸道」というので、右手の道は房総往還の様な気もしますが、調査報告書には特に記載がありません。 その先、突き当たりが●吾妻神社。 祭神は弟橘姫で、=日本武尊東征の際、 相模から上総へ渡ろうとした時、海上にわかに荒れ、弟橘姫が海神を鎮めるため、海中に身を投じたという=有名なエピソードがあるが、その姫の袖が 数日後、この近くの海岸に漂着したので これを納めて吾妻神社を建てたという。 境内に「木花咲耶姫」外を祀る"富士塚"がある。 又、昔、ここを吾妻の森といった頃、森を中心に小池があり、これを●「鏡ケ池」と 呼んでいました。。 日本武尊や従者たちはその池の 水で喉を潤し、水面を鏡の代わ りにし、疲れ果てた己の姿を見 て、身なりを整えたと言われて います。 又、その池は弟橘媛が使った鏡を沈めた所とも伝えられいます。 9:35 |
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| ■吾妻神社~選擇寺 神社を出て、南下。県道90号を左折、すぐ右折して行くと、「木更津郵便局」のある通りへ出て、左折したらすぐ●戸隠神社があります。ここにも本堂横に出羽三山を祀る"富士塚"がある。 東隣にあるのが●東岸寺。応永8年(1401)時宗の寺として開かれ、永正6年(1509)選擇寺の末寺となり、浄土宗に改宗している。 境内に、文化6年(1809)小林一茶が訪れ、東岸寺で行われた「藤勧進」の句会で、一茶がよんだ●「藤棚や うしろ明りの 草の花」という句を刻んだ句碑が境内にある。 9:50 |
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| ★選擇寺 道路を挟んだ向こう側奥にあるのが●選擇寺。浄土宗で文明16年(1484)の開基。右手に●二基の宝篋印塔がある。向かって左が上総飯野藩初代藩主保科正貞の兄にあたる「保科正重」の墓。右側が右の背の高い方がその実母の墓という。"説明板" 墓地の一角に●「こうもり安」の墓がある。歌舞伎「与話情浮名横櫛」の切られ与三郎の相棒としておなじみのこうもり安は、本名を山口瀧蔵といい、文化元年(1804)木更津五平町の大きな油屋「紀の国屋」の次男として生まれた。中々の人物で、ゆすりを働くような男ではなかったという。"説明板" 「与話情浮名横櫛」は木更津を舞台にして、「切られ与三」、「お富」、「源氏店」(げんやだな)などが登場する狂言の名作の一つ。 又境内に「軍用兎之霊」という碑があったが、軍用にするうさぎとはいかなるものか、調べたら、毛皮を取ったり、食用にしたりしたらしいです。 10:06 |
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| ★愛染院:光明寺 選擇寺の南隣が●愛染院。明治30年のに持宝院、長音寺、宝光寺、東善寺が合併してできた真言宗豊山派のお寺。その南隣が●光明寺。建武2年(1335)の創建の日蓮宗のお寺。堂々とした伽藍を持ち、木更津を代表する寺院のひとつ。本堂前には、樹齢400年超とみられる大きな"黒松"があり、舞鶴のように見えるその姿から「舞鶴の松」と呼ばれています。 又、境内に●「切られ与三郎の墓」がある。与三郎は、「こうもり安」と同じ、「与話情浮名横櫛」の主人公の一人。 10:15 |
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| ■木更津郵便局~木更津銀座通り さて、木更津駅周辺の見どころを見て回り、●木更津郵便局横から房総往還5回め始めます。南に向かい、左手に、●桔梗屋斎田薬局があり、「ぶらり木更津まち歩き~街並みの情景~」という"案内板"。が壁に架かっている。それによると、現在の建物は普通のものだが、明治14年創業で蔵造りの重厚な建物だったようだ。 更に南下して、次の「本町四つ角」と呼ばれた交差点、右角に●旧金田屋洋品店の珍しい看板建築の建物が建っています。ここから南が「本町通り」(現銀座通り)で、呉服屋、銀行などが軒を連ね、商業の中心地として賑わっていたといいます。 本当の房総往還の木更津の出発点はここから南下することになります。 10:22 |
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| ■八釼八幡神社~矢那川 参道を出て、すぐ先の角を左折する。證誠寺橋の手前右手に●證誠寺がある。おなじみ、野口雨情作詞、中山晋平作曲の童謡「証城寺の狸囃子」のモデルになったお寺です。"説明板" 境内左手に●「狸塚」や「狸ばやし童謡碑」がある。 證誠寺橋で●矢那川を渡ります。"説明板" 10:40 |
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| ■矢田川~桜井 貝淵に入り、左手に●延命寺がある。山門を入った左手に"元禄15年の庚申塔 " などがある。 寺の先を右折して、200mほど入った住宅の中に●木更津県史跡という石碑が建っている。明治4年、木更津県が設置され明治6年に廃止されるまで県庁があった所。旧桜井藩主「滝脇信敏の邸宅を改造したもので、初代県令は「柴原和」。明治維新にふさわしい施策を行った名県令といわれた人物です。 国道16号を歩道橋で越えると桜井に入る。 進むと●三叉路にぶつかる。旧道は真っ直ぐ進み、川を渡っているはずだが、遮断されているので、「諏訪大橋」を渡って、右折し、「桜井大橋」をわたると、旧道に合流します。「桜井北町」バス停の先、右手に専念寺があるのだが、そのまま通過。 11:11 |
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| ~君津緩衝緑地入口 その先、左手の桜井仲町公民館の横に●厳島神社がある。最近、改修された様な派手で、新しい社殿です。HPによると「人生のここだけは負けたくない」という瞬間に、何世代にもわたり寄り添ってきました」という大層な神社でありました。上総国請西藩の初代藩主・林忠旭が幕末、大火後再建。第三代藩主・林忠崇。戊辰戦争で徳川家への忠義を貫き脱藩の上、出陣、2度の大火から生き延びたとか、エピソードが色々ある。 左手奥には稲荷神社、日枝神社とかあるのだが、通過した。 「小浜」に入り、左手は●丘陵の崖がせまって来ている。右手は埋立地で、重工業地帯だろうけど、見えません。煙突がチラホラと。 館山自動車道の下を通ると畑沢になる。「畑沢信号」から左手へ山道へ入る道「西房総街道」と称される道が分岐し、佐貫で佐貫村道と合流します。 その先、調査報告書の地図では、坂田から、左斜に入る道があり、小糸川の周西橋を渡っているようになっているので、見当を●君津緩衝緑地入口に付け、坂を上がって行きます。 12:32 |
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| ■君津緩衝緑地入口~ 道なりに行くと、右手に野球場、正面に●周西中学校。右手方向に曲がると、左手に●大和田小学校がります。大和田橋を渡った先は、調査書の地図では「日本製鉄社宅」の南側を進んでいる様に見える。実際の地図では真っ直ぐ繋っている道はないし、どちらにしても社宅で分断されているので、どこを通っていてもいいかと思いました。 大和田橋を越え、真っすぐ進み、バス通りに出て、左折すると、その角、左手に●妃(きさき)塚古墳という小さな石塚がありました。 "説明板" 社宅の建設により、発掘されたものの移設らしいが、珍しいものを見つけました。 12:55 |
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| ■人見神社~ 神社からの●東京湾の望む風景は素晴らしく、東電火力発電所や製鉄工場が遠望できます。 帰りは石段を下って行きますが、途中●近江屋甚兵衛墓というのがあった。江戸時代、苦心の末、海苔の養殖に成功したという人物。13:25 |
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Ⅱ-2 青堀-大貫 |