房総往還を歩くⅡ-2 
            (青堀~大貫
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 青堀-内裏古墳-飯野陣屋跡-八坂神社-福恩寺-正珊寺-大乗寺-富津公園-長秀寺-大貫駅  8.2km(18km)            

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2026年3月22日  画面をクリックすると拡大します
■青堀駅~内裏塚古墳
 9時42分に青堀駅に到着。少し遅いけど、1時間に1~2本なので仕方がない。地図を見ると、このあたり古墳が集中している。日本武尊東征伝説のとおり、このあたりは古代東海道の房総における、上陸地点付近であり、交通の要衝であったので、この辺の豪族と大和政権とが密接に関係し、発展していたのだろうと思われます。青堀駅前に、前回見損なった、●富津市指定史跡「上野塚古墳」があり、5世紀頃の内裏塚古墳群といわれる、この辺りの古墳群の一つ。駅前開発で半分くらい削られてしまっている。 
 少々の寄り道。 駅の東側に出て、右折、県道157号を南下していくと、左手に●内裏塚古墳というのが聳えている。"説明板" 5世紀頃築造の南関東地方最大の前方後円墳で、この古墳を含む、「内裏塚古墳群」は、大小30基以上の古墳で構成され、三条塚古墳、九条塚古墳、稲荷山古墳等、100mを超える古墳を含む南関東屈指の古墳群であるという。 頂上に登れるようになっていて、大きな●「内裏塚」碑があり、説明板はありません。 脇に"珠名冢碑"というのがある。"説明板" 奈良朝の典型的美人がこのあたりに住んでいた「珠名」という女性だったというのは面白い話です。 10:05

■内裏塚古墳~飯野陣屋跡
 内裏塚古墳の東南に、飯野陣屋跡、陣屋豪跡、三条塚古墳などの記載があり、周りを長方形に囲む水路の表示があるので、行ってみました。 県道157を南下、途中の信号で左折して行くと、左手に●飯野陣屋跡の案内標柱が建っています。飯野神社参道入口にもなっている。"説明板"  慶安元年(1648)に初代飯野藩主保科正貞(ほしなまささだ)が1万7千石の大名として飯野に陣屋を構えた。保科家は転封も無く、明治維新まで8代にわたって続き、明治4の廃藩置県によって飯野陣屋の建物建物は取り壊されることになった。規模としては相当に大きく、12万3千平方メートルもある。 参道を真っ直ぐ行くと、●飯野神社があります。陣屋の中心に鎮座しており、大正4年に旧飯野村の神社を合祀して、飯野神社と称するようになったという。入口に陣屋についてのより詳しい"説明板" があり、神社の奥は「三条塚古墳」が取り込まれているのだが、林の如くで見えません。県道に戻る途中、脇の水路は●陣屋豪跡で、幅は5m位というが、そんなに広くないので、道路に潰されているのだろうと思います。 10:30

■飯野陣屋跡~八坂神社
 「大堀坂下」信号に戻って、●国道16号を進みます。16号線は富津公園に向かい、JR内房線は南下して行きます。左手に青掘小学校がある。青木地区に入り、広めの道路を渡った、右手奥に●八坂神社があります。結構どっしりとした由緒ありそうな神社で、 奥に●「浅間大神」を祀る富士塚と端正な形の社殿がある。 11:05

■八坂神社~旧道分岐
 16号線の「青木バス停」の先、●左手に入る脇道は旧道であろうと思われ、入って行きますが、分岐左手に●鳥居と、富士塚の様な塚、脇に●芭蕉句碑、左隣に船の錨などがある。名額がないのでわからないが、グーグルマップには「鞍馬社」と登録されていた。塚には御嶽山大権現、八海山神王 とか刻まれた石碑がならんでいます。
 芭蕉の句碑は「ほとゝきす 啼や黒戸の 濱ひさし  はせを 秋巖書」とあるようです。 11:12

 ■旧道分岐~福恩寺
 すぐに国道に合流し、しばらく進んで、「西川信号」の先、左手に入ると●八幡神社●福恩寺がある。神社には富士塚があり、福恩寺は神社の別当寺であったでしょう。寺の境内に大きな江戸期のものと思われる●宝篋印塔がありました。 11:30

 ■福恩寺~新井
 更に南側に●正珊寺が あるので、慎重に地図を見ながら向かいました。正珊寺は西川村を知行した、旗本小笠原安芸守信元によって万治3年(1660)創建された。小笠原氏の菩提寺でもあり、境内に●小笠原氏の墓所がある。"説明板"
 境内奥に江戸湾防備のため富津陣屋に駐留した会津藩士の墓があるというが、特に見に行かなかった。 又同じ小笠原氏一族の墓所は富津の長秀寺にもあるということなので、この先、行ってみます。 境内を出て、又慎重に地図を見ながら●国道16号に戻りました。さすがにこのあたり、交通量が少なくなりました。 11:50

 ★大乗寺
 「新井」交差点の先、富津に入ると、すぐ右手に●大乗寺があります。参道脇から入れるようになっていて、寺そのものは永観年間の(983~)の創建で、焼失や移転などがあり、小笠原信元により現在地に落ち着いた。本堂左手の墓地には、富津村の名主の妻で女流俳人の●織本花嬌の墓がある。"説明板" 小林一茶などと親交があり、花嬌の死後の法会に句を詠んでいる。
 境内には●織本東岳」の墓もある。"案内板"織本花嬌の曾孫で、明治25年に59歳で没している。正式の参道に向かうと、参道右手に"小林一茶曽遊の地」碑"がある。 又境内に「溺死者之碑」、「遭難者追悼之碑」などがあったが、説明がなく、わからなかったが、明治時代に東京湾の「第ニ・第三海堡」建設工事で、殉職した人夫たちの慰霊碑であったりするような重要な碑でありました。
 12:15

■大乗寺~富津公園
 ●「富津」信号から街道は左折して行く訳だが、富津陣屋跡とか、富津岬見ておきたいと思って、真っ直ぐ進みます。 300m程進んだ左手奥に●医王寺があるが、付近の民家のそばの空き地が跡地で、道調査報告書には「陣屋の痕跡をとどめるものはない」と書かれているし、付近を探って見たが、空き地もあまりないのでそのままにしました。ところが、ネット上には、富津陣屋跡の碑と白井宣左衛門・小河原多宮自刃之地の碑が立っているとあり、場所はわからず仕舞いでした。富津陣屋は江戸湾防備政策の一環として、文政4年(1821)に築かれた。 元の道に戻り、真っ直ぐ進むと800m程で、●富津公園入口に至ります。12:40

★中之島展望台
 富津岬には江戸時代、江戸湾防備のため、観音崎〜富津岬ラインの防備が計画されたが、財政難のため、品川台場が優先された。明治になって、富津岬全体が軍事施設になり、中之島を作って、「富津元洲堡塁砲台」が築かれた。●中之島の入口。島の周りに濠を掘り海水を引き入れ、周りを土塁で囲んである。中は石積みの何かの跡とかみられるが、よくわからないので、展望台に上がってみました。 樹木でよく見えないことがあるので、展望台の高さがもう少しほしいところだが、●東京湾の展望はすばらしい。

 ★元洲堡塁砲台跡
 中之島橋を渡って中に入り、土塁の上へ上がって見た。砲座は湾口部に向かって弧を描いてならんでいるというが、詳しい説明がないのでよくわからない。左手にはレンガ壁の部屋があり●左翼観測所及び付属室といって、砲弾の着地点を観測するものらしい。
 中之島を出た、円周部にもいくつか残っており、●監的塀は分厚い鉄筋コンクリート製の防弾壁で、50m先にある●射入窖(こう)へ砲弾を打ち込み、中央の観測窓から威力や速度を確認した。その50m先の射入窖は厚さ約130cmの鉄筋コンクリート製の巨大な穴ぐらで、50m手前にある監的塀から弾を打ち込まれ、速度や威力を確認された。鉄板の貫通試験も行われていたという。

 ■富津公園~
 砲台跡はもっとじっくり見て回るべきであろうと思うけど、そうもいかないので、元の「富津信号」の所まで戻り、右折して●大貫方面に進みます。すぐ、左手に●長秀寺がある。旗本小笠原信元が母の供養の為に創建したお寺。境内に"溺死者之碑"があった。先程の大乗寺にあったものと同様の海堡建設に携わった人の犠牲者追悼碑と思います。右手の●無縁塔の中に富津陣屋に駐留した会津藩、忍藩、白河藩・忍藩などの藩士が埋葬されています。"説明板"。墓石をよく見ると、武州忍藩とか会津藩とかの名前が刻まれているのがわかります。 13:50

   ~大貫駅
  長秀寺には●小笠原一族の墓もあり、小笠原信元の母や妻の墓もあると思われます。 寺を出て先に進むと、左手に●「富津市指定史跡 原口照輪生誕地」という案内板が立っています。"案内板" 幕末から明治にかけての成田山新勝寺第13第貫主にして、中興の祖だった上人だそうだ。 その後、一路●大貫駅までまっしぐら。途中右手奥に「磯部大神宮」というのがあるが、大神宮と言う割には大したことがない。 やがて、内房線の踏切にぶつかるが、手前を右折、スーパーの先を三角形の2辺を歩くように曲がると、駅入口に着きました。 駅到着14時55分。予定では1駅先の「佐貫町駅」までのつもりが、今日は寄り道が長く、JR1駅分しか進んでいないが、距離
18kmにもなり、疲れたので、ここで打ち切りとしました。14:55

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