伊勢本街道を歩く 3 
       (伊勢奥津駅~柿野バス停)
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 伊勢興津駅-飼坂峠-上多気-立川-櫃坂峠-長瀬-下仁柿-柿野神社           17.1km

伊勢本街道
 伊勢本街道は、榛原で初瀬(青越え)街道と分岐し、高井、山粕、興津、多気、田丸を通って伊勢市の筋向橋で伊勢参宮街道と合流し,内宮へ向う街道です。  関西方面から伊勢への最短距離なので、厳しい峠越えがあるものの、大いに利用されたが、峠小江の少ない初瀬街道を利用する参拝者が増加し、この本街道は次第に廃れていくようになっていった。距離は榛原から筋向橋まで84km程度、内宮までは90km程度。筋向橋から内宮までは歩き終っているので、ここでは榛原から筋向橋まで歩きます。
      今回は伊勢奥津から柿野バス停まで扱います 

■伊勢奥津駅~~興津宿 ※ 写真をクリックすると拡大します
 2012年10月21日 近鉄大阪線 河合高岡駅乗換、名松線一志駅より●伊勢興津駅12時32分着。遅い時間だけど、こんな時間しかないので仕方がない。今日は柿野神社まで行きたいが、5時頃までに到着しないと暗くなるので、なるべく寄り道はしないですませようと思う。
 駅から興津宿の旧道へ復帰して歩きを再開する。興津宿は江戸時代から明治中期、末期まで相当に繁盛した所であり、井筒屋、新屋、中北屋などの旅籠があった。また江戸屋、柏屋、尾張屋などの商店が軒を連ねていたという。現在でも古い家が残り、街道の雰囲気を感じることができる。  街道を行くと、右手に「日用百貨店 ぬしや」の店があったり、正面に●営業中の味噌醤油店があったりする。左手駅に通じる道の角に●明治26年建立の大きな道標があり、「左 いせ新街道」と刻まれている。してみると、今通って来た道は明治になってできた新しい街道かもしれない。 その先に興津の唯一の蔵元●「稲森酒造」がある。    12:45

 ■興津宿~ 札場跡
 稲森酒造の前を右に曲ると、●宮城橋が伊勢地川に架かっており、このあたりを「須郷の里」と呼び、旅籠の中北屋があったという。現在でも残っているらしかったが、わからず通過ぎてしまった。 その先の右手、畑を入ったところに●「おんばさん」という延命地蔵菩薩がある。300年ほど前の庄屋さんが子供たち流行病から守りたいと、お祀りしたのが最初という。沢山の「よだれかけ」が奉納されている。 左手に●札場跡というのがある。幕末の慶応年間、当時の度会県太政官が伊勢参りの人々へ通行手形を渡した場所跡。神宮参拝に外の信者でないかを確かめて身分証明を発行したと伝えられる。   12:50

  ■札場跡~飼坂峠
 民家の前の細い旧道を進んで行くと、左手に●大きな谷口の常夜灯がある。文久4年(1864年)の建立。
 左手奥に●曹洞宗正念寺がある。慶安年間(1648~)、曹洞宗の教えを広めに訪れた時僧が村人に請われて留まり、本堂を建立した。 この後、徐々に上り坂になってきて、飼坂峠へ向う。
 一度国道沿いの●一段低い所を国道に沿って進むと、右手に小さい石仏がひっそりとある。●「首切り地蔵といって、昔飼坂峠には山賊が出没して旅人の命を奪い、その犠牲者の供養のために建立されたもの。 13:12

 ■飼坂峠
 首切地蔵の先で●国道へ出る。右手奥に「飼坂トンネル」が見える。峠の入口はトンネルの手前にあり、ちょうどツアーの御一行に突き当ってしまった。ツアーにすぐ追いついて、こちらは急ぐし、挨拶しながら追抜いて行ったので、途中にあった「腰切地蔵」見逃してしまった。 ●峠道に踏み入れた。杉の葉がクッションとなって歩き易い道だが、勾配は結構きつい。飼坂峠は難所の一つになっているが、勾配がきついということもあるが、昔、山賊が出没して危険ということもあったらしい。
 15分程で●峠」の頂上に達した。頂上は広くなっていて、明治末期まで茶屋があり、力餅などふるまっていたという。13:30

 ■ 飼坂峠~上多気
 「飼坂峠」の下り道も、杉の落葉で柔らかく気持ちが良い。途中、●「ホトトギスの水」と書かれた木札が立っている。昔不如帰の花が群生していたことからこう呼ばれ、叉北畠氏の水場として利用されたという。但し近くに水場らしいものはを見つけられなかった。峠を下ると●国道に沿って行き●「上多気」の集落に入って行く。  13:50

  ■上多気~八手俣川
 
現在の上多気には「多気宿」があった。八手俣川を挟んだ西側が●「谷町」で、左手に●上多気常夜燈がある。「村中安全」と刻まれ、元治2年(1865)のもの。右手の●道標は彫りの深い字で「すぐいせ道 すぐはせ道」と刻まれている。嘉永6年(1853)のもの。 ここ上多気は歴史上由緒のある場所であった。南北朝時代から戦国時代にかけて、北畠氏の本拠地となり、国司館(現在の北畠神社)を中心に武家屋敷200戸、寺院40ヵ所、10数ヵ所以上の町人町があり、周囲をけわしい山々で囲まれた城下町であった。しかし織田信長の侵攻によりあっけなく滅亡してしまっている。その後伊勢街道の宿場町としてよみがえり、明治末期まで栄えた。北方に北畠神社や「北畠氏館跡庭園」があるが、時間が心配なので寄らないことにした。 13:55

 ■八手俣川~立川
 
八手俣川を渡って進むと「谷町」に引続いて、●「町屋」の集落に入る。ここの集落の多くが元旅籠だったらしく、古い家並みが続き、角屋、万屋、などの看板が架かっている。
 右手に最近まで営業していたという元旅籠の●「結城屋旅館」がある。
 左手に「六部供養碑」がある。その先にあるのが●東屋ようかん店で、青い幟が目印。創業は明治時代で、小豆ではなく、うずら豆のようかんだそうです。店を覘いてみたら誰もいないので、日曜だし休みかと思った。   14:05

 ■立川~鶯の水
 少し進んだ所に●「サカムカエ場(坂向場)」という所がある。伊勢講から帰って来た人たちを、講のの家族や子ども達が出迎えた場所といわれる。ここで代参者達を出迎え、飲食を共にしてにぎやかに帰途に着いたという。
 道はしばらくして、国道を横断し、脇道を進み、叉国道に出会う。すると●オフローランド美杉という、オフロード場がある。にぎやかなモーター音が聞えるかと思ったら、静かなもので、キャンピングカーが一台止っているだけで休業中。
 その先国道の左手に●鶯の水という名水が湧出ている所がある。飲めるらしいが、ちょっと止めておいた。 14:22

 ■鶯の水~不動橋
 国道途中に●「櫃坂峠」への分岐点があり、●「宗田口」の道標がある。「右 いせ 左 やま 道」と彫ってあり、本街道の案内板は両側に矢印が向いていて、どちらを行ってもいいようだが、ここは左を進み、「やま」に入る。道はこの先、国道と交わったり、離れたりしながら、基本的に「立川」に沿って、南東方向へ進んでいく。
 国道に出たり、脇に入ったりしながら段々と上って行き、●川沿いを進んだりしてゆるやかに上がって行く。
 途中、右手に「役行者」の説明板があり、30m奥に入ると石室があるというので、入って見たら、場所がわからず、そのうち、上の方から「ブオー ブオー」と変な声が聞え、これはイノシシに違いないと思って、あわてて下りた。
 やがて国道に架かる「不動橋」を渡り、松阪市に入った。すぐ先に●「多気不動尊」の祠と石燈籠が立っている。  15:05

 ■不動橋~櫃坂峠
 少しばかりスルスルと上がって行くと●「櫃坂峠」の頂上に近付いて来た。奈良側から行くと、峠という割にはゆるい坂で頂上に上がってしまった。この辺りは「峠集落」と呼び、伊勢街道の一大拠点として茶屋や旅籠が軒を並べていたといわれていた。ところが、人口減少が進み、昭和50年にはとうとう廃村になってしまった。家は何軒も建っているのだけど、廃屋なのだろうか。 人が住んでいるような感じも見受けられるけど。
 左へ行くのが「櫃坂道」。右へ行くのが「古坂道」である。ここは当然、左へ進む。少し先に● 櫃坂道への分岐点が見えてくる。ここを右に入って、●峠道を下って行く。下りは14.5丁、1500m程である。この道は「櫃坂道新坂」というらしく、元々の櫃坂道は「古坂道」で、新坂は江戸以降、伊勢街道として開かれた。そして平成の砂防工事で江戸時代の道は廃道になっている箇所が多いと案内板に書いてある。 櫃坂もかなりの難所で、急勾配が続くが、下りだけなので助かった。伊勢側から上がるとなると、かなり辛いことだろうと思う。 15:15

 ■櫃坂峠~子安地蔵
 5丁とか3丁の表示板を見ながら下ってくると●「坂の下」の集落に出た。この集落は明治に現在の国道368号の前身「仁柿峠新道」ができてから増えた家が多いといわれる。
 国道に合流して進むと、「吹ケ野」という地区で、国道の道幅も2車線になった。国道との分岐があるので左に進み、少し進むと、●髙福寺へ至る参道が左手に続いている。真ん中に道標が立っていて、「右 いせ宮川へ九り」と刻まれている。神宮手前の宮川まで36km程に近づいたわけだ。
 さらに進むと左手に●崖を上がる石段があり、そこに●子安地蔵の石碑が立っている。天保5年のもの。子安地蔵はこの石段を上がった所にある。   16:12

 ■子安地蔵~長瀬
  「仁柿小学校」を過ぎた、左手に●「弘法大師の水」●「長瀬不動尊・弘法大師の御堂」、「常夜燈」2基が並んで立っている。弘法大師の御堂の中に2基の一石五輪塔が安置されている。
 その先で、●国道は大きく右へ曲っている。左手の木の陰に、自然石に●「南無阿弥陀仏」と刻まれた供養塔が立っている。
 16:23

 ■長瀬~下仁柿
 ●下仁柿の集落にやって来た。このあたり道も広く、家の数も多くなっている。しかし右手に●「熊出没注意」の看板が出ていた。こんな通行の多い所に「熊出没」とは、これいかに!という感じ。なんなのだろう。
 国道を進み、右手に木材工場が見える所を右に曲ると、●大きな常夜燈が立っている。「両宮献燈」と刻まれ、。明治初期の
もの。ここから国道をはなれて、●田んぼのあぜ道を進む。    16:40

 ■下仁柿~柿野神社
 道が左折して行く角に小さな●庚申堂があって、中に2体の庚申像が安置してある。脇に「行悦の道標」もあった。左折して行くと、●仁柿川沿いの道になる。三重県のマップでは平成24年3月現在では通行止ということになっていたが、そういうこともなく無事に通行できた。このあたり古い屋号の家なみが続き、大黒屋、紺屋、角屋、などのの屋号が残ってるということだったが、あまり確認できなかった。 川沿いを真っ直ぐ進み、国道に出た。国道から左へ折れ、●横野の集落に入っていく。   16:56

  ●柿野神社が左手に見えてくる。一段髙い所に拝殿と神明造の社殿がある。昔からこの境内には南天が多く自生していたため、南天の宮と呼ばれていた。 さて、午後5時に神社に着いた。今日の目標はこの神社までで、明るい内に着いて良かった。伊勢奥津駅が12時32分で、4時間半あまりで16km程を踏破したことになる。峠が2つあり、間に合うかと思っていたけど、案外大したことはなかった。ここから日帰りで帰るには無駄が多いので、バスで松坂へ出て、宿泊して明日出直すことにした。バスの時間まであたりを見て回った。●櫛田川の景観が珍しい。水の色は青く、巨岩や奇岩が眺められた。     17:15