古代東海道跡を歩く 歩行地図はこちら  
 墨堤通-四つ木橋-奥戸-立石-京成小岩-江戸川土手-国府台-国分寺-京成市川 16.4km

古代東海道
 延喜式における武蔵最後の駅である豊島駅は谷中墓地に比定される。(続日本紀では浅草附近とされているが別物であるという)そこから真っ直ぐ下総国最初の駅である井上駅まで明瞭に道路が残っている。それが古代東海道の痕跡とされているのでここを歩いてみる。
 谷中から墨田区内、都立産業技術高専附近までは交通混雑地帯で真っ直ぐな道が残っておらず歩くことは不可能である。隅田川を渡った、墨堤通からは江戸川までかなり明瞭に残っているので歩くことができます。

2006.9.10 晴れ ※ 写真をクリックすると拡大します
■出発点
 
 最初は墨堤通の、墨田区墨田2-7、附近です。入口は5m程度の道でわかりにくい。通りの向い側にはえらく長大な団地群が広がっている。ここは団地を都の防火地帯代わりするというすごい設備で屋上には水タンクと消火銃が乗っている。道を少し入ると墨田第二郵便局が見える。そこを目印に入ってゆく。

■鐘淵駅
3分程で東武線鐘淵駅を通過する。踏切を渡り真っ直ぐ進むと荒川土手に出る。荒川は大正、昭和にかけて掘られた人工河川であるので、昔は当然存在しない。今はすぐ下流の四つ木橋を渡るしかない。土手の上を歩く。河原敷では草野球が盛ん。

■東海道の始め
  橋を渡りすぐ左折しする。すぐ見える右折方向の細い道が古代の東海道である。ここを歩くが一車線もない全くの生活道路である。ほぼ東方向へ真っ直ぐ伸びている。途中で12m程度の幅となるが交通量も増えてくる

奥戸街道
京成押上線踏切を渡り、奥戸街道となる。京成立石駅を過ぎる。手前に立石仲見世などという横町もある。最近はあまりこういう横町もあまり見ない。やがて中川の本奥戸橋へぶつかる。中川も江戸幕府の利根川東漸事業に源を発して川筋を変えてきた川なので古代ではあっても小川程度ではないと考えられます。(古代は多摩川は河瀬川、隅田川は住田川、江戸川は太日川と呼ばれ渡船によった。)

■子育地蔵尊
橋の左縁に地蔵が建っている。左隣に馬頭観音、江戸時代の道標もある。馬頭観音は安政5年(1855年)のもの。 道標は宝暦5年(1755年)のもの。旧道は左へ曲がって奥戸橋の方へ行く。
■立石
途中左側の児童公園のなかに立石の碑がある。標識には立石の地名の語源の石とあり、東海道のことには言及されていない。元々立石というのは街道の横に置かれた石のことをいう。各地に立石という地名は多い。立石、大道、大路とかの地名は古代の街道を探す目安になると言われます。

■三和橋
 奥戸橋を渡り、環状7号線交差点をまっすぐ通過する。新中川に掛る三和橋を渡るが、この川も昔には存在しない。道は普通の道路で真っ直ぐ進む。9月というのにえらく暑くライフストアで少し涼む。

■京成小岩駅踏切
踏切をすぎ住宅街をすぎていくと住宅街となり、やがて真光院に突き当たる。すぐ裏は江戸川土手である。ここで東海道の痕跡はなくなるので歩き旅も終りとなる。墨堤通から9km位。  江戸川の対岸は市川市国府台である。下総国府のあった場所で史跡の多い所である。対岸に渡り国府台を歩いてみる。

■市川関所跡
 下流の市川橋を渡り左側土手の上には市川関所跡碑があり、ここらあたりが井上駅があったらしいと説明板にあった。(写真は回りに数人の人がおり、弁当など食べていて撮れなかったので市川市観光協会のもの
  国衙は野球場付近に、土器類などは和洋学園、千葉商科大内から出たと言われるが大学構内なので立入ることができない。

■総社跡
 古代国司は国内の寺社の参拝と管理をする必要があるが、実際に神社を全て回って歩くことは困難であるので、国府の近くに有力な神を合祀した総社を作り、これを参拝することで全ての神社を回ったことにするという、便法として総社というものが造られた。大体国府の近くに作られた。ここの総社は運動公園が跡地ということで碑と案内板が公園の中に立っていた。
■下総国分寺跡
 公園から東方向に、といっても市川というところは細い道が多く詳しい地図がないとよくわからないが探し出した。聖武天皇の「国分寺建立の詔」によって建立された国分僧寺跡で、今は往時を模した山門が建てられ、当時の礎石が残されている。

■真間手古奈霊堂
 万葉集などに登場する「手児奈」を祀るのが、ここ手児奈霊堂。「手児奈伝説・・・・葛飾・真間に美しい娘・手児奈が住んでいた。毎日、真間の井に水を汲みに来る姿を見かけた村の若者たちは、次々に手児奈に求愛。しかし手児奈は競い合う若者たちの中から一人を選ぶことが出来ず、思い悩んだ末、真間の入江に入水してしまいました。手児奈を偲ぶ歌が『万葉集』に詠まれています」・・・・。(千葉情報館より) 霊堂は弘法寺の中にあり、寺は手児奈の霊を慰めるために天平9年(737年)に行基により「求法寺」として建立されたとされている。ここから京成真間駅まで歩き帰宅した。総キロ 16.4km