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足助街道を歩く (東岡崎~足助) |
歩行地図はこちら 地図 |
本町3丁目-伊賀八幡-大樹寺-於御所-北斗台-巴新橋-松平橋-幸海-霧山-則定-中切-足助 29.1km |
足助街道(中馬街道) 江戸時代、五街道などでは馬による物資運搬は宿場毎に馬及び荷物の付け替えが必要で、能率が悪かった。一方、信州、飯田を中心に乗り継ぎをせず、付け通して運搬する「中馬」と呼ばれる方式が発達して、信州と尾張、三河、遠州などの町を通しで運び、その通る道を「中馬街道」などと呼んだ。又三河、遠州などからは主として塩が運ばれたので「塩の道」とも呼ばれていた。 代表的な道としては 1 名古屋から根羽を経由して飯田方面へ行く 「飯田街道。飯田からは三州街道と呼ばれた。 2 根羽で分岐して南に向かい、上津具、新城を経由して 豊橋へ至る「伊那街道」。 新城から豊川の舟運を利用して豊橋へ至る。 3 飯田から新野峠を越えて東栄町を経て新城に至り さらに浜松へ至る 別所街道。金指街道とも呼ばれる その外遠州から信州へ至る道など多数あります。 特に岡崎から足助に至る道は「足助街道」 と呼ばれ、今回は「足助街道」を歩きます。 資料 「愛知歴史の道調査報告書 8 飯田 足助街道」 愛知県教育委員会 |
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2018年7月10日 ※ 写真をクリックすると拡大します ■本町3丁目~善入院 東海道新幹線で「豊橋」乗換、名鉄特急で「東岡崎」10時36分到着。 出発点となる「本町3丁目」に向かう前に、調査書に書かれている、高さ124㎝という信濃門の道標石柱の移設先の「伝馬通3丁目」に向かい、あたりを探してみましたが、全く見当たりませんでした。 というわけで●本町3丁目交差点が足助街道の出発点になります。ここが足助街道と東海道との分岐点で、信濃門の道標石柱はここに置かれ「左 京みち 右 江戸道 左 信州道」などと彫られていたようです。 足助街道は信州に至ることから「信州道」、「善光寺道」などとも呼ばれ、三河湾から矢作川を遡って運ばれた塩を岡崎で馬の背に積み替えて運んだ道と云われます。 交差点の右角に●晴明社がある。平安時代、安倍晴明がこの地で居を構え、陰陽術を伝えたという所。 続いて交差点を北上してすぐ、右へ曲がって行くと、「甲山公園」があり、甲山頂上付近に●甲山第一号墳」という古墳があります。古墳時代中期の円墳で直径60m、高さ7m、周囲から埴輪片、直刀1振りが見つかっているという。 「能見通」へ戻ってすぐ先、左側に●善入院というお寺がありました。「油掛地蔵尊」というのが珍しく、寄ってみました。詳しい由緒はこちら 11:45 |
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★足助の町並 飯田(三州)街道の足助宿として、又塩の中継地として栄えた。町並は足助川を挟んで両岸にあり、約2km程続いている。安永4年(1775)に大火があって、以後塗り籠め造りのの家が建てられ、妻入り、平入りと変化に富んだ町並が形成された。明治以後中央線開通と共に宿場機能としても物資輸送の中継地としての機能は失われている。平成23年、愛知県で初めての国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。 巴橋を渡ってすぐの常夜燈の所を左へ曲がって「西町」から足助の町へ入ります。 一つ目の角を右へ曲がると●足助の古い町並みの中に入ります。 左手に●玉田屋。江戸から現在まで旅館業をやっているという。 その先 ●弘化2年(1845)の道標が立ち、「右ほうらいじ道 左ぜんこうじ道」と彫られています。 左へ曲がって中橋を渡り右折すると●マンリン書店、中馬館隣の●足助牛乳店など見所に事欠来ませんが、全部紹介する訳にもいかないので 「足助観光協会」のサイトを見ていただきたいと思います。 お土産に「塩の道づれ家」でお塩を買い、足助の紹介看板もありました。 香嵐渓発の岡崎行きのバスで帰宅しました。 かなり暑かったです。 |
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