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柳生街道を歩く | 歩行地図はこちら 地図 |
柳生-芳徳寺-一刀石-徳政碑-南明寺-大柳生-円成寺-誓多林-石切峠-地獄谷-滝坂道入口 19.8km |
柳生街道 奈良、高畑から石切峠を越え、忍辱山から柳生に至る道を柳生街道という。平安時代から修験者道としてすでにあり、江戸時代は柳生一族をはじめ荒木又右衛門、沢庵和尚など歴史上に名を残す人たちが使用した道といわれる。 柳生街道を二つに分けると前半は奈良~円成寺までの「滝坂道」というコース。後半は円成寺~柳生までの「剣豪コース」とがある。全体が「東海道自然歩道」に指定され、道標に従って歩く事ができる。 参考資料 「近鉄てくてくまっぷ柳生街道剣豪の里コース・滝坂の道コース」 「街道・古道を歩く 西日本編」(山と渓谷社) |
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![]() ![]() 昭和55年山岡荘八氏の遺志により遺族山岡賢二氏夫妻から奈良市へ寄贈された。奈良市はこれを修復し、一般に公開している。見学料が350円で、見ることもないと思ってパスした。 9:27 |
![]() ![]() ●柳生陣屋跡は階段を上った先にある。公園になっており、桜がまだ咲いていたけど、説明が立っているだけで、特になにもない。ただ高台に位置して、ここから柳生の里が一望することができる。 階段を下って、芳徳寺へ向う。正木坂という坂を上らないといけない。●芳徳寺は、寛永15年(1638)柳生宗矩宗矩が父の石舟斎宗厳の菩提を弔うため創建されたと伝えられる。 |
![]() ![]() 本堂裏手に●柳生家藩主・柳生氏一族代々の墓が80基ほど並んでいる。 10:05 |
![]() ![]() そのまま寺の方へは戻らず、途中で左折して、疱瘡地蔵がある方向へ向った。途中に●炭焼小屋があり、珍しいと思って撮っておいた。 その先で国道へ出たが、方向がちょっとわからなくなって、川の向うの民家の横に道標があった。良く確認すると、民家の裏側を行く細い道が柳生街道と書いてあった。そこからがいよいよ柳生街道らしい。しかし民家の裏道が街道とは驚いた。 10:40 |
![]() ![]() 裏道から本格的な山道に入っていく。 少し行くと右手に自然石に彫られた●疱瘡地蔵というのががある。横に「正長元年柳生徳政碑」という説明板があり。それによると・・・元応元年 (1319)の銘をもつ疱瘡地蔵の向って右下、長方形の枠取りの中に、「正長元年ヨリ/サキ者カンヘ四カン カウニ ヲヰメアル/ヘカラス」と刻まれていて、これは正長徳政一揆を表すものだそうだ。ということで地蔵をじっくり眺めたが、どこに刻まれているのやら、さっぱりわからなかった。地蔵の先はずっと上り坂で、石畳などがあり、気持のよい山道だった。突然展望が開けて前方に集落が見える。地図で探すと●阪原という集落ではないかと思う。 11:15 |
![]() ![]() やがて、青少年野外活動センターの脇に出て、そこから再び●山道に入って行く。 また視界が開け、前方に大柳生の集落が開けている。 集落の中を歩くけど、道が時々わからなくなり、道標を探すが、あたりになかったりすることがあり、ちょと右往左往することがあった。 ●民家の脇を通るのが街道で、これなど地図ではわからないでしょう。 11:50 |
![]() ![]() ●忍辱山(にんにくせん)円成寺(えんじょうじ) 街道きっての古刹で、、天平勝宝8年(756)の創建といわれるが確かではなさそう。仏師・運慶のもっとも初期の作品である国宝・大日如来像を所蔵する。大日如来像は多宝塔に安置されており、撮影禁止。 桧皮葺きの楼門、舞台付寝殿造りの阿弥陀堂(本堂)は共に重要文化財の遺構であり、妻入の形は珍しい。 江戸時代は子院23か寺を有するほどであったが、明治の廃仏毀釈による混乱により衰え、現在に至る。 12:45 |
![]() ![]() 地蔵の所を通る石畳が敷かれた道は、●「滝坂道」と呼ばれ、江戸時代中期に奈良奉行により敷かれた。昭和のはじめまで柳生方面から奈良へ米や薪炭を牛馬の背にくくりつけて下り、日用品を積んで帰っていくのに使われたという。 ここを左折して奈良方面へ向う。もうすぐゴールとなる。この石畳の道は案外滑りやすく危険で下を向いて歩かないと、踏外して捻挫しやすい。やがて●朝日観音が川の向うに見えて来る。中央の仏は観音ではなく弥靭仏 左右は地蔵仏でだそう。この石窟には文永二年(1265)の銘があり、鎌倉時代の石彫の代表的なもので、この下の夕日観音と同じ作者と思われています。「寝仏」というものもあったけど、「標識」の目の前の石と思えど、いくら凝視しても仏が刻まれているとは思えなかった。仏は裏側に彫られているそうで、わからなかったはず。 15:21 |
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