012 築館宿から有壁宿へ        歩行地図
 築館宿-宮野-城生野-築館荒瀬-築館姉歯-沢辺-金成-夜盗坂-若柳旧道-新鹿野-十万坂-有壁 21.40km

2019年9月26日
■築館薬師4~築館藤木
 奥州街道も4日目。 本日は築館から一ノ関駅まで行きたいと思いながら、おろしたての靴が硬く、豆は毎日できて、寝る前に針を刺して、潰しながら、また親指の爪が痛み、しかし有壁まで行かないと帰れないので、そこまではがんばろうと思います
 ホテルを8時に出て元の十字路に戻り北上します。●緩やかに下って行くと、築館宿を出ます。 ●宮城県栗原合同庁舎」の北側で、左前方の旧道へ進みます。 昔はすぐ右に折れ、真っ直ぐ延び、一迫川を渡っていたようだが、今は●民家があって進めないので、民家前を右へ進み、国道4号に合流します。 留場橋を渡り、すぐ左折して旧道に向かい、左手の一迫川の●旧道が渡って来た付近を見る。  8:30

■築館藤木~宮野交差点
。 すぐ先の●三叉路を右折しますが、左手に「奥州街道」の案内標識が立っていたのはすばらしい。 左に●運遖(読み方不明)神社。 突き当たって右へ曲がって、道なりに行くと●国道4号に合流します。 
 その先、●宮野交差点で国道4号線は右へ折れ、 旧道は左側の県道42号線に入ります。 ※遖=JISコード6E28 8:42 

■宮野交差点~国道4号
 宮野郵便局先の交差点を右折すると「宮野宿」に入ります。 左の●きつめの石段を上がると●皇大神社があります。 遙か昔の第3代安寧天皇の皇子「迫子皇子」がこの地に降臨し村里を開き、宮殿を営み、郷の名前を「迫」と称し、第5代孝昭天皇の時代に皇大神社を観請したと伝えられている。 古社ではあるけど社殿は平成7年のものとか。
 ●宮野宿の町並。 文政年間(1818~)の家数は約100軒と大きいが、仙台藩が代官所を置き、神社の東隣にある宮野幼稚園がその跡といわれます。 真ん中あたりの左手に●宮野検断屋敷跡があって、入り口に「中世大崎古文書」と書かれた白い標識が立っています。  従三位中納言朝臣の寄進状(紺紙金泥)や、大崎義隆書状などの古文書が所蔵されているとのことです 8:56

52 宮野宿
 築館宿から26丁(2.6km)  下宮野宿とも呼ばれ、慶長後半から元和にかけて町が成立。文政年間の家数役100軒。 仙台藩の代官所が置かれ、宮野幼稚園の隣が代官所跡にあたる。 藤原秀衡の築城になる宮野城があった。

■国道4号~
 宿の外れ、●能持寺の先で国道4号に合流し、ホテルグランドプラザ浦島の先で●左の旧道へ曲がります。本来の旧道は奥に続いていて、右に曲がるだけど、道がなくなっているので手前を右に曲がります。 すぐ先の三叉路に●浦の沢遺跡碑が立ち、奈良、平安期の土師器、須恵器などが発掘されていますという。 
 旧道はすぐ国道に合流してしまい、すぐ又●「宮城ヤンマ-」の看板が立つ三叉路を左折して行きます。   9:15

   ~築館城生野
 田園地帯の広がる●城生野に入ります。この地は宝亀11年(780)蝦夷の族長であった、「伊治公呰麻呂(これはる の きみ あざまろ」反乱の舞台となった「伊治城」のあった地で、政庁の中心部が東の国道4号を貫き、奥州街道が西側の外郭というのでその大きさが実感できる。 呰麻呂は陸奥按察使兼鎮守副将軍の紀広純を殺害して城を奪い、多賀城も焼き討ちしたという。 桓武天皇の蝦夷征討のきっかけとなったと反乱と云われている。
 しばらくすると右手に●大仏殿参道入口」と書かれた標識があるので、参道に入って行ったのだけど、元の道に出てしまい、大仏殿の存在がわからなかった。参道の奥にでも案内板がほしいところ。
  その先、左手に●照明寺があって、入口に「伊治城とその出土品」という案内板があります。  その先右手に「出土文化財管理センター」があって、このあたりが伊治城の外郭の北辺に当たる所といい、敷地の街道沿いに●伊治城外郭北辺土塁及び大溝跡碑という標柱が立っています。   9:42 

■築館城生野~築館荒瀬
 富野小学校前で左へ折れると●田んぼの砂利道を行きます。芋埣(いもぞね)川の土手に上がり、川に架かる●赤い人道橋を渡る
 その後二迫川の土手を通ってこれ又●赤い人道橋を渡ります。
  二つの橋を越えると●広大な田圃風景が広がっている。 このあたりの旧道は橋を渡るため、変に曲がって進むので、消滅しているだと思います。 10:00

■築館荒瀬~根岸下橋・姉歯
 熊川に架かる●根岸下橋を渡ります。 親柱には両側に●●ブロンズの牛若丸像が設置されていた。 牛若丸像と云われても何の説明もないのでよくわからない感じです。 
 根岸下橋を渡り、熊川の左岸を下る。 街道脇に●根岸花街道の看板が立っています。 その先、国道手前の左手に●曹洞宗源昌山 常現寺跡の石柱があり、富佐馬佑が城主であった富城跡でもあります。   10:15

■姉歯~沢辺南
 国道4号を横断して、●半円弧状の脇道へ入ります。 三叉路脇に 「栗原市姉歯地区史跡案内」という看板が立っていて、これによると東100m姉歯横穴古墳群と近く、 あたりをうろついたけれどよくわからなかった。 後の史跡は少々遠くパスすることにしました。
 無明舎本にある「三界万霊供養塔碑」を見に、右へ折れて行くと、民家の門前に案内板と●「三界万霊供養塔碑がありました。小さい物だけど、天明飢饉の死者を供養した物で、この地方では4割の家に餓死者が出たとか。
 先で、●国道4号線と合流します。 右折して国道を進むが、旧道は国道の左側高台を進んでいるらしく消滅しています。 ただ沢辺に入ったガソリンスタンド裏手が旧道ぽいので、一応裏手に回ると集落が続いており、そちらを通りました。 その先は●信号の先の分岐を右に入ります。 本では真っ直ぐ進んで達田橋を渡り、三迫川の土手に出るようだが、街道としては不自然な感じがします。 「たつた橋」を渡ると沢辺宿です。  10:55

53 沢辺宿
 宮野宿から2里30丁(11.1km)  上町、下町からなるが、成立年代は不明。 荷の継立ては月の1~15日が沢辺宿が、16~30日が金成宿が担当した。

■沢辺南~栗原鉄道跡
 ●三迫川を越えます。 右手奥の丘陵は葛西氏の臣・二階堂氏が築いたとされる「沢辺館跡」です。 二階堂氏が正治2年(1200)衣川からこの地に移り沢辺氏を名乗ったという。
 ●沢辺の町並。 特に変わったことはありません。 右奥に●八幡神社があり宿外れになります。左に曲がると●くりはら田園鉄道線路跡が今でも残っています。2007年に廃線になったのだけど、右奥に「沢辺駅のホーム」まで残って、跡地利用は計画されていないのだろうか。11:25

■栗原鉄道跡~金成荒崎
 その先は●バス道が真っ直ぐ進むのだが、旧道は斜め左へ●栗原市金成総合支所を突っ切り、●イオンタウンも越え、国道4号の裏手へ回っているようで、その間旧道は消滅している。 疲れてきたのでイオンタウンで休憩となりました。 その後、●金成荒崎交差点を横断して旧道に復帰します。ここを横断すると金成宿です。金成宿は沢辺から1.7kmしか離れていません
 12:00 

54 金成宿
 沢辺宿から18丁(1.7km)  沢辺宿から1.7kmしか離れておらず、沢辺宿と共に奥州街道と登米街道の追分宿だったというが、金成宿の方が本宿だったという。 上町、中町、下町からなり、中町が中心だった。 

★金成宿界隈
  宿に入って、すぐ右手に●鈴木文治の生家の碑が建ってます(鈴木文治ここに生る碑)。 鈴木文治は大正から昭和にかけての政治家・労働運動家にして友愛会創始者で、日本の労働運動の草分け的存在といわれる。
 ●金成宿の町並。 金成は南から上町、中町、新町となり、本陣(菅原家)や代官所がおかれていた。特に変わりのない普通の町並です。
 中程を左折すると●金成ハリストス正教会があります。ロシア正教の教会で昭和9年に建てられた。 北側へ回ると●金成総合支所・けやき会館があり、かつて金成代官所があった所となります。  案内板  12:15 

 支所の裏に●金成歴史資料館。 風格のある木造建築で、かつての金成小学校です。 明治20年に建てられたもので、唐破風な屋根とバルコニーをもつ和洋折衷の外観が何とも美しい。 宮城県指定文化財。
 けやき会館奥に、●日枝神社があり、祭神大山昨命。拝殿は江戸末期、本殿は桃山時代から江戸初期の建築と云われます
 街道に出て、左手奥の●金成公民館は「金成宿本陣跡」(菅原家)です。 街道を先に進むと、右手に面白い建物がありました。●蔵を住宅に改装したような建物で、屋根が蔵の形をしていて面白いと思いました。  12:35

■金成~夜盗坂
  宿の外れ、国道に合流する所から戻って「新町大橋」を渡らないといけないところ、合流の手前の民家の前に、空き地らしき場所があったので、そこを通らしてもらって、大橋を渡り、●夜盗坂への道を北上します。 
 ●北東へ向きを変えるあたりから民家が少なくなり、どこからが夜盗坂なのかわからないが、段々長い上り坂になっってくるので、夜盗坂に入ったのではないかなという感じです。 ピークを過ぎて両側の緑が濃くなって左手に●熊谷牧場という牧場がありました。子牛が一頭じっとこちらを眺めています。 15分後、左へカーブする右手に●道標「奥州街道→」があって、ここから旧道の草道へ入ります。13:11

■夜盗坂~若柳
 この●●旧道の草道も、歩きやすく整備され、問題ありません。 但し入口付近、一部雨が抜けず、湿地帯のようになっていて、靴が沈みそうになって往生しました。 旧道は後でログを見ると、町の境界線を通っている感じです。 やがて東北道にぶつかり、●フェンス沿いに左へ曲がると、●県道48号に出ます。 右側に高速道のトンネルが見え、高架手前に「若柳」の標識。  この間18分   13:29

■若柳~新鹿野一里塚
 高架を潜り、少し先で、●県道左の旧道を上ります。 自動車道に沿って少し行くと、又案内標識があって、●右へ行くのが旧道になります。 10分足らずで車道に合流すると、「旧奥州街道→ 金成まで5Km」の道標が立ってました。 その先は●向かいの田んぼのあぜ道を進み、 車道に合流すると、左手に●新鹿野一里塚案内板が立っています。こんもりとした塚跡らしきものもあります。 塚は周囲33mで両側に並んでいたが、昭和初期の開墾で破壊されたといいます。    13:51

■新鹿野一里塚~十万坂
 道なりに進み、大きく北東へ向きを変え、金流川を渡り、旧道は真っ直ぐ東北新幹線方向へ水田の中を向かっていて、迂回路として橋から真っ直ぐ北上して、左手に●JA金成種子センターが見える十字路を右へ曲がります。
 新幹線手前の三叉路が●十万坂上り口です。 奥に案内板が立ってます。 ●標識に従い左へ曲がって十万坂へ向かうが、突き当たりが農家で、途中の標識を見落として、危うく入り込むところでした。 手前の標識に従い、●山道を登ります。 尚、種子センター右側を通っている舗装路は十万坂の迂回路で、明治天皇の東北行幸の際に建設された「明治道」というのだそうだ。   14:15 

■十万坂~有壁宿南門
 この山道は快適で、途中、●天保15年(1844)建立の南無妙法蓮華経寶塔、すぐ先に「奥州街道有壁宿」の上り旗があります。 10分ほどで●県道185号に合流して左折、 左から来る「明治道」と合流して右折。 有壁へ向かって進みます。
 県道に入ってから、豆が傷み出し、親指の爪が剥がれそうになりで、 下を向いてヨロヨロ歩いていたせいか、右手にあるという「明治天皇御野立所跡」を見逃した。 先の二股を左へ進み、坂を下り●有壁宿に入ります。 宿入口(南口)には「有壁宿助郷の会」という人達が作った●木戸が設けられ、往来者に対する「告知板」もあります。  15:05

55 有壁宿
 金成宿から2里3丁(8.2km)  元和5年(1619)に宿場町として整備され、有壁宿本陣を始め脇本陣、74軒にも及ぶ旅籠などがあった。松前藩、八戸藩、盛岡藩、一関藩など有壁以北の藩主が宿泊や休息に使用した。

■有壁宿南門~有壁駅
 ●有壁宿の町並。 宿としては小さく、現在でも町並は静かで人気がないが、有壁以北の藩主が宿泊したり、明治天皇の東北巡幸の際にも使われたり有力な宿場だったようだ。
  ●若柳街道踏切で東北本線を渡り、 旧道は一ノ関へ向かって真っ直ぐ進み、右手に有名な「有壁本陣」がある。 まだ3時過ぎなので一ノ関へ向かう予定のところ、足の痛みで気力が続かず、ここで断念することにしました。 県道203号を左折した右手に●天保11年(1840)創業の萩野酒造があり、本陣佐藤家の分家で脇本陣を務めていました。 左手奥に●有壁駅があります。 無人駅で1駅先が一ノ関駅。 新幹線の時間まで、市内の写真を少し撮り、食事して帰りました。 歩行距離4日間で100kmを越え暑くて大変でした。 

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