013 有壁宿から平泉へ      歩行地図
 有壁駅-有壁本陣-岩手県境-鬼死骸-一関-磐井橋-山目中里新町-佐野-平泉駅   15.75km 

2020年6月28日
■有壁駅~有壁宿本陣
 2020年3月から始まった新型コロナの影響により、県外移動が難しくなり、やっと6月19日に県外移動自粛が解除されました。3月末の雪解けあたりに来ようと思っていたけど、やっと街道歩きが再開出来ます。
 2泊3日で北上まで行きたいかなと思います。今回は平泉の名所を回ったり、有壁から少し山中を歩き、クマやマムシが出てきたりするといやなので、山女の奥方が一緒です。
 9時6分に●有壁駅に到着。天気があやしいが、早速歩き始めます。 左手の●萩野酒造は脇本陣だったと云われている所。 左折して●奥州街道・有壁宿に入ります。 右手の堂々とした旧家は●有壁宿御本陣。国指定史跡であり、江戸時代の本陣の様子をこれほど良く伝えている例は見当たらないほど素晴らしい。ただ現在も居住されていて非公開なのは残念な感じ。明治の天皇行幸の際は休止所となり、記念石柱が立っています。 説明板 9:28

■有壁本陣~肘曲がり坂
 すぐ先が有壁宿の●北木戸(出口)です。(但し振向き写真)。 その先の三叉路は左側を取り、●ゆるい坂を上がります。
しばらくすると、左手に「有壁宿」の幟が立って、案内板が立つ●「肘曲り坂」入口に到着します。説明板  林道を離れ、いよいよ奥州街道の旧道であるV字型の様な●山道へ入り込みます。この旧道は国道4号の開通などで、廃道同様になり、藪こぎを覚悟で入ります。 他の人の記録を見るとマムシが出るので注意すべしと云われたとか・・・とあるので、ガードマン代わりの奥方を前方へ出すと、「マムシは2人目に食いつくよ・・・」というのであわてて先頭に出ることに・・・。クマベルも鳴らして、山道を進みます。  9:40

■肘曲がり坂~岩手県境
 移動自粛もあって、あまり人が入っていない様に思うので、大部荒れているのではないかと思っていたけど、そうでもなく、●広めの山道に出たり、雨で多少靴がめり込んだりするので、除けてみたりして進むと、●農機具小屋の前に出ました。このあたり草地で視界が開けている。 前日まで雨の様で、草で靴がずぶずぶになると困るので、ダイソーで買った●靴カバーを装着。靴底が厚くできて丈夫そうで良い感じ。使い終わったらさっと捨てればいいので登山用のスパッツよりは簡単です。
 先に進むとやがて●岩手県との県境あたりに来ました。(GPSで確認)。立っているという「原行林」と刻まれた標石が見当たらず、右手から合流してくるという林道もヤブに消え、右手奥に「この先通行止め 岩手県」の注意板が立っているだけでした 9:57

■岩手県境~鬼死骸
 この先●轍が残る道となりますが、雑草が結構高く、1m程もあり、手でかき分けたり、時に蜘蛛の巣が顔にかかったりで、結構大変、簡単な藪こぎ状態です。 20分も歩くと、前方●ロープが張られて、通行止めになっている所へ来ます。この先が完全に廃道になって、通行不能になっている所と思います。 道は左へ続き、しかし、あたりに「県行造林 真柴事業区」とかいう看板や「保安林」の標柱などが見えない。見逃したとも思えないけど、ヤブに埋もれたか・・・。
 しばらく進むと左手、(株)ミチノクの建物が見え、●県道への出口に出ました。 ここは本来の旧道ではなく、手前の迂回路で、廃道になった本来の旧道はこの先の「三八五運送」のあたりに出るはず。
 県道の所は●鬼死骸というすごい地名で、その昔坂上田村麻呂がこの地で鬼を退治したことに由来するらしい。 10:30

■鬼死骸~的場
 三八五運送先、右路地を行くと、民家前に●助石 背骨石 兜石が並んでいる。・・・のはず。 以前は案内板があったらしいが、無くなっているので確認できないが、間違いないでしょう。 県道に戻って、的場踏切手前の左手、水田の中に●鬼石がある。田村麻呂が鬼退治で死骸を埋めた場所に大石を置いたことに由来するもので、先ほどの助石、兜石なども同じ物といいます。 旧道は手前でJRの向こう側に消えており、そこで●的場踏切を越えて残っている旧道へ向かいます。 すぐ先左手、「千葉氏宅」右隣に●明治天皇小次遺趾碑」が立ち、旧道は線路沿いに千刈田(一関市南町)へと伸びていたが、千葉氏宅先で消滅している。この為、この先の東北本線高架をくぐり、県道を進みます。 10:43

■的場~瑞泉寺
 左側に●豊吉の墓がある。天明5年(1785年)、菊池中也ら一関の医師16名が、処刑された盗賊豊吉の死体を藩から譲り受け解剖し、その霊を慰める為に建立したというもの。 説明板
 「オニキス」の向かいで●東北本線の高架を潜ると、瑞泉寺前で旧道が復活します。 左手高台には●瑞泉寺。 開山は天正年間で幾度か焼失、廃絶して、慶長の初め伊達政宗の家臣鈴木和泉守元信が中興して今日に至るという曹洞宗のお寺。 石段左に、江戸時代の医者●衣関順庵碑がある。 説明板   11:12

■瑞泉寺~祥雲寺
 瑞泉寺前からは緩やかに下りながら右カーブあたりが、かっての一関城下の南の入口に当たる「足軽屋敷町」で、「町切門」があったというが、なんの痕跡もありません。 ●南小学校で旧道が無くなるので、右へ回って国道へ出ます。
 (ちょっとの寄道)台町信号を左へ曲がり高台へ出ると、●祥雲寺・長谷観音堂へ出ます。祥雲寺へは裏口から入る形になります。祥雲寺は岩沼藩主だった田村氏が一関移封に伴って移転してきた寺で、田村家の菩提寺です。 観音堂は田村家初代宗良公母堂房姫の遺骸を祀った所に、信仰のあった千手観音を祀ったお堂であるといいます。 境内に文政11年(1828)造営の●輪転蔵(一切経堂)があり、 内陣中央に八角形の転輪経蔵を据え、このタイプでは日本最大と云われます。 中を見ることできません。
 ●本堂は新しい  11:30

■祥雲寺~迫街道追分
 また一関の算術師範役を命じられ、和算の興隆と門弟の教育に努めた●千葉胤秀の顕彰碑、藩医、建部清庵顕彰碑、浅野内匠頭長矩公供養之塔(長矩は江戸の田村藩邸で切腹した縁から)などがあります。 本堂から石段を下りて行くと、左手にちょこんと●追分の道標を兼ねた石地蔵が鎮座しています。 これはこれから向かう、迫街道と奥州街道の追分におかれていて、境内に移設されたもの。 祥雲寺の前の通りは「迫(はさま)街道」といって、宮城県栗原市を通り、岩ケ崎から岩出山へ至る街道で、芭蕉が歩いて、「芭蕉行脚の道」とも云われます。 坂を下って行くと右手に追分から移された●右ハはさま道 左ハせんだい道」と刻まれた元文元年(1735)の道標(右側の小さい方)、文政2年(1819)の「庚申塔」が置かれています。 説明板
 その先左右に分岐する所が●奥州街道(左側)と迫街道(右側)の追分です。(振り向いて撮る)。ここに先ほどの地蔵道標、追分道標が置かれていました。 11:40 

57 一関宿
 有壁宿から2里(7.9km)。古代安倍氏の勢力圏の最南拠点とも云われ、中世は葛西氏、近世は伊達氏が支配、天和2年(1682)田村氏が入部して一関藩3万石を開いた。宿場としては一関町と二関町から成り、宿駅の中心は二関町に置かれた。

■迫街道追分~地主町角
 一関市街に入る前左手に、●八幡神社があります。背後にある相殿の田村神社と合わせて一関総鎮守として知られます。坂上田村麻呂が蝦夷平定で館山(釣山公園)に陣を敷き、諏訪大社に勝利祈願したのが起源とされる。前九年の役で源頼義、義家父子が田村麻呂と同じく館山に陣を敷き、合戦の祈願をしている。 神社の背後に広がる釣山公園は一関城跡で、市街の眺めが良さそうなのだが、寄らずにすませた。
 ●一関市街に入ります。一関市は多くの偉人・先人が輩出した所で、一関藩医、建部清庵、清庵の門弟で「解体新書」を訳した、大槻 玄沢、玄沢の二男大槻 磐渓、磐渓の3男大槻 文彦(辞書「言海」の著者)、彫刻家の長沼 守敬などを出している。駅前にその●大槻三賢人像というのが建てられています。 街道は真っ直ぐ北に進み、●地主町角交差点で左折して進みます。
 12:30

■地主町角~磐井橋
 ここから先武家屋敷まで前回時間が少しあったので、撮影しておいた写真を使います。 少し先右手に入った所に●大槻 玄沢邸跡というのがあります。標柱だけが立っているだけで、説明板は消えている。
 戻った先、左手は●豪商菅原屋跡。脇に石碑が立ちます。元和から幕末期に栄えた豪商で、大飢饉では私財を投じて難民救済を行い、藩から姓「磐根」と200石を賜わり、 人々から救世商人と敬われ、ここの小路が菅原横丁と呼ばれるようになったとあります。 その先左手一帯に広がるのが●世嬉の一酒造https://sekinoichi.co.jp/  江戸から続いた豪商「熊文酒屋」の跡地に大正7年に開業している。 奥に蔵造りの建物やレンガ造りの建物が並び、趣深く、レストランや酒の民俗文化博物館などを開設している。 その先左手に●旧沼田家武家住宅があります。 幕末期の一関藩家老を勤めた沼田家の旧宅。
 世嬉の一酒造レストランでランチと地ビールを味わいました。 

■磐井橋~五代町
 磐井川手前の金森邸跡にあるのが●芭蕉二夜庵跡碑。芭蕉が曽良をを伴い奥の細道の旅で一関を訪れたのが元禄2年5月(1689)、この地で2泊した後「迫街道」で岩出山へ向かった。金森邸は明治天皇の宿にもなり、●行在所記念碑が立っている。
 碑の後ろに金森邸があったようだけど、無くなって空き地です。 
 磐井橋を渡って土手の上を右折して、段々下って行くと右手に●元禄二年五月十三日紀行碑(1689)「俳聖・・・・・(以下消えている 芭蕉紀行の道と書かれていた?)という記念碑が立つ。芭蕉は一関に宿泊して、この道を通り、日帰りで平泉を往復している。 その先に●「第29代横綱出生地 宮城山福松」碑があります。 説明板 13:15

■五代町~山目町1丁目
 県道19号を横断、県道14号を北上。左手に●配志和神社鳥居が見えます。神社自体は西方500m以上の所に鎮座しているのでとても寄れないが、日本武尊を祀ったのが始まりとされる式内社。 鳥居左の標石は道標を兼ねているが、古くて読めません。道路右手に●延命地蔵堂。 ●山目宿に入ります。宿の詳細はよくわからず、「五街道細見」には文政期以後宿指定とあるので、新しい宿場らしい。 宿、半ばで気仙沼方面への今泉街道が分岐します。 佐藤医院の少し手前に●史跡標柱「山目宿問屋・旧上町」の標柱が立ち、問屋場の跡でしょう。  13:35

58 山目宿
 文政期以後の宿駅指定らしく、一関からの距離不明山目町と中里村とで成り立ち、山目町の長さ7丁25間。家数195、しかし中里村山目に宿駅が置かれた。右手に気仙沼方面の今泉街道(棚瀬街道)が分岐していた。

■山目町~山目町3丁目
 右手に●連子格子の古民家が一軒。家の前に赤い線が入った看板に「カスリン台風洪水位(昭和22年9月16日)」と書かれている。 今これを書いているのは2020年7月9日。ここ一週間の集中豪雨で九州球磨川が氾濫し、球磨村では5m位の水位になったということだ。この家の2階まで水没するのではないか。 県道14号を越えた、右手路地入口に「史蹟標柱 気仙との交通路 旧今泉街道入口(横町)碑が立って、今泉街道が分岐している。 入口左手に●風情のある旧家が建っています。
 その先、右手中里公民館前に●「史跡標柱「照井堰改修の先駆者・柏原清左衛門末裔屋敷跡」と書かれた標柱があり、更にその先、●「史跡標柱 金山奉行の足軽居住・旧久賀町」と書かれた白い標柱があります。山目にはこのような標柱があちこち見られるが、標柱には題名以外何も説明がないので、脇にちょっとでも説明が書かれていると良いと思いました。 13:50 

■山目3丁目~平泉・佐野
 やがて龍沢寺 先で左へ曲がって行く。いわゆる●枡形で宿の北の出口にあたるでしょう。 枡形を出た先、左手に●少名彦神社があって、「屋根改修工事安全祈願祭」と名付けた奉納踊りをやっていました。さすがに屋根瓦が崩れ、荒れ果てています。
珍しいので動画を撮り、写真をクリックすると動画が再生します。.mp4形式少名彦命を祀るのはあまり見ません。参道口左に標石と、●「史跡 常世の穀霊 少名彦神社」と書かれた、標柱が立ちます。 やがて●平泉町へ入ります。このあたりでは道路のやや右手が街道ルートで一里塚や並木があったが、東北本線で失われたそうです。 道はゆるやかに左へ曲がり、東北線と離れて行き、「川屋敷バス停」の所で右へ分岐し、●旧道に沿った佐野集落へ入ります。 14:50

■佐野~平泉駅
  10分足らずで旧道は●国道に合流し、左手に●八坂神社があります。毛越寺の南方鎮守として当初「祇園社」として祀られ、明治以後「八坂神社」と改称している。毛越寺の飛地として特別史跡に登録。
 ●太田川を渡り、右手に分岐すると●平泉駅に至ります。 街道は駅の先で踏切を渡り、無量光院跡脇を通って行くことになりますが、本日はここで終わることにして、宿は平泉温泉・ホテル武蔵坊ですので、毛越寺を見て回ることにしました。15:30

■平泉駅~観自在王院跡
 ●駅前通りから西へ進むと、右手に●観自在王院跡の広大な空き地が残されています。藤原基衡の妻が建設した寺院跡で、後方樹木の中は「旧観自在王院庭園」で、池が広がっている。1573年に焼失し、17世紀以後水田となっていたそうです。
説明板

■毛越寺
 観自在王院跡の隣が●毛越寺。寺伝によると850年(嘉祥3)、中尊寺と同年に円仁(慈覚大師)が創建。大火で焼失後基衡夫妻、秀衡が壮大な伽藍を再興した。その後幾多の変遷を経て、ほとんど焼失したりして、江戸期には水田化されたようです。 現在の伽藍は ●大泉が池の南側にこじんまりとまとまり、寺院跡は池の北側に保存良く残されているという。 
 説明が大変なので、 毛越寺HP(https://www.motsuji.or.jp/にて  境内に伽藍原図が掲げられています。また●芭蕉の「夏草」の句碑もありました。・・・夏草や兵どもが夢のあと

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