017 花巻宿から日詰宿へ      歩行地図
 花巻市役所-三の丸-花巻城-四日市-宮野目-石鳥谷-大渕-南日詰-桜町-日詰中心部-紫波中央   23.1km 

2020年8月28日
■花巻市役所前~三の丸公園
 本日も暑く、昨日は熱中症による足のけいれんでえらい目に遭いましたが、回復しきらず、ホテルから市役所まで700mほど、ゆるゆると向かいます。経口補水液2本、けいれん用錠剤など買い増しておきました。
 花巻市役所の前は●花巻城大手門跡で、 花巻城の正面入口だった。奥に●花巻城の時鐘がある。 正保3年(1646年)、盛岡城の時鐘として作ったのだが、小さいので花巻城に移されたもの。 又宮澤賢治が入学した●花城尋常小学校(現花巻小)跡地でもあり、学制改革で花巻小学校に名前が変わり、花巻城の二の丸跡に当たる現在の場所に移ります。
 市役所前から南東に下る●「ひゃっこ坂」は、藩政時代、花巻城の諸士であった「中小路」(現仲町)から「大手御門口」に通じる登上坂でした。 坂名の由来は坂下の蕎麦屋が城代に献上する為、泉で冷えたひゃっこい蕎麦を運んだ、又、夏でも鬱蒼とした樹林で、ひゃっこい坂だったなどの説があるようです。   8:20

★三の丸公園
 「ひやっこ坂」から東へ、三の丸公園に向かいます。下った先、公園の中に●円寿観音堂が建っていて、当国三十三観音第25番札所、花巻七観音参りの一つとして賑わっていたとか。 明治の神仏分離で本堂は三獄神社(西宮野目、花巻北髙の北部)の拝殿として移築されたという。公園に花巻城の案内図が立っていました。
 公園右手の鳥居は●鳥谷崎神社の鳥居。石段の参道が続く。左の坂は円城寺坂という。上りきった奥に●鳥谷崎神社の社殿があります。創建不祥だが、正和2年(1313)に社殿が再建された記録があるとか。 天文5年(1536)城主稗田氏が、花巻城内の鳥谷崎神社 稲荷神社 八幡神社の三社を合祀し、鳥谷崎座三柱神社に改称した。 左隣に建つ●円城寺門は南部利直が慶長19年(1614)二子城大手門(現北上市)を引き上げ、花巻城搦手門(裏門)として円城寺坂上に移されたもの。案内板
8:35

■三の丸公園~武徳殿
 神社前から左(通称・舘小路)へ進むと、市立体育館手前左手に●花巻祭りと屋形山車庫が建っています。案内板 花巻まつりは、花巻を開町した城主北信愛(松斎)が、出陣の際に観音様を祀り、戦勝祈願したのが起源というもので、山車は高さ13mというので、案内板の写真で見るしかありません。 右手に●花巻城内伊藤家住宅があるが、改修中でありました。伊藤家は代々100石程度の中級諸士居宅の典型的間取りということです。 
 体育館前を右折して行った先、変則十字路交差点、左手一帯は●藩学校「城内藩学校揆奮場跡」です。いわゆる藩学校の跡。 真ん中の道を進んで、花巻幼稚園の回りに、●花巻城土塁跡が残ります。  8:45

■武徳殿~花巻城址
 グラウンド東側の武徳殿は●御囲殻御蔵(年貢を収納する土蔵)跡で、玄関脇に「鶴陰碑」という碑が立って、江戸中期から明治初期にかけて、諸学や諸芸(儒学 兵学 武技 書画 俳諧等)に卓越した194名の名を刻む。
 花巻小学校グランド前に●御役屋跡の碑が立って、グランドは二ノ丸があった所。 学校の壁に●賢治のシルエット像」があって、賢治が偲ばれます。 グランド左脇から城内に入って● 内堀に架かる石橋「雲井橋」を渡ります。 8:50

★花巻城址
 運動場北側は●内堀が少し残っている。左手に●長屋前御門跡。その先は●御長屋跡。 藩主が使用する●西御門(二層枡形脇櫓門)で、平成4年に花巻開町400年記念で復元した門)をくぐって花巻城へ入ります。 8:52

 西御門を入ると、●本丸跡です。かなり広い緑地になっていて、回りに土塁跡が残ってます。花巻城は古くは「鳥谷ヶ崎城」と呼ばれていた。花巻城の歴史  ここの地は前九年の役の安倍頼時の城柵と伝えられている。秀吉の奥州仕置によって浅野長政が入部、その後、南部氏が城主となっている。
 城門を出て、左カーブした坂を下りて行くと●早坂御門跡碑があって、一日市町や四日市町へ抜ける参勤交代の時に使われた公道の門だったそうです。   9:00

63 花巻宿
 黒沢尻宿から3里23丁(14.16km)。藩領南端に位置し、伊達領と接することから軍事的に重要視され、南部氏代官北秀愛を城代として南方の要としました宿場は一日町に作られ、御仮屋(本陣)や旅籠、制札場が置かれた

■城址~四日町1丁目
 県道297号を右折して進むところ、左折した先に●瑞興寺。応永4年(1397)稗貫氏の開基になる。境内に藩学校揆奮場を開設した、松川滋安などの墓がある。右折すると●一日市町となり、花巻宿の中心部となります。 ここに、本陣や旅籠、制札場があったというが、面影はありません。 花巻城下の町人町の中心で、城代の北松斎が四日町、川口町(旧八日市)と この一日市町の「花巻三町」を開き、定期市が開かれた。
  花巻信用金庫の角を左折、●すぐ先の細道を右折。花巻城を出てから、右へ左へと曲がって行くのは、城下町特有の「かぎ型道」と思います。 少し行くと左手広場前に●明治天皇御聖跡碑が立つ。隣に「花巻城下町発祥地 四日町 一日市町」の標柱も立って、 花巻城下が開かれる以前は、四日町に僅かに田屋(農家)が数軒、浄土宗広隆寺(四日町)や曹洞宗瑞興寺(一日市町)があるだけの寒村でした・・という説明もある。説明板 (この先新旧2ルートに別れる)
 この突き当りは右折して県道に合流するが、 この先、進むのは二つのルートがあって、一つはここを直進し、光林寺横を通り石鳥谷の西を抜ける古いルート(旧道)と、もう一つは江戸中期以降、盛岡藩によって、花巻空港西側を直進する新しいルート(新道)であり、二つのルートは志波町南詰付近で合流します。ここから先は新道を進むこととします。旧道の方はここから直進することになるが、今は住宅が建ってできません。  9:35

■四日町1丁目~浅沢・旧道分岐
 突き当たりを右に曲がって、元の県道に戻って左折して進みます。左手に●創業天保元年の「赤藤」というお店。仕出し料理屋さんのようです。 その先●千本格子が美しい「町屋」が1軒。 その先、●四日町3丁目交差点を右折します。左を行くと旧道のルートが一部、復活しているようなので行ってみます。 ここを左折、「ファミリーマート」を右折して「本館橋」を渡る・・・・というところ、工事で通行止めなので鳥海神社の方から迂回して行くと、●「浅沢のみちしるべ」という追分け石が立っています。「右は松林寺」、「左はゆみち」と彫られ、ゆみちとは花巻温泉のことを指すらしいです。  9:54

■四日町3丁目交差点~宮野目
  四日町3丁目の交差点を右折して、しばらく進むと●四日町交差点とぶつかります。このあたりが花巻宿の出口付近で、木戸があったところらしいです。 ここを左折して●県道298号を北上することになる。  ここから紫波町まで、江戸時代盛岡藩が新道を開いた際、提灯の明かりで真っ直ぐな道路線形を測ったといわれる道が続き、松並木も見事に整備され、藩領内で最も代表的な街道景観だったといいます。並木はほとんど残っていませんが、長い直線は現在に受け継がれています、しかし単調な直線道なのでかえって疲れますね。 枇杷沢(びわさわ)川に架かる橋を渡り、 JR釜石線のガードをくぐり、●瀬川に架かる瀬川橋を渡る。 正面に釜石自動車道が見えてきて、大きな交差点で国道4号に合流します。左手「金婚亭」というレストランの前に●宮野目一里塚(復元)があります。 説明板   10:50

■宮野目~石鳥谷森林
 右側に花巻空港が続きます、てっきり国道脇にターミナルビルがあると思い、そこで一休みと思ったら、ビルは空港東側に移転し、こちら側には観光協会や国際交流事務所が入り、自動販売機くらいしかなかった。ま しばし休憩できたけど。
 空港はずれ、●花巻空港駅口交差点に来ました。 左へ行くと花巻空港駅がある。 左手に●新旧二つの追分碑が並べて建っている。右側が享保9年(1724)の「享保の追分碑」で、「右ハはやつ祢みち、左ハもりおかみち」と刻まれている。元は道路の右側に置かれていたので、左右は逆になっている。 左側の背の高い方は明治の「追分碑」で、東正面に「土佛観世音道」と刻まれている。 土佛観世音は石鳥谷大興寺にあり、参道は消えているという。説明板
 石鳥谷に入って、「塚の根バス停」の所に●「岩手県指定史蹟 江曽一里塚碑」と「明治天皇江曽御小休所碑」が建って、●江曽一里塚が東側一基残されています。 12:30

■石鳥谷森林~中寺林
 塚の先に●天保8年(1837)村人達が街道筋の行路病死者を哀れみ建立した「餓死供養碑」があります。元禄(1688~703)、宝暦(1751~62)、天明(1781~88)、天保(1830~43)期の大飢饉は盛岡藩四大飢饉と云われた。天明期の飢饉では多くの餓死者の死骸が一里塚の下辺りに埋葬されたと伝わっています。説明板
 道路を渡った先林の手前に●小森林館跡の説明板が立ってます。中世に稗貫(ひえぬき)郡を統治した稗貫氏の家臣・小森林氏の館跡と伝えられている。 説明板 
 その先左手に●逆ヒバという古木が立っています。1200年ほど前に弘法大師が諸国巡行の際、この地を訪れ湧き水で喉を潤そうとして休憩した。逆ヒバは、その時、地面に挿した杖が根付いたものとのこと。逆ヒバは幹が太くなってもその根元の方が細いため逆ヒバという名前がついたとのこと。
 耳取川を渡り、その先、●「石鳥谷BP南口」交差点で国道4号は左に曲がって行き、旧道は直進します。 13:15

■中寺林~石鳥谷駅前
 ●八幡町に入ります。 石鳥谷保健センターを過ぎた、右手に●杉に山桜が寄生した珍しい「銘木 杉生桜」が立ってます。奥州街道の路線変更があった明暦4年(1658年)頃に植えられたもの。上部が切られている。
 (ここで少し寄り道) 旧道の方に残っているという「好地旧一里塚」を見る為、左手の方に寄り道します。 駅の南側にある高架橋で東北本線を越え、 石鳥谷小学校の西側、国道4号との間に、街道改修前(旧道)の方の●「好地旧一里塚」が残っています。
 
説明板 
 街道に戻って先に進むと、右手に●石鳥谷肥料相談所跡の案内板が立ちます。後ろの建物には「石鳥谷・宮沢賢治塚の根」という看板が架かっています。昭和3年にここで宮沢賢治による肥料相談所が開設された。 肥料相談所の向い側に新道の方の「好地一里塚」があったようです。  14:55

64 石鳥谷宿
 花巻宿から2里(7.84km)。仙台側から下町、中町、上町と分かれている。花巻から次の日詰郡山まで約4里と間隔が長いのでほぼ中間の石鳥谷に宿場が設けられた。 宿場内は面影が無いが、旧道、新道に一里塚跡が残る。古くから酒造りが盛んで、杜氏の技量は越後、丹波と並んで日本三大杜氏として並び称された。

■石鳥谷~大渕
 ●石鳥谷宿の町並。稗貫氏支配の町で、宿の面影はないが、賢治由来の旧蹟、一里塚跡などが残っている。現在は花巻市に属します。 街道左手に●菊の司酒造があります。 菊の司酒造は安永元年(1772)創業の老舗で、 銘柄は「菊の司」と「七福神」がある。すぐ隣の岩手銀行の脇に、土蔵造りの小屋の所は●井筒屋跡(小野家)。ここは前記の「七福神」を造っていた酒造家で、明治39年に廃業している。そのブランドを菊の司酒造が受け継いでいるわけ。
 さてその先は「長坂」で、左高台緑地に「菊池数馬の墓」、その北側に江戸時代の好地村と犬淵村の境界である「境塚」などがあるはずなのだけど、灌木というか雑草が生い茂って、看板も草が茂り、半分読めず、境塚も草に埋もれて見えずでよくわからなかった。紫波町に入り●国道4号を北進します。松並木が少し残っていますね。 15:45

■大渕~南日詰
 旧道の方の奥州街道が残っているので、●押しボタン式信号の所を左折して、砂利道を進むと正面に●「鎌倉街道跡」の標柱が立ち●南北に旧道が残っています。この旧奥州街道は鎌倉街道とか古街道とか呼ばれていたそうです。 これは広めの道にぶつかり消滅しています。 右折して国道を左折して進むと、国道の右手に●「善知鳥館跡・比与鳥柵擬定地」の標柱が立っている。
 国道の右手一帯は、従来から安倍貞任の臣善知鳥文治安方(うとうぶんじやすかた)の居館跡と伝えられてそうだけど、調査の結果、安倍氏の柵かもしくは安倍氏につながりのある有力者の居館であったろうと推定されるに至りましたといわれます。16:15 

■南日詰~桜町
 山吹橋を渡ると、左側に大きな●五郎沼がある。 名称は藤原秀衡の五男である樋爪五郎季衡が築いたとも、子供の時お泳いだとも伝えられる灌漑用水池で、樋爪太郎俊衡・五郎季衡兄弟の居館「樋爪館跡」があったと伝えられている。館の場所は沼の北部、赤石小学校、薬師神社あたりにあったといわれます。 沼の回りは雑草が高く茂って歩きにくく、足も痛んできているので、とても館跡を訪ねる元気がありません。 東側にその昔、沼の堤防決壊を鎮める為に人柱にされたという伝説のある娘の●「夜泣き石」だけ見ることができました。 東北新幹線の高架をくぐり、●紫波I.C入口交差点手前のY字路で街道は右前方へ進み、●紫波本町へ入ります。 和気神社手前で疲れがピークに達し、本日はこれにて打ち止めということにしました。明日は盛岡まで行く予定でしたが、熱中症ぎみであるし、とても無理と思い、明日は日詰宿を一通り回って帰ることにしました。宿は紫波中央駅西側の「オガールベース」という所だったけど、ここから結構長かったです。 17:10終了 

2020年8月29日
★志賀理和気(しかりわけ神社
 宿を8時過ぎに出て、2km程ゆるゆると歩き●●志賀理和気神社まで来ました。延暦21年(802)、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の平定後香取、鹿島の大神を勧請し、 陸奥開拓の守護神として建てられたというなかなかの古社で、日本最北にある式内社です。また別名を「赤石神社」と呼び、境内に「赤石」と呼ばれる赤い大石が鎮座されており、往時の殿様が川の底に輝く「赤紫の大石」を見て「けうよりは紫波と名付けん・・・・・・」という歌を詠んだことにより、志和、志波などと書かれた地名が「紫波」と書かれるようになったと云われます。 参道左手に●南面(なんめん)の桜と横に「南面の桜碑」呼ばれる石碑があります。説明板によると、桜を植えたのは元弘の頃と云うから、樹齢は700年以上だろうと思う。都から下って来た貴族と、地元の領主の娘との恋愛にまつわる伝説が残ります。
 参道を出ると右手に●志賀理和気神社元宮という小さな石の社があるが、由来等詳細はわかりません。 8:55

■和気神社~日詰
 その先の右手に●庚申神社(猿田彦大神)、2軒の住宅に夾まれて窮屈そうに建っています。左に大きな「観世音」と「庚申塔」が目を引きます。右手一帯が「紫波運動公園」。どこかの自治会が運動会やっていました。
 何故か●ガソリンスタンド前で左折して行くのが旧道で、●旧道は円弧状に曲がって、3~4分程で元の道に合流します。枡形でもないので何故曲がるのかわからないが、北上川の地形とかの関係があったのかもしれない。●県道25号の交差点、渡ると日詰郡山宿に入ります。 9:11

65 日詰郡山宿
 石鳥谷宿から1里33丁(7.41km)。中世は高清水城を拠点とした斯波氏が治め、その後南部氏が支配して、高清水城を郡山城と改名したので。宿名を日詰郡山宿と称する。奥州街道の宿場や北上川の舟運の要衝として発展。郡山代官所が置かれ、政治経済の中心として栄えた。

★日詰中心部
 ●日詰郡山宿に入ります。ここは現在紫波中央駅が最寄り駅らしいが、平成10年に開業した新しい駅で、その昔は一つ手前の「日詰駅」が最寄り駅だった。宿からちょっと離れているので、中央駅が請願駅として開業している。 左に●平井家住宅(国文化財)。豪商、平六商店(現・菊の司酒造、石鳥谷にあった所)の第12代平井六右衛門が、内閣総理大臣に就任した原敬を接待する為、約3年の歳月を掛け大正10年(1921)完成した木造2階建の伝統的な町屋構造の屋敷です。
 その先は白梅館という芝居小屋で賑わったという旧新田地区です。新田の名前は町の周辺に水田を持つ半農半商の商人が多かったことから ついた町名とのこと。●盛岡信用金庫は、かつての井筒屋彦兵衛店(薬、小間物屋)の跡地。 この向いには呉服店の村谷屋や 近江屋等近江商人系の江戸時代から続いたが軒を並べていた所という。 すぐ先に●「日詰町屋館」という建物は明治時代の古屋を地域の関係業者が共同でリノベーションし、 イベントスペースとして使われているもの。 9:17 

 「きたぎん」の所を左に入って、国道まで行くと、角に旧紫波町庁舎があり、敷地内に●「旧紫波郡役所」(町有形文化財)が移設されている。明治30年からの郡制に伴い、翌年の明治31年に完成したといわれ、大正12年に郡制が廃止となったが、庁舎だけは郡役所として大正15年まで存続している。現在紫波町庁舎は駅西側に移転し、この旧庁舎は閉鎖され、中の見学はできなかった。 街道に戻って先に進む。「東北銀行」のあたりは「橋本地区」といい、町の中心部となっている。銀行の駐車場に●「銭形平次」のモニュメントと真ん中に「平次」を演じた「北大路欣也の手形」があります。ちなみに紫波町は原作者「野村胡堂」の出身地なのでした。 左手の●幾久屋は延宝期(1673~81)に美濃国・関から移住し、代々七郎兵衛を襲名して呉服 醤油販売を営んだ豪商でした。隣の幾久屋の旧地は「ふれあい公園」になって、●「明治天皇御聖蹟碑」が立ってます。 9:35

■中心部~紫波駅
 突き当たりで左折します。宿出口の枡形となっており、かつては市が開かれ、高札場のあった所といいます。 曲がった先は「習町(ならいまち)といい、日詰の町の発祥の地で、今から600年以上も昔から約300年間斯波氏が この地を支配して、この辺りに城下町を作ったのが町の始まりというとののこと。 右手に●「車置き場」と呼ばれる駐車場があり、土塀で囲って昔風に造られ、銭形平次の手形も設置されている。 この先で●右折する枡形となっており、日詰宿を抜けます。本日はここで終わり、●紫波中央駅から盛岡に向かい、新幹線で帰りました。 9:40終了
 がんがん照りの中を歩き、熱中症の為か足のけいれんを起こし、筋肉痛で難儀しました。もう真夏の歩きは止めにします。  

 016 金ヶ崎-花巻 018 日詰-盛岡