伊勢別街道を歩く 
            (関宿~江戸橋
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 関宿東追分-鈴鹿駅家跡-楠原-林-横山池-椋本-豊久野-一身田-江戸橋             18.7km

 伊勢別街道

  主として京都方面からの伊勢まいりの旅人が使用した街道で、関宿東追分で東海道と分岐し、現在の津市芸濃町、一身田町などを通って、津の江戸橋で伊勢参宮街道と合流する。伊勢別街道の名は、四日市日永追分から伊勢にいたる伊勢街道の支道の意味で、街道の総距離はおよそ4里26町、18km程度。途中、楠原、椋本、窪田に宿場が設けられ、江戸時代には参拝客で賑わった。

  参考資料
 「歴史の道調査報告書 伊勢別街道 
                     三重県」
 「三重の歴史街道 ウオーキングまっぷ 
                    伊勢別街道」
 「今昔東海道独案内 伊勢別街道編 
                    今井金吾 」
 

■関宿東追分~勧進橋
  2012年9月2日 草津、柘植経由で関駅に8時49分に到着。無人駅でICOCAカードが使えず、精算できなかったので、下車駅証明をもらった。柘植から久しぶりに気動車に乗って楽しかった。駅を出て北に向うと●東海道、関宿に出会う。朝早いので人気はまだ見あたらない。
 宿に入って右折して関宿内を東へ進む、東の隅に●木の鳥居と常夜燈がある。鳥居は伊勢神宮の一の鳥居で、内宮の宇治橋の南詰にあったものを遷宮時に移設されたもの。常夜燈には「大阪津国屋重右衛門 江戸嶋屋佐右衛門 元文五庚申歳正月手坂組中」と刻まれている。
 ここは関宿東の追分といって、伊勢別街道と東海道の追分にあたる。伊勢別街道は鳥居をくぐって南下して行く。国道を越えて進むと、鈴鹿川に架かる●勧進橋が見えてきた。 この橋が勧進橋といわれるのは、 江戸時代、洪水で度々流されたが、勧進による浄財を求めて架けることができたことによる。    9:22

 ■勧進橋~鈴鹿駅家跡
 橋からしばらく行くと、県道から左へ折れる道がある。その角に●史跡鈴鹿駅跡があって、常夜燈や大きな石柱、●史跡鈴鹿駅跡の標柱などが立っている 
 「鈴鹿駅は大化の改新後、全国に駅制がひかれた折、 畿内から東国、伊勢地方に向かう交通の要衝であった関地域に設けられた駅(うまや)で、駅馬20匹を常備し、 駅舎、厩舎、井戸等の設備が営えられ、目印に松が植えられていたとされる。     祠の中には、御厩の松と呼ばれていた老松の根株が保存されていて、●ありし日の写真が添えられている。老松は、直径2m35cmあり、樹齢350年程だったが、 昭和58年3月に病害虫のため伐採された。という。
 三叉路を左折すると、●古い家並みが残っているが、この道が伊勢別街道である。    9:30

■鈴鹿駅家跡~庚申堂
 名阪国道のガードをくぐると、ドライブインがある。このあたりが関町と津市芸濃町の境で、ここから先は下り坂となる。
 しばらく行くと、右側に入る道があるが、これが●石山観音へ行く道で、入口に●石山観音道の道標が立つ。「石山観音道  拾二丁」と彫られている。この道を進むと、1.5km程で石山観音がある。往復で1時間はかかるので訪れることはできなかったが、一つの巨大な岩に約40余りの聖観音や、菩薩立像、地蔵菩薩立像、阿弥陀如来立像などが彫られている磨崖群である。とても珍しいので行かなかったのはとても残念だった。
 先に進むと、●庚申坂にさしかかり、左手の樹木の中に、●庚申堂を中心に、いくつかの石仏が置いてある。小堂の中には三面六忿怒形の青面金剛像がある。   9:47

■庚申堂~楠原  
 庚申坂の所で県道は左にカーブして行き、伊勢街道はまっすぐ細い道を行く。●楠原宿へ入って行く。左右に昔ながらの家が続いて、風情がある。少し行って、右にカーブするあたりを問屋垣内と呼ぶようだが、左手に●村社明神社の石柱が立っている。この石柱は、旧明村の各地の無格社を合祀して、村社明神社と改称した時の碑である。石柱の所を抜けて行くと県道に出る。道の向うに●文化10年(1813)の大きな常夜燈が建っている。常夜燈の向こうにいかにも村の●鎮守の森といった感じのこんもりとした森があって、中に「村社明神社」が建っているのだが、何故だか鳥居の前に猪よけの為か、電気柵が張られており、中に入ることができなかった。    10:00

 ■楠原~芸濃町林
 街道に戻り、先に進むと、宿にはお決りの●枡形と思えるように曲って進んでいる。楠原の宿は「客舎、茶店有」とだけ書かれているという宿場だった。 
 宿を出ると県道に合流する。県道を少し歩き、 左側に狭い道があるので左折して進んだ。山道のように上り坂になり、やがて●林の集落に入る。ここは昔立場だった所である。医院の先で突き当り、左の角には●二階建ての木造の洋風な建物がある。旧明村役場として建てられたもの。 この交叉点は蛭谷街道との追分で、伊勢街道は右折をして行く。   10:27

 ■芸濃町林~横山池
 500mほど進むと●県道10号との交叉点にでた その角には●道標を兼ねた常夜燈があり、「 右 さんぐう道 左 京道」 と刻まれている。
 まっすぐ横断して、●芸濃町中縄に入る。この集落は津の領地で、年貢赦免の土地だったという所。 
 その先で土手に突き当たったが●横山池。この池は土地の人の駒越五良八が慶応2年(1866)に、私財に二万両を投じて完成させた人口池で、この池の完成により、この周りの200町歩が灌漑できるようになったという。  10:43

 ■横山池~椋本
 道は池に沿って行くと、右手に●大きな石碑と小さな石碑が並んで建っている。大きな石碑は昭和9年に建立された駒越翁顕彰碑で、小さな自然石の方は文化2年(1805)に建立された仁王経、上の碑である。 仁王経碑は疾病が流行しないように祈願し、侵入防止を図ったもので、椋本宿の入口に建てられた。すぐ左折すると●椋本宿がまっすぐ続いている。
  椋本宿は1600mも続く宿場で、「 妓院や客舎も数多く、多き旅人が此の駅に足を止むる沢ならん。」といわれたように、昔は●旅籠屋だったらしい古い家並が多い。
 宿入口から300m位で右折して、すぐ左折するが、これも宿場の特徴である枡形の跡であろうと思う。 椋本宿の問屋場はこのあたりにあったといわれるが確認できなかった。
 椋本バス停手前に、「 霊樹大椋 従是南二丁 」 と書かれた石柱が建っている。ここずっと入って行くと、●大椋の木が鉄骨に支えられて立っている。樹齢1500年以上といわれ、嵯峨天皇の時代(809~823)から伝わる伝説があるので、いかに古いかがわかる。椋本の地名は、この大木にちなんでいる。    11:15

■椋本~角屋旅館
 街道が●左折する角●道標と木柱がたっており、道標には「左 さんぐう道 右 楠原 」と刻まれ、江戸時代後期のものと思われる。その横の木柱は明治43年の津市・関町・大里村大字窪田への道路里程標である。
 伊勢街道は左折して行く。突き当たりに●旅館 角屋がある。江戸時代から続く旅籠で、現在も旅館として営業している(25年12月廃業との情報提供ありました)、非常に貴重な旅館である。軒下に参宮講の指定旅籠であることを示す●講札が沢山掲げられている。   11:27

■角屋旅館~銭懸松
 街道はここで右折し、東に向かって進む。椋本新町バス停の先の左側に延命地蔵堂が建っている。県道にぶつかる手前に●仁王経の石碑が建っている。ここは椋本宿の東の入口にあたり、下の仁王経碑と呼ばれ。疾病が宿内に入らないように祈ったもの。街道は県道10号線に合流して進んで行く。
 県道には特にこれっといったものはないのでどんどん進んで行く。場所は「豊久野」という所になる。かっては広大な原野が広がり、都にもその名が知られたという。結構大きなショップ、ショッピングセンターなどがあり、交通量が多い。 
 伊勢自動車道を越えた先、●西山バス停の所で県道と別れて、左の細い道に入っていく。●高野尾町である。生垣がある大きな家もあり、結構歴史を感じる町であった。 かっては地蔵や山の神、庚申塚などが点在してあったというが、これは明治の神社統合令により、合祀されて他に移転してしまったため、現在はあまり残っていない。三重県は明治の合祀令をきっちり実行した事で有名なので、こんな所にその影響が残っているわけだ。   12:20

 ■銭懸松~豊久野
  旧道がまt県道に合流する手前、右手に●「ぜに可け松」と刻まれた石柱が立っていて、●小さなお堂がある。中に●1.5m程の松の切株があり、古銭がひもで吊してある。これは初代の松の枯木を祀ってあるもの。
 銭掛松の由来は諸説があるが、
 「昔、病気になった参宮者が、旅の半ばで引き返す際、この地の松に銭を結び付け、松を拝んで立ち去った。 別の人がその銭を取ろうとすると、銭が蛇に化けて襲いかかったといわれ、この松に銭を掛けると参宮位のご利益があるという。民話が面白い。県道と合流して、600m程先の●大きな交差点を左斜めに入って行く。  13:02

 ■豊久野~一身田
 道は「野崎」に入り、中の川を渡ると、次の宿場だった「窪田」の入口に至る。途中右手に、汐見坂という坂があって、親鸞上人がこの坂から一身田をご覧になったと伝えられる。
 「窪田バス停」あたりの、右側の白い土塀と松の木のある家が●「窪田宿本陣」跡で、屋敷門があり、明治天皇窪田御小休所と書かれて石柱が立っている。旧窪田宿は県道が通っており、跡らしいものは特に残っていない。
 上り坂になり、JR紀勢線の手前で右折して狭い道に入っていく。少し行くと左側の民家の屋根越しに、●窪田宿常夜燈が見えてくる。この常夜燈は、高さは8m60cmもあり、津市最大。江州(近江国)の商人が文化14年(1817)に寄進したもの。
 「三重のマップ」ではここで左折して、紀勢線を越えて、一身田駅前を通っているコースになっているが、「今井本」では真っ直ぐ進んで、例禊橋(れいけいずはし)へ行っているので、こちらのコースをたどることにした。
  真っ直ぐ進むと、水田の中に向い、用水堀のような毛無川に石橋が架かっているが、これがその昔の●例禊洲橋(れいけいずばし)といわれる。ここは斎王が「水禊をして、斎殿へ入らせ給う」と伝わる場所である。その後線路際を歩くところ、無理だったので農道を歩いて、紀勢線を越えた。こえてから右手へ進んで行くのだが、真宗髙田派「専修寺」を中心とした、一身田の町並を見て行こうと、少々の寄道をすることにした。   14:17

 ■一身田~専修寺
 「一身田小学校の」の脇を真っ直ぐ行くと、●朱塗りの毛無橋を渡る。下を●毛無川が流れるが、専修寺を巡る環濠として利用されていた。橋の手前に環濠の説明板が架けられている。一身田は真宗の一派である、専修寺を中心として、16世紀末には周囲に外濠をめぐら し、寺内町の形態を作り上げたといわれる。同じような町並が、北陸、大阪、兵庫などあちこちに見られるが、奈良の今井町、大阪の富田林の寺内町などが当時の形態をよく残している。
 正面に唐門が見えているが、手前で右折して行くと、山門が見え、手前に●釘貫門と石橋がある。釘貫門は、柱を立てて並べ、貫を通しただけの簡単な門のことで、 手前の石橋と合わせて、聖俗の結界をなす装置になっていた。

 ■専修寺
 ●山門をくぐって専修寺の境内に入る。広い境内に巨大な●御影堂、如来堂などが並んでいる。京都の東西本願寺もそうだけど、どうして真宗の寺はこんなに巨大な建物を造るのかよくわからないが、門徒からの寄付金が巨額なのかなとも思う。
 専修寺は親鸞上人が関東地方の布教の際、現在の栃木県真岡市高田に、専修念仏の根本道場を建立したのが起源とする。現在ここにある寺を「本寺」と称する。
 専修寺第10代住職、真慧(しんね)上人が東海、北陸の教化の為、15世紀、一身田にその中心寺院として建立されたのが現在の寺で、本寺が戦国時代の戦火で炎上したりした為、しだいにここが本山となった。帰りは●唐門をくぐったが、屋根が檜皮葺で風格がある。  15:00

 ■専修寺~江戸橋
 紀勢本線の踏切まで戻って来て、小学校の脇を東南方向へ進んで●一身田大古曽へ入る。ここも古い町並が残っている。
 伊勢鉄道をくぐる。コンビニの所で右折して、五十六橋を渡る。道なりに行くと、左折して行き、やがて近鉄名古屋線の踏切に出た。踏切を渡るとすぐ右折して、しばらく進むと、●●左に常夜燈がある交叉点へ到着した。この交差点へ伊勢参宮街道が江戸橋を渡って来ており、参宮街道との追分。すなわち伊勢別街道の終点にあたる。
  交叉点には、明治22年に再建された「左高田本山道東京とをりぬけ 」 と刻まれている道標と安永6年(1777)に建立された常夜燈が建っている。 東海道の日永で伊勢へ向った東国からの旅人はここで合流し、左側方向の江戸橋を渡って、ここを右折して、 伊勢神宮に向かっていったわけある。
 さて伊勢別街道もここでゴールとなるので、この先は伊勢参宮街道編を参照していただきたいと思います。 15:35終了

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