下総鱻(なま)街道を歩く 1
     布佐河岸-下総航空基地まで
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 布佐-発作-平塚-富塚-矢の橋-基地前-左津間-六実-八柱-松戸    31.6 km 

房総(なま)街道とは
 
江戸から明治初期にかけ、銚子沖で水揚げされた鮮魚は、房総沖が障害が多く、海難事故が多発したため、利根川から野田を通り江戸川へ入り、江戸まで運ばれた。しかし冬場を中心とする渇水期には利根川をさかのぼるのが難しく、途中の布佐河岸で荷物を馬に積み替え、布佐ー松戸間の陸路を通り、再び江戸川により日本橋まで船で運こび入れました。この陸送した区間全長約七里半(約30km)の道を鮮魚街道とか、鱻(なま)街道とか呼びます。行程は1日目夕銚子発-2日目早朝布佐着-同昼過ぎ松戸着-同夕方日本橋着-3日朝せりに掛けるという厳しい行程であった。
 このようにして布佐から鮮魚街道を通って松戸河岸に送られた鮮魚の輸送量は宝暦年間から安永年間(1750~)にかけて最高潮に達し、毎年8月から翌年4月までの間の平均輸送量は約4万籠に達したといわれています。馬一頭につき積載量は130~140キロで10籠というので年500トン以上にも達する量の魚が運ばれ、街道は大変な活況を呈していたといわれます。しかし鉄道の開通などで、さびれていき、この街道も歴史の中に埋もれてしまい、かろうじてその痕跡がちらほらと残るだけになってしまっています。現在では途中、海上自衛隊下総航空基地で大きく分断され、松戸駅付近では千葉大学により消滅しており、迂回しなければなりません。尚”鱻”の文字は魚を三つ重ねた、見たことのないような文字でユニコード 9C7Bです。
    
参考資料・HPなど
1 下総鮮魚街道(青木源内氏 松戸市における講演録より)http://www.tante2.com/namakaidoh.htm)
2 百街道一歩のなま道 
3 歴史の道調査報告書集成 17 (海路書院)
4 房総の街道繁盛記(山本鉱太郎) などがあります。歴史の道報告書は蕨市図書館で閲覧しました。
  但し、残念なことにどれ も地図が載っていなかったり、大雑把な地図で、歩くには不十分な点があり、記事を読んで地図をできるだけ再現しようと務めました。江戸時代の利根川の様子は「利根川図志」
  (赤松宗旦、岩波文庫)が参考になります。※ 写真をクリックすると拡大します

 2008年3月1日(土)、朝8時過ぎ、JR成田線布佐駅にやってきました。先週は大変な強風で来る予定が延びてしまった。本日は「なま街道」ということで、松戸まで30数キロ歩きます。お昼も歩きながらということになるでしょう。まず利根川縁の観音堂へ向かいます。
◆観音堂  8:40
 利根川の網代場の所に建っており、堂裏に「生(鮮魚)街道」の案内板が立っていて、なま街道の出発地ということがわかる。右写真はその網代漁が行われた利根川の辺り。網代漁というのは江戸時代に盛んに使われた漁法ということ。

  堂裏からまっすぐ進みますが、看板ではそのまま線路を越えているが、本来は信号を左折し、線路を越すのだそうで、左折してみたが踏切がないので、遠回りしてジグザグに進んだ。このあたり橋の工事中でダンプが多く歩きにくい。◆関枠橋を渡る。手前に庚申塔があった。渡ると左側に◆若山牧水歌碑 大正14年、手賀沼で船遊びをした時に詠んだもの。  9:06 

 橋を渡ると発作新田集落である、県道の右横に旧道らしい道があるのでそちらを行ってみる。右手に並ぶ家はどれも植え込みで囲まれ、水害の為土を盛り上げてその上に家を建てている。◆大杉神社は街道脇にある小さな社。その隣が◆最勝院という。名称と石柱、墓地は残っているが建物がない。集会所 が建っているだけで廃寺と言える 

 集落のはずれ辺りに豪壮な長屋門がある。新築同様の門で、建て替えたられたのかもしれない。門だけでもこの規模なので、相当の名家かもしれない。◆しもまえかわ橋を渡る。この辺り旧道は途切れていて県道へ向かうことになる。県道は先ほどの工事のダンプが走っていて、空気がよろしくない。木下街道と合流している。 ◆永治郵便局のところで県道から右に入っていく。  9:54

 県道から右に入ると、永治プラザという、印西市コミュニティセンターのがあり、その奥に◆大六天神社がある。創建は不詳。こんもりとした樹木の間に建つ。第六天社というのは、南関東地方に多くあるようで、祭神は天地創世の時、第六番目に現れた、於母陀流命(オモダルノミコト)と(アヤカシコネ命)である。当社に隣接して「手賀沼干拓発祥之地」の標柱が立ち、奥へ入ってみると高台になっていて、前方に手賀沼が遠望できる。このあたりは木材のチップがクッションとして敷いてあって、散策しやすく、よく整備されている。  10:01

 永治小学校の裏手を通り、道はだんだん旧街道の雰囲気を醸し出してくる。なかなかいい具合だ。次の二股を右に入ったところに◆「月影の井」というのがある。案内板によると、鎌倉の星の井、奥州二本松の日の井と共に日本三井の一つだったと伝わっているそうだ。しかしこんな場所に三大井戸のひとつがあるとは意外な感じがする。竹藪の中の道を抜け県道へ出ると、右手に◆「百庚申」がずらりと並んでいる。皆、表面が赤く塗られ、天保十年(1839)の年号が刻まれている。百庚申は中山道の岡部でも見た 。天保十年というのに何か意味があるのだろうか。特に案内板などはなかったが。

 その先右手の小さな道標には「石尊道」と刻まれている。石尊とは何かというと、この先の阿夫利神社参道も、石尊参道と呼ばれていたので、この阿夫利神社のことと思います。ここを右折する道がなま街道の旧道なので、こだわる為、右折していきます。途中大きな◆庚申塔が5基ほど並んでいる。すべて文字が赤aく塗られているけど、何の意味かよくわからないが。この塔は新しいもののようだ。この先県道にすぐ合流して、浦幡新田という所にでます。    10:20

 県道をそのまま進むと、◆阿夫利神社の白い鳥居が見えてくる。現在は道路をよけて、斜めに立っているが、昔の鳥居は、旧道を跨いで建っていたそうだ。鳥居から右の道を進んでいくと両側に杉の並木が並び、いい雰囲気になってきた。しかしダンプが相変らず多い。

◆阿夫利神社
 ・・・・明和元年海上郡銚子海岸より青石2個を取上げたところ、その石に奇怪のことあり、その土地の人が尊敬しその後も願いに応じ利益少なくなかった。のち之を名づけて世直し石尊と尊称した。・・・というような由緒を持つ神社。祭神としては日本武尊などだが、石を二個祀るという神社である。本殿は拝殿の奥というわけではなく、祀った石は左側のもう一つの鳥居の階段を上がった上の小さな祠に祀ってあるように感じた。あたりに人影は全くなかった。

 阿夫利神社の先を暫らく歩くとやがて、平塚の集落に入り、右手に道標がある。「西 松戸 東京道」と刻まれている。道標を右折した先に重要な寺があるので、寄り道をして行く。ちょっとした距離を歩いていくと◆延命寺いう寺があり、寛文8年(1668)造立の◆観音堂がある。元々は茅葺きのもの

 すぐ先左手には◆鳥見神社がある。鳥居は両部型鳥居、朱塗りで結構珍しい。本殿は神明造りで、壁面、向拝の彫刻は龍が巻いてある。神社の奥は白井第二小学校平塚分校がある。掲示板には生徒の絵などが貼ってあるが、平成15年に本校へ統合となって、廃校となってしまったようだ。ここから北方へ行くと、国の重要文化財すに指定されている、「滝田家」という住宅があるようだけどちょっと遠かった。   11:36

 県道に戻って、左右に梨畑を見ながらダンプの通る道を行く。歩道がなくて歩きにくい。右手に大きな出羽三山碑が建つ。また◆大きな庚申塔も集団で立っている。真新しいのも一基ある。この道は出羽三山の碑が多い。白井工業団地に入ってくる。京葉プラントの先を左に入る道が旧道なので左へ折れていく。河原子台という交差点を渡る。角にコンビニがあったので、昼食を仕入れた。今回も食堂らしい食堂は見あたらず、おにぎりとジュースを歩きながら食べることになってしまった。  12:05

 ちょっと行くと、右手に大師堂があり、左側に◆子安観音堂がある。お堂の中を覗くと子供を抱いている人の像が見える。感度を上げてそーっと撮ってみたが、うまくいかなかった。白井第二小のの交差点を過ぎるが、この学校が先ほどの分校の本校で、分校の生徒はここまで通わないといけない。やがて国道16号を渡り、富塚という地区に入ってくる。その先の道右の角に◆「水車屋」という店があった。脇の廃屋を見ると、かつて水車があったような形にが残っている。県道を過ぎてまっすぐ進んで行く。 13:00

その先右手の石段を上がった所に◆金毘羅神社がある。荒廃してしてしまって頂上の祠は屋根が落ちてしまっている。その先の角の家は今時珍しい茅葺きの家であった。そこを右折していく。右手に成田不動の彫られた、道標がぽつっと立っている。「右成田山道」とある。ここからは左折してすぐ、右折して枡形のように曲がって行く。 

 ◆矢の橋台霊園を過ぎると、坂になっていて、降りて行く。柏市へ入る右手に◆成田不動尊の道標を兼ねた石碑がある。小さいものだが、きちんと保存されている。「成田道」と彫られている。
 その先のT字路を左折。すぐ右手に案内板が立っている。この地区は鮮魚道(なまみち)の中間点として賑わい、この金毘羅宮やこの先の常夜燈が造られた。香川県琴平に本社のある金毘羅神社は、もともと水運の守護神で、鮮魚道(なまみち)に暮らす人たちに信仰されたそうだとある。街道は確かにこの道であるという証拠にはなる。奥に階段が続き◆金毘羅宮が立っている。祠は壊れてしまってシートが掛けてある。脇に漢文の石碑が建っているけど、読むには疲れる。石碑は大沼沈山選碑というも ので、明治5年のもの。金毘羅宮は幕末の嘉永5年(1852建立のものという。  13:25

  旧道は右折していくけど、ちょっとまっすぐ行った所に、楓の大樹があるというので行ってみた。◆薬師堂が建っていて、その後ろに。沼南町指定天然記念物の、幹周り3mの楓が立っているはず思いつつ、立っていない (--;) 案内板も立っているのに--下を見ると板に平成16年の台風で倒壊したですと・・・・・・・
 先ほどの右折地点に戻って、左手に大きな常夜燈が見えた。これが◆柏市指定文化財の有名な鮮魚街道常夜燈。「紀元2539年6月設之」と銘記されており、明治12年に地元の有力者などによって建立されたことがわかりますとのこと。この付近には茶屋などもあったそうです。  13:32 

 常夜燈のある場所には◆相馬商店が建つ。相馬商店は営業している気配がない。この付近は鮮魚街道の中間点で、往時は盛んに往来があったのだろうけど、今は全く人通りもない。商店の前は坂道で、上がっていくと、やがて◆海上自衛隊下総航空基地に出る。旧道は基地でぷっつりととぎれてしまっている。そのまま自衛隊正門のバス停まで歩いた。
バスで向こう側へと思ったが、時刻表を見ると、千葉レインボーバスというのがあり、現在13:41分で次は14:10ということで、30分くらいあり断念。迂回路を歩くこととした。航空基地ということで戦闘機でも飛ばないかなと期待したけど、飛行音などは聞こえなかった。・・・・・・次へ続く  

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