七里半街道を歩く 
            (海津~敦賀
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 海津-清水の桜-道の駅-小荒路-国境-山中-駄口-疋田-道口-気比の松原             25.9km

七里半街道
 
 畿内から北国に抜ける街道の内、有名なものでは琵琶湖西岸を北上する西近江路があった。大津から海津を経て山中峠を越えて越前に入り、木ノ芽峠を越え今庄宿で北陸道に合流した。この街道の途中の道口からは敦賀へ向かう道が分かれ、敦賀から海津までの距離が七里半であったため敦賀・海津間は七里半街道と呼ばれた。
 途中 小荒路・山中・駄口・追分・疋田の各宿場が置かれていた。またこの街道には古代の愛発関が置かれていたといわれている。現在の国道161号が相当する。
 ここをマキノ駅から新疋田駅を夾んで2日で歩いた。
距離26km程度。
 ゴールは敦賀市内の気比の松原付近とした。

 参考資料
 歴史の道調査報告書(滋賀県・福井県)

013年5月12日
■海津宿~海津交差点
 湖西線「マキノ駅」から●海津宿へ到着。ここへは4回かけて大津からはるばるやって来ているので、前回紹介しなかった場所を2、3あたっておきたい。云うまでもなく、海津は京と北陸を結ぶ湖上交通の要衝として栄えてきた所で、現在では湖上交通の面影は無いが、家並みや石垣などに昔の面影を残している。
 右手に●海津迎賓館(旧井花邸)。明治4年に琵琶湖の南北をむすぶ大津-海津間に汽船を就航させた豪商、井花伊兵衛の屋敷で、現在は象牙の取扱業者の「白宝」という会社の所有になっている。
 左手に清酒竹生嶋の「吉田酒造」があったりして進み、突き当りを左折する。
 右手に●願慶寺。真宗大谷派。石山合戦)に参戦し、江戸時代には加賀、越前の諸侯が上洛の際の宿舎とした程の名刹であったという。境内には木曽義仲の側室の山吹御前にゆかりの1本の老紅梅がある。  10:00

■海津交差点~追坂峠
 海津交差点を渡ると国道161号線の左側沿いに●旧道が残っている。緩やかに上って行くと右手に●清水(しょうず)の桜というのがある。樹齢300年以上といわれる「アヅマヒガンザクラ」である。水上勉の小説「桜守」にてすばらしさが賞賛されているとか。今はもう5月末で開花は終ってしまった。
 この先分岐があり、左へ行くと養魚場の方へ行ってしまうので、右手の土手を上がって行く。そうするとまた●分岐が現れ、ここは左手の林の中を行く。少々もの悲しい感じがする。右手を上がって行くと国道に出てしまうので注意。  10:25

 林を抜けると行き止りになった。本当はもっと先に続いていると思われるが、旧道は完全に消滅している。右手に●階段があるので上がって行くと国道の●道の駅「マキノ追坂峠」へと出てきた。テラスからの琵琶湖の眺望が良いということだったが、見逃した。売店で「さば飯」を買っておいた。この先敦賀までほとんどコンビニなどがないだろうと思う。
 道の駅の先で右に●旧道の「小荒路」に入る。   10:50

■追坂峠~野口
 ●小荒路地区を進む。国道に沿った集落だが、別に宿場とかではなく、江戸時代では海津宿を構成する10カ村の内の一つで宿の入用費用を分担していたという。右手に●長善寺という寺がある。巨大な黄金色の観音さんはなぜか、街道に背を向けて立ってる。
 右手に地蔵堂がある。右手の山麓を行くと、国道へ出て、●野口交差点で右手に入る。。 11:15

  ●野口地区の家並み。ここも海津10カ村のひとつ。途中に●伝正寺がある。右手に●剣熊の関跡という石柱が立っている。 野口御番所ともいわれ、幕府が女人の通行を改めるために関所をここに置いた。諸侯の家来筋は下馬しなければ通れず、東海道の新居関に相当する格だったという。  この先で国道に出て昔の近江国と越前国の国境へと上って行く。  11:25

 ■野口~国境
 本格的に●国道161号を進んで行くことになってきたが、ここは国道の割にほとんど歩道が付いていない。ガードレールなしの側道があるだけ。日曜日で交通量が多くなく助かるが、時折大型トラックが車列をなして通るので、後ろを向いてやり過ごすことが何回かあった。特に平日は歩くのは困難ではないかと思う。
 ●国境地区に到着。スキー場があったためか民宿がある。●滋賀県と福井県の国境付近へ到着。●高島市の「またお越しやす」という看板と福井県敦賀市の看板が立っている。ここから福井県へ下りて行く訳だ。峠と思うけど何峠というんだろ?12:15

 ★国境のスキー場
 国境付近だが、滋賀県側には「国境高原スノーパーク」というのがあるみたいだが、福井県側のスキー場は潰れてしまったようで、●広い駐車場跡●「敦賀国際スキー場」という看板の架かる亡霊のような建物が建っている。かつてのにぎわいはどこへやらと・・・・・
 ●リフトはまだ健在のようである。いすは取り外されカバーが掛っている。  12:25

■国境~山中
 国境を過ぎてしばらく行くと、●山中区の看板が立ち、左へ入る旧道がある。山中は七里半街道の宿場であり、一里塚、口留め番所、高札場があった。享保7年には問屋が10軒もあったほどの規模であっという。●宿内へ入っていく。人気はなく、屋根を葺いたトタンがさび落ちた廃屋が1軒、ぽつんとあるだけ。
 左手に●親鸞聖人御旧蹟碑がある。1207年、親鸞が越後に流される時にここに泊っている。
 宿内の旧道は無人の林の中へと続き、国道に合流する。  12:55

■山中~駄口
 この先ずーっと●車道を下る。時々大型トラックが過ぎて行く。左手の大木の陰に●駄口の一里塚碑がある。昭和11年に福井県が設置したもの。
 集落が見えてきて、●左手に入る。駄口の集落である。 13:35

 ■駄口~追分・深坂
 ●駄口地区。300m程で国道に出てしまう位の規模。駄口宿は冬季を除く下り荷の荷継場で、問屋1軒、茶屋兼宿屋1軒があった。宿場としての性格は薄く、副業的に荷馬運送を行っていた。
 中程に●住吉神社がある。国道に出て、しばらく進み、●電機工場の先で右折し、追分地区に入る。  14:00

 ■深坂~新疋田駅
 追分では●深坂古道が分岐している。深坂古道は敦賀と塩津を結ぶ古道で、歴史は古く紫式部は越前守に任ぜられた父、藤原為時一行とともにもこの道を通った際、歌を残した。また平清盛が重盛に命じ、深坂峠を開削して琵琶湖と敦賀を連結する運河建設を計画したことでも知られている。
 追分の先は●深坂地区。ここに立つ地区の看板には「七里半街道は敦賀(松原駅)から海津まで」という説明があるので、敦賀のゴールは気比松原公園が良いだろうと考えた。松原駅とは古代の北陸道における敦賀に置かれた駅屋のことである。
 国道に出たらすぐ右手に●新疋田駅がある。洒落たログハウス風な無人駅舎で脇に、愛発地区の歴史の案内看板があって色々参考になった。この先敦賀まで7km程で行けない距離ではないけれど、次回敦賀でゆっくりしたいと思うので、ここで本日はおしまいとしよう。   14:15


 2013年5月26日
■新疋田駅~疋田
 2週間おいて七里半街道2回目。新疋田駅を下車し、早速国道161号線から北へ向う。湖西線は塩津駅で北陸線と名前を変えている。その北陸本線のガードをくぐって●左手に入り、疋田地区へ入って行く。
 左手に岩の上に小さい屋根が架かっている面白いものがある。●南無阿弥陀仏碑という。延享4年(1747)集落の安穏と往来の安全を祈願して造られた。
 その先、左手の高台の上へ石段を上がって行くと公園になっており、北側一帯の石垣のある所が●疋檀城跡。 文明年間 (1469~)に朝倉氏の将・疋壇対馬守久保が築いたものという。 天正元年の信長再度の越前進撃により、城は完全に破却された。   11:30

  ★疋田宿
 城跡の下に続いている集落は●疋田の集落。塩津道と七里半街道が交わる交通の要衝であって、江戸時代には宿駅として賑わい、小浜藩の本陣も置かれていて、郡内最大の宿駅であったという。
 現在集落の真ん中を●舟川という細い川が流れていて、敦賀運河の遺跡だそうだ。
 昔から琵琶湖と日本海を結ぶ運河計画があって、平清盛の命で重盛が開削した跡が残っているといわれる。その後幾多の変遷が経過し、文化14年に手始めに小屋川と疋田までの舟川が開通した。川幅は9尺(約2.7m)、総延長は約6.5km。川幅がせまく二艘の併走ができず、三艘が一列で航行していた。
 疋田を過ぎて●国道(いつのまにか8号線に変った)を突っ切って「市橋地区」へ入った。   11:55 

 ■疋田~小河口
 市橋地区に入り、右手に●日吉神社があり、ここの「スタジイ」の大木が有名らしい。市橋を過ぎると●小河口の集落。承応元年(1655)市橋から小河口の間の険道を開削して平坦にしたというので、昔は随分険しくアップダウンしていたようだ。
 そのまま進むと前方に●小河トンネルが見えてきた。車は高架でトンネルに入って行き、歩く人間はその下をくぐって行く。
 12:17

 ■小河口~道口
 
北陸線のガードをくぐると、右手に●農兵隊の鳩原水害記念碑というのが建っている。幕末の頃、交通の要所のこのあたり敦賀藩の農兵隊が詰所を設けて警備していたところ、慶応2年8月暴風雨で屯所の裏山が崩れ、警戒に当たっていた17名の農兵隊が犠牲となった。その慰霊碑である。
 その先国道を上がり詰めた所に巨大な支柱2本が突出ていてびっくりした。●舞鶴若狭自動車道笙の川橋の工事中であった。こんな高い所を車が通るのかと思うと通るのが恐ろしい。まあ通る機会があるかどうかわからないけど。
 道はその先で●右折して道口に入る。   12:45

  ●道口の町並。道口は若狭・敦賀・越前の三方への分岐点であることから「三ノ口」と呼ばれるようになり、さらに「道口」になったという。江戸期には宿駅が置かれた。また古くからの交通の要所で「愛発関」の推定地の一つでもある。
 少し先に●西近江路との分岐点があり、ここを右に行くのが西近江路で木の芽峠を越えて今庄で北陸道を合流している。ここを左に敦賀への道が分岐して、真っ直ぐ線を結ぶと気比の松原に通じる。ちょっと右手へ行って見ると、北陸線のガード脇に●志比前神社というのがある。由来などはわからないが、かなり由緒がありそうな古い神社であった。  12:50

 ■道口~木の芽川
 七里半街道は●分岐点を左に取って敦賀へ向う。道の名前はよくわからない。地図を見ると北西方向にうまいこと松原へ向っているのだけど、途中●「TOYOBO」の大きな工場に邪魔されてしまっているので、国道を迂回して●木の芽川の北側の土手を進んだ。  13:22

 ■木の芽川~松原神社
 「三島橋」を渡って、県道に進み「昭和橋」交差点は右へ行き、レストラン「ガスト」の所を右折して、真っ直ぐ北上して行く。
 墓地を通ると左側に「武田耕雲斎」らの墓などがあるので寄ってみた。突き当りの高台に●武田耕雲斎の銅像●耕雲斎と天狗党らの墓があった。
 水戸藩元家老の武田耕雲斎に率いられた「天狗党」は朝廷に尊王攘夷を訴える為行動を起すが、次第に鎮圧され、追詰められて敦賀で前田藩に降伏する。降伏した一行らが収容された●ニシン蔵が松原神社境内に移築されている。天狗党員823名は16棟の悪臭の漂うニシン蔵に収容されたというから、その悲惨さは想像を絶する。●松原神社は武田耕雲斎ら天狗党隊士の霊を祀っている。  14:10

 ■松原神社~松原公園
 
この後、松原神社からすぐ北へ行くと●松原公園の石碑が立って、●気比の松原が広がっている。長さ約11.5km、広さ約40万m2、三保の松原(静岡県)、虹の松原(佐賀県)と並ぶ日本三大松原の一つということで、歩いたのはほんの少し。
 北側は●敦賀湾。これで大阪湾からここまで一応本州を縦断したのだ。と言えるだろうと思う。
 古代北陸道は近江の鞆結駅で七里半街道を越えて、越前国の松原駅を結んだ道といわれているらしいし、松原駅とはこのあたりの気比の松原付近を指すというので、今回の七里半街道の歩きもこのあたりでゴールとしたいと思います。
 この後、時間もあるので敦賀の旧蹟を少し見ておきたいと思って少し市内巡りをしました。   14:20

 ★敦賀市内史跡巡り
 気比公園からバス通を東に向い、松島橋を渡った先の川崎町は古い宿場町の趣がある。
 更に東の山車会館の手前を右折した所に●晴明神社がある。晴明神社といえば京都のそれが有名だけど、敦賀にもあった。、当社は昔は食物を守る神社だったが、安倍晴明は正暦年間当地に住み天文、地文の研究をし、日夜この神社に 参詣、信仰篤かったという。晴明70歳の頃の話。天文の奥義を究 めるに供した晴明の祈念石というのが祭壇の下にちんまりとある。  港へ向い「金ヶ崎緑地」脇にあるのが●旧敦賀港駅駅舎(現敦賀鉄道資料館)。かって「欧亜国際連絡列車(新橋~敦賀港駅~ウラジオストック~シベリア鉄道経由ヨーロッパへ」の発着駅としてかつて重要な位置を占めていた「金ヶ崎驛を再現したもの。
 ●赤レンガ倉庫は1905年にスタンダード石油会社が石油貯蔵庫として建てたもの。現在は倉庫としては使用されてはいないが港町敦賀の象徴的建築物のひとつとして有名。   15:08

  敦賀駅に戻る途中、国道脇にあるのが永賞寺で、天正19年(1591)に当時の領主大谷吉継が自らの菩提寺とした。
 境内に大谷吉継の供養塔とされる●九重塔があった。
 その先が●気比大神宮。大宝2年(702)年の建立と伝えら、北陸道の総鎮守。高さ11mの●大鳥居(重要文化財)は春日大社(奈良県)・厳島神社(広島県)と並ぶ日本三大木造大鳥居の一つという。   15:40
 以上で市内の主な旧蹟を巡って、敦賀駅より新快速で帰宅。    おしまい