山陰道・老ノ坂峠越 
    (京都丹波口~亀岡駅)
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 京都島原西門跡-葛野七条-桂橋-樫原-大枝-沓掛-老ノ坂峠-王子-篠村八幡-年谷橋-亀岡       19.5km

山陰道・老ノ坂峠越
 山陰道は古代は京都山陰地方を結ぶ五機七道の一つであった。江戸時代に入り京都丹波口から亀山を経て山陰へ向い、津和野、山口を経て小郡で山陽道に合流する山陰街道が造られた。
 途中の老ノ坂峠は交通・軍事の要所であったことから大江関が設けられたり、源義経、足利高氏、本能寺の変の明智光秀などがここを通って戦地に向かったとされている。今回は京都丹波口から宿場であった樫原、老ノ坂峠を越え、亀岡まで歩いた。
 参考資料
 「街道・古道を歩く 西日本編」 (山と渓谷社) 
  

2013年5月4日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■京都島原跡~七条千本通
 現在まで五街道を始め、色々な街道を歩いてきたわけだが、山陰道も歩いてみたいと思うけれど、とても山口県までは行くことはできないので、初めの一歩ぐらいを味わってみたいなと思った。
 そういう訳で、今日は山陰街道の出発地である京都の丹波口から老ノ坂峠を越えて亀岡まで行きたいと思う。老ノ坂峠は光秀の本能寺の乱に縁のある場所であり、歴史的な道でもある。
 丹波口とは「京の七口」の一つで、京から山陰へ向う「山陰街道」の入口にあたり、現在の七条通りとJRが交差するあたりにあったという。 七条通から出発してもよいのだが、少し北側の史跡でもある「島原跡」から始めようと思った。
 西本願寺の北側から西に入り、真っ直ぐ5分ほど行くと●島原の大門に出会う。くぐった先は島原の遊郭街があった所。遊郭は寛永18年(1641)六条三筋町から現在の地に移された。その移転騒動が九州で起きた島原の乱を思わせたところから「島原」の名前が付いたといわれる。 左手にある●角屋は芸妓を呼ぶ方の揚屋で、現存する唯一の揚屋の遺構として国の重要文化財に指定されている。突き当たりには平安時代の外交使節の接待場所の「鴻臚館」があった。突き当って右折すると●島原西門跡になる。本日の出発点である。目の前はJR嵯峨野線の高架で、高架の先には「京都中央市場」の建物が並んでいる。高架沿いに左折して七条通へ向かう。     9:50

■七条千本通~葛野七条通
 ●七条通りに沿って西へ進んで行く。 右手京都市場の所に●「是より洛中荷馬口付のもの乗へからず」という道標がある。
 左手商店街が続く途中、「権現寺」の石柱が立つ細い通路の奥まった右手に「六条判官」といわれた清和源氏の棟梁であった●源為義の塚がある。為義は保元の乱で崇徳上皇方について敗れて処刑された。
西小路通を過ぎてローソンのある交差点から、急に道が狭くなる。葛野大路通を越えると●左手の山陰道の旧道へ入っていく。   10:25

■葛野七条通~桂橋
 右カーブを描き天神川の橋を渡る手前に●地蔵堂と愛宕神社の常夜灯が立っている。天神川を渡り、道はまたぐっと大きく左カーブを描くが、このあたりに旧道らしい●板壁の旧家らしい家がある。道はやがて八条通と合流し右折、●桂大橋を渡る。

■桂橋~桂橋西詰
 橋の上からは●愛宕山の雄姿をはっきりと望むことができた。愛宕山は京都で最も高い山で(標高924m)。山頂には愛宕神社があり、古来より火伏せの神様として京都の住民の信仰を集めている。
 桂川を渡ったところには●弘化3年(1846)建立の常夜燈が立ち、奥は桂離宮。宮内庁が管理しており、参観許可証がないと入れない。 左手に明治16年創業という和菓子の老舗●中村軒がある。代金の代りとして麦と交換したという「麦代餅」で有名。ひとつ購入と思ったけど、5月5日なので柏餅を求める客で一杯でとても無理だった。   10:45

 ■桂橋西詰~西山別院
 車道を進んで行くと、京都六地蔵巡りの霊場●「桂地蔵寺」がある。本堂に安置される地蔵菩薩像は平安時代の初め小野篁が一度息絶え冥土へ行き、そこで生身の地蔵菩薩を拝して甦った後、一本の桜の大木から六体の地蔵尊像を刻み、木幡の大善寺に祀った六地蔵の一つといわれている。その後保元2年(1157)平清盛により都の安泰を祈るため都に通じる六つの街道の入口にそれぞれ安置された。 広い交差点を右折して行くと、左手に●道標が立って、「左 むかふ町、あわふ、ながをか、やなぎ谷」、「右 西山御坊、よし峰、大原の、岩くら」と刻まれている。真っ直ぐ行くと突き当りに道標に出てくる●本願寺西山別院(西山御坊)がある。 平安時代、桓武天皇の発願により、最澄が創建した「久遠寺」が前身である。   11:10

■西山別院~樫原
 阪急の踏切を越えるとすぐ右手に●大宮社がある。松尾七社のひとつ。しばらく進むと右手に●風格のある京町屋が建っていて、「歴史的意匠建造物」に指定されていた。
 更に進むと、●樫原(かたぎはら)交差点に出た。交差点の先に続くのが山陰道最初の宿場となる樫原宿の町並。11:35 

 ★樫原宿
 樫原は山陰道と物集女(もずめ)街道が交わるところで、ここは古くから交通の要所として栄え、江戸時代には山陰道の一番京よりの宿場町が置かた。現在も古い家並みがよく保存されていることから、京都市の「界わい景観整備地区」に指定されているという。
 宿に入ってすぐ左手に●郷倉というのがある。江戸時代に村々に設けられた米穀を収蔵する倉であるが、元々、桓武天皇が平安京に遷都し、樫原などに各地に年貢米等を納める「郷倉」を造ったということが起源になっている。
 郷倉の前に●「勤皇家殉難之地」という案内板が立つ。蛤御門の変で長州軍の3名の兵士がこの付近で小浜藩兵に囲まれ討たれて果てたという。  その斜め前に●龍淵寺があり、●辻のお地蔵さんという地蔵が祀られている。由来の案内板     11:40

■樫原~三宮
 樫原宿を進むと、大きな町屋があったり、左手に●「揚げ素戸ばったり床机」を備えた民家がある。その先の右手に●樫原本陣跡の大きな屋敷が建っている。案内板によると・・・・「最奥の六畳は上段の間に作り、欄間、床、違棚のある書院造り、奥の間の六畳と四室が続きで、その他の七部屋のあわせの構えは誠に立派の一言につきます。安政2年(1855年)に山田の豪族足利直系の玉村新太郎正継が継承し、今日まで5代、大切に維持されています。・・・・という。
 宿の西端は札場があったので●「札の辻」と言われている。左手の赤い鳥居は三ノ宮神社御旅所。  11:50

■三宮~樫原秤谷
 ●「札の辻」には天保14年の愛宕灯籠や「左松尾嵐山道」と刻む道標が置いてある。
旧道は正面の民家の細い道をゆっくり上がって行く。左側に池を見ながら進み、またさっきの道に合流して進んでいる。やがて右手の林に●「樫原札の辻 三士殉難の地」の案内板が立っており、右手の竹林の中に●墓地がある。どれかはわからないが、明治維新の「蛤御門の変」で戦って逃れる途中で捕らわれた長州藩士3名の墓が森の奥にあるという。
 その先は●国道9号線樫原秤谷交差点である。右手に竹林の小山があり、その中を通って行くはずである。交差点を渡るとパチンコ店になっていて、道がわからない。よく見ると駐車場の左に竹薮へと上っていく仮設の様な道があり、竹林の中に入って行くようになっている。   12:00

 ■樫原秤谷~塚原
 ●竹林の間を通って風情ある旧道をしばらく進んだ。左手に地福寺がある。大枝地区はたけのこの名産地であるらしい。
 そのうち右手に●三宮神社がある所へ来た。参道の途中で宇波多陵参道が左手へ分岐している。●宇波多陵は桓武天皇夫人、贈皇太后・藤原旅子の御陵で苔むしたような参道が印象的に続いている。もちろん宮内庁管理の御陵である。12:40

■塚原~沓掛
 下り坂を下りてきて左手に大枝小学校があり、府道にぶつかる角に珍しく●茅葺き民家がある。
 しばらく府道を進むと右手に●兒子(ちご)神社。小さな神社だが、参道が真っ直ぐ延び、両側常夜燈がびっしり並んでいる。聖徳太子の幼時の像が祀られているところから、兒子神社と呼ばれているという。
 更に進むと●「山陰道沓掛」という地区に到着した。沓とは馬用のわらじで、沓を取替え、ついでに旅の安全を祈ったなどという意味だろうと思う。    13:15

 ■沓掛~京都霊園入口
 すぐ右手に●大枝神社がある。「延喜式」では乙訓郡大井神社と記載されている。現在は沓掛町の氏神として祀られる。
 そしてすぐ先の右手に桓武天皇の母である高野新笠大枝陵の石碑が立っている。平安京を開いた桓武天皇の母親の●御陵がこんな所にあるとは思いもしなかった。入口から細い山道のような参道を上がって行くと正面にあった。
 やがて道は国道9号線の高架に出合い、しばらく進み、京都成章高校の隣に●「京都霊園」への入口が見える。13:42

 ■京都霊園入口~老ノ坂峠登口
 参考資料の本ではこのまままっすぐ国道9号を円弧状に行って、新老ノ坂トンネルの上を通るように指示されているが、多くのHPでは京都霊園を左手に見て進めという説が多いので、それに従って、霊園の中に入っていく。別に誰でも入れる様だ。
 入ってから右手へ進み、●京都縦貫自動車道に沿った道を進んでいく。管理事務所との脇を通って先に進むと、道は二股に分かれ、左は黒いゲートで閉ざされている。右の道は車止めのチェーンが行く手を塞いでいる。そのままチェーンをまたいで右側の道を進んで行く。やがて●行き止まりになるがフェンスの右に山に入る道がある
 しばらく登って行くと●砂利袋がびっしりと敷詰めてある道に出会った。誰にも出会わないのでいささか不気味な感じ。13:58

 ■老ノ坂登口~老ノ坂峠
 ●京都市西部クリーンセンターへ通じる道路の下をくぐる。坂を下りると舗装路に出た。そのまま進むと、左手に●首塚大明神の社がある。源頼光等が征伐した酒呑童子の首を京へ持帰る途中、この老の坂で首が持ち上がらなくなったので、この場所に首を埋めて首塚をつくったと伝えられている。
 このまま道なりに進むと左手に●国境碑が立ち、「従是東山城國」と刻まれている。ここで山城国から丹波国に入る。その先には人家が数軒有り、右手に「京都の自然二百選、老ノ坂峠(山陰道)」の標柱が立っていて、ここが老ノ坂峠と思ったが、ちょっと先に急激に下がる地点がありここが●老ノ坂峠と思われる。天正10年(1582)明智光秀が本能寺へ向ったという峠である。両側に竹林が広がり、車も人も通らない寂しい峠になっている。ただ道自体は切通しになっていて、昔とは相当様相が違うのでは無いかと思われる。  14:12

 ■老ノ坂峠~亀岡市桜木
 急な坂道を下りきると、京都縦貫自動車道が目の前に現れ、●トンネルでくぐる。縦貫道は上りと下りが別々の2本になっており、その間に設けられた道路を通って行くと国道9号線手前に出る。
 ●合流手前の農道が旧街道で、しばらく国道と併行しながら進んでいく。王子橋手前で国道を渡らないといけなかった。
 信号が無いのでちょっと大変だったが横断して、右手へ進むと旧道への分岐道があった。そこを入ると国道とは一転し、のどかな●田園の中を進んでいた。  14:32

 ■亀岡市桜木~王子
  田園の中を進んだり、また●細い山道の様な道に入ったりしながら行くと、右手に●占い石というのがある。昔この石に辻占師が座り、旅人はに旅の吉凶を占ってもらったといわれているとか。 その先小川が分岐するあたりに●船着き場跡という看板が立っている。保津川の支流のようなので昔はここまで船が入れたのだろうと思う。  14:45

 ■王子~篠村八幡宮
 やがて●府道(王子並河線)に合流する。正面の建物は「京つけもの もり」というお店。その左隣に●王子神社がある。祭神はイザナギノ、イザナミ。昔は闇宮(くらがりのみや)と呼ばれ、街道を行交う旅人が行旅の安全を祈願したという。
 この先ずっと亀山市内までこの府道と同じルートになる。十数分も歩くと●篠村八幡宮の常夜燈の所へ来た。 15:04

 ■篠村八幡宮~年谷橋
 ●篠山八幡宮は元弘3年(1333年)足利尊氏が当社に願文を奉ると共に上差の鏑矢一筋を奉納して、京都六波羅北条仲時を討ち建武中興のさきがけをなしたという由緒を持つ。境内に高氏が戦勝祈願に』戦勝祈願として矢を奉納しその矢を埋納したという●矢塚がある。 神社を過ぎて、しばらく進み、馬堀に入って●年谷橋を越える。かってこの両岸の堤防上にみごとな松並木が続いていたという 。   15:57

 ■年谷橋~旅籠町
 年谷橋を越えると●亀岡の城下町に入る。東堅町、西堅町を進むと突き当りに●古世地蔵堂。祀られているのは源頼政ゆかりの●矢の根地蔵。その地蔵堂の脇に道標があり、「右 穴太寺 そのべ 能勢 」などとある。
 地蔵堂の先の右手には、●「丹山酒造」。創業は明治15年。蔵造りのどっしりとした建物。    16:12

 ■旅籠町~本町
  その先を左折すると●旅籠町。旅籠町というからには旅籠が並ぶ宿場であるはず。本陣跡は●亀岡病院であるらしい。宿場の面影は全く感じられない。
 角を右折すると新町という。亀山城の大手門に通じる通りに沿って形成された所。すぐ先の食堂の所に●高札場があったという案内板が立っている。 ここを左折して本町街道は西に折れ本町に入ります。   16:20

 ■本町~西町
 本町に入ると右手に●山脇東洋と書いた看板が立っている風格ある屋敷が建っている。東洋は宝暦4年(1754)、人体解剖を六角獄舎で行い、その成果を「蔵志」と名付けて刊行した。父も医者でここは生家だろうと思う。
 突き当って右折。紺屋町に入ると関酒造があったりする。円通寺の先は●枡形の様に曲っている。その先の●西町の交差点の所で今回の歩き旅を終えることにした。
 山陰街道は左手の方向に進んでいく訳である。右手奥には光秀が築いた亀山城がある。現在ではなんと、宗教法人「大本教」の本部の所在地となっており、観光気分で見学とはいささか気が引ける感じだが、申込めば見学できるという。16:35