志賀(山中)越道を歩く 
        (荒神橋~滋賀里
 歩行地図はこちら 地図
 荒神橋-吉田神社-北白川-山中町-志賀峠-崇福寺跡-滋賀里        10.7km

志賀(山中)越道
 平安時代、京都から琵琶湖方面へ行こうと思うと
 1 京三条から日ノ岡峠、逢坂の関を越えて大津へ至る道
 2 北白川から、山中町を通り、志賀峠を越え滋賀里へ至る道があった。現在この道は途中で府道、
       県道30号線と合流し、通称、山中越と呼ばれている。
     30号線はそのまま大津京へ抜けているが、志賀越道は、途中の山中町より旧道へ入り、志賀峠を
      越え、かって存在した崇福寺を通って滋賀里へ至る。京都から坂本や北陸道へ繋がる道として良く
      使われていた。今回ここを歩いて見ました。
 参考書「京の古道を歩く 増田 潔 」。
      「京都の地名検証3 京都地名研究会」
    
志賀峠付近は/25000の地図にも道の記入が無く、現地の標識に従いました。
  

2011年7月24日 10:00 ※ 写真をクリックすると拡大します
■荒神橋~北白川バス停
 志賀越えの出発点は、●荒神橋で、京の七口の一つの荒神口があった所といわれている。荒神口の名前は、名前の由来は少し西側の護浄院に荒神がまつられていることによる。荒神橋が架けられたのは大正3年のこと橋の親柱には立派な文字が、深い彫りで「くわうしんはし」と刻まれている。
 鴨川を渡るが、川を横切る飛び石があって、何故か
石造りの亀が何匹か泳いでいる。
 橋から少し北へ上がり、「日本キリスト教会」脇から
●旧道が北東斜めに残っている。 旧道は程なく●東山東一条の交差点で、京都大学によって通せんぼされてしまうので、しかたなしに南側の迂回路を進みます。角に小さな鉄枠で補強された道標がぽつんと立っている。ちなみに京都大学がじゃましているわけでなく、江戸時代の尾張屋敷があった為旧道が寸断されてしまった。
  10:20   

 迂回路を真っ直ぐ進んで行くと●吉田神社鳥居が見え、吉田神社の参道に突き当る。 
★吉田神社

 春日神である建御賀豆智命、伊波比主命、天之子八根命、比売神を祀る。貞観元年(859)、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。 文明年間(1469~)には吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し、吉田家は全国の神社の神職の任免権などを持ち、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。●本殿は春日造で慶安年間(1648~)の建立で4座が並ぶ。
 境内の●大元宮は八角形の本殿に六角の後房を付けた、極めて変った形をしており、当社に参詣すると全国の神社に詣でたものと同じ効験があるといわれている。

  北白川バス停~北白川天神社
 京都大学の敷地の2辺を歩くと、東入口当りから、再び●旧道が復活し、斜めに今出川通へ向っている。今出川通に出会う所に●2体の大きな石仏が鎮座している。鎌倉時代の乍と伝えられる。両方とも大日如来の碑があるが、左側の方の摩滅が激しい。左手に道標が立っていて、 南…左 三條大橋 二十五丁 祇園 清水 知恩院  東西本願寺 一里半
        すく…比ゑいさん 唐崎 坂本   などと彫られている。
 今出川通の北白川バス停付近から左斜めに旧道は進んでいるが、その角に、●子安観音の大きな石像がどっしりと座っている。これも鎌倉時代の作で、阿弥陀如来という。太閤秀吉が聚楽第に移したら、夜々不気味なうめき声をあげて、白川へ返せと鳴動するので、早速もとの北白川の地に戻されることになったという逸話があるそうだ。   11:05

  斜めに旧道を上がると、●疎水分流の遊歩道が左右に続き、旧道らしく黒壁で、蔵を備えた旧家や、この先は「白川石」や「白川砂」の産地となっており、石材店が左右に並んでいる。右手にある北白川天神宮の参道に架かる、●天神橋は白川石の代表作といわれる。 この神社の入口右手に●花塚というのがある。いわゆる「白川女(しらかわめ)」を記念する碑で、白川女は北白川に住み,四季の草花を頭上に載せて京都市内を売り歩いた女性のこと。時代祭には白川女の花列が出る。   11:18

  ■北白川天神社~身代り不動尊
 花塚の奥は●北白川天神宮。祭神は少彦名命。当初白川村の久保田の森(現北白川久保田町)にあって、北白川一帯の産生神として祀られていたが、 文明年間(1469~)に足利義政の発願により当所に移された。 また江戸時代には照高院晃親王の崇敬を得て「天神宮」としるした額を賜り、以後「北白川天神宮」とよばれるようになった。
 仕伏町バス停の角に●道標が立ち、「左 勝軍地蔵道 白幽子道 右阪本道」と彫ってある。白幽子とは、江戸時代に白川の山中の岩窟に住んでいた隠士のことをいうらしい。 道は交通の激しい、●歩道もなく山中へ続いている。脇を「白川」が流れている。    11:40

  途中右手に●「北白川宮、御精米所 御殿車」という石碑が立っており、何だろうと調べてみたら、北白川宮は,、明治初期、伏見宮邦家親王の子・智成親王が創設した宮家であり、現在の北白川仕伏町に屋敷があった。当時の白川には,水流を利用して精米などをする水車が多く設けられており,宮の屋敷で用いられる米は,この地に設けられた水車で専門に精米されていた。この地の水車は「御殿車」と呼ばれ,明治40年ごろまで製粉業などを続けた。この石碑は,「御殿車」と呼ばれた水車の跡を示すものである・・・。ということだった。 右手の白川を渡った崖の上に日天寺があるが、参道というのが、とんでもない●急な石段で、脇に荷物用のエレベーターのレールがあったりして、とても上る気がおきず通り過ぎた。
 しばらく歩くと、左手に●修験宗「北白川 身代わり不動尊」のお堂が見えてきた。真ん中に不動明王、脇に役行者と大日如来を祀る。   12:01

  身代り不動尊~山中町
 少し上がった、地蔵谷バス停には、北白川天然ラジウム温泉がある。 なんでもラジウム含有量においては、関西一位、全国二位なのだとか。 隣に●不動院がある。さっきの身代り不動尊は聖護院系修験宗であったが、こちらは醍醐派の修験宗である。古くより京都御所の鬼門除けの守護と山中越えの交通安全として不動明王尊像を安置されたのが当不動院の縁起でありという。
 山中バス停の手前に右手に入る●旧道が残っている。下りて行くと廃屋がありそこに相当古いが、●国境石が立っている。「従是西南山城国 従是東北近江国」とある。 そしてその前に「重ね石」というのがあり、二つ重ねの岩に小さな地蔵が4体浮彫りにしてある。この旧道はすぐ行止りになって、階段を上がって一旦国道へ出る。    12:25

  山中町~志賀峠入口
 階段を上がると目の前に小さく山腹をうがって●石仏が祀られている。はっきりしたことはわからないが、顔からすると「役の行者」ではないかと思われる。
 山中バス停で旧道は右手に取り、山中町に入って行く。入口の左手に大きな●宝筐印塔が建っている。鳩居堂7代目、熊谷直孝が亡父の追慕と旅する牛馬の道中安全を願って、文久元年(1861)に建立したという。 ●山中町に入る。山中町は志賀越道のほぼ中央、深い山中に開かれたところから生れた。桜や紅葉、山の井の清水など古来から数多くの歌に詠まれてきた。旧家や寺院があちこちに残る静かな趣ある佇まいが残る。  12:35

  左手に●地蔵堂。 中央あたりに●西教寺という寺がある。山門の左側に●阿弥陀如来の大きな石仏がある。大部痛んではいるが、花崗岩の一石掘りで、鎌倉時代の末期頃の作とされている。山中越の旧道に面し、道行く人々の安全を祈って造られた。
 12:40

  ■志賀峠道
 
やがて旧道は県道30号線に合流する。この30号線は永禄13年(1570)以降、信長の命により開かれた、「新路」の現在の姿で、琵琶湖の湖西を通る国道161号に繋がり、交通量が多く、とても歩けたものではない。今回はここをさけ、平安時代からの旧道「志賀峠越」を歩くわけである。
 合流する地点に●志賀峠へ至る旧道があり、車は通れず、「志賀峠1.5km」の標識が立っている。
 旧道に入ると、左側に●「鼠谷川支流第1砂防堰堤」という大きな砂防ダムが造られ、右側のガードレールの付いた道を進んだ。やがて左眼下に常夜燈が見えたので、間違ったと思い、戻ったら、ダムへ下る道があったので、下りて進んだ。
 しかしなんか川床を歩いているのではと思い、少々不安になったが、●常夜燈2基に出会った。脇に道標があり、「左むどうじ道 ・・・・」となっていて、比叡山無動寺へ至る。中世以降延暦と京を結ぶ道となった。「志賀峠0.9km」の標識もあって、間違いないと安心をした。   13:15

  しかし少し進むと、目の前に又変った形の●砂防ダムが現れ、やっぱり川床の道を歩いているのではないか、大雨の時はここは川になるのかと不安になってきた。ダムの真ん中を通るのかと思ったが、脇に急な木段が付いており、通らずにすんだ。
 標識が立っているので、不安はなかったが、人が歩いている気配がなく、●道の痕跡が消え●標識が隠れるくらい、草が高く茂ってしまっている。 その上地面が砂地で、水が流れ、油断すると水たまりに足を突っ込んでしまうので、堅いところを探し、1m位の水路を2,3跳越えなどしながら進んだ。このあたり地図に登山路が書いてなく、GPSに入力がないので、迷うかもという不安で焦ってしまった。  13:35

  「ふれあいのもり0.1km」の標識を過ぎると、やがて●トンネルに出た。「比叡山ドライブウエイ」の下である。ここらが志賀峠らしいが、標識がない。トンネルを過ぎると右手に頭部の欠けた「峠の地蔵」があると聞いていたが、見逃してしまったようだ。琵琶湖も樹木が繁茂しており、見えなかった。ただ回りを見渡す余裕がなかったので見えていたのかもしれない。
 「急坂注意」の案内がある●急坂をダダっと下ると、ようやく●砂利道へ出た。 この間ほとんど廃道に近く、平安時代から賑わった道とはとても思えない。   13:47

 ■志賀峠~滋賀里
 崇福寺跡の案内板の前に来た。ここから100m登るとある。志賀峠越えで疲れてしまったけど行かねばなるまい。●崇福寺跡に来た。志賀寺、志賀山寺ともいい、天智天皇が夢のお告げにより勅願して建立された。平安時代には十大寺に数えられる位に繁栄したが、延暦寺と園城寺の争いに巻込まれ鎌倉時代後半(下の看板では中期)の廃絶してしまった。金堂、講堂などの礎石だけが残っている。
 さらに少し進むとお堂の中に安置された●志賀大仏が見える。石像阿弥陀如来像である。志賀越えの出口にあたる。北白川の大仏、西教寺の阿弥陀如来、そして終りの志賀大仏とそれぞれ3体の石仏が一里塚の役目も兼ね、旅の安全を祈ってくれるかのようである。
 途中右手に大石に●浮彫りされた石仏、(阿弥陀如来と思う)、がある。相当摩滅している。   14:25

  顔に虫がまとわりつくので、ハンカチを振回しながら下って行くと、●百穴古墳群があった。1400年前の古墳時代後期に造られた墓が集った所という。ドーム状の天井を持ち、ミニチュア炊飯具セットが一緒に収められているという特徴を持つ。
 さらに下りていくとようやく●琵琶湖が広がってきた。「近江富士」という三上山が見える。   14:35

  左手に●志賀八幡宮がある。青竹の鉾を使った秋祭が有名とか。
 ●京阪線「滋賀里」駅に着いた。ここから「坂本駅」へ向い、家路についた。但し写真は反対側の石山行で、坂本行はしばらくこなかった。京都から琵琶湖へ抜けることができたが、志賀越道は崇福寺が衰退するに従って、衰退したようで、その後は無動寺へ向う「今路道」、比叡山を越える「雲母坂越え」と呼ばれる道が賑わったようである。 志賀峠は冬場の方が樹木が枯れて歩きやすいかもれない。    15:10 終了