古代の道 その2 
  はじめに
  ローマの場合
  飛鳥時代
  奈良・平安時代
  道路の発掘
  鎌倉時代
  社寺参詣
  戦国時代
  秀吉の時代
  五街道制度
  伝馬制
  宿場制度
  飛脚制度
  宿場の設備
中世の街道

 鎌倉時代

 1192年 源頼朝は鎌倉に幕府を開く。平安時代、交通は京都と地方との交通が主軸となっていたが鎌倉幕府成立とともに、地方と鎌倉との交通が非常に重要となったのである。又在京の六波羅探題府と鎌倉との交通も政権維持には欠かすことができなくなり、その為にも駅制の復活が図られた。駅制整備の結果,鎌倉京都間は3,4日に短縮され幕府の安定に寄与することとなった。
  また御家人は封建的義務のため、鎌倉に参内する必要があった。制度上でも御家人達は鎌倉におもむき将軍から所領の安堵を受ける必要もあった。この義務は西国の御家人には必ずしも必須というわけはなかったが、積極的に鎌倉に出かける御家人が多かった。このようにして全国と鎌倉を結ぶ交通の必要性が高くなり、街道も整備されてきた。

 こうして鎌倉と地方とを結ぶ街道はやがて、すべて鎌倉街道と呼ばれるようになった。西国、京都からの道も鎌倉街道と呼ばれるようになる。中でも有名なのが

上 道
 おおむね東山道武蔵路のあとをたどっる道で、鎌倉から境川左岸沿いに北上し、武蔵府中・堀兼を経て入間川に至り、上道上野線と上道下野線に分岐する。上野、笛吹峠・菅谷・児玉を経由して上野国に至り、信濃国に向かう道である。下野線は、高坂・村岡・太田・足利を経て小山に至り、小山で中道と合流する。他にも各所で分岐する。

中 道
 鎌倉から戸塚方面に向かい、横浜市港北区・日吉、中山を経由し、現在の港北ニュータウンのあたりより、田園都市線に近似したルートで二子玉川、渋谷へと進み、そこから新宿、赤羽、川口、岩槻、栗橋、古河、小山、宇都宮と北上していくルートです。

下 道
 鎌倉から朝比奈切通を越え、六浦津より房総半島に渡り、東京湾沿いに北上して下総国府、常陸国に向かうとされています。

       地  図
   


社寺参詣の発

 鎌倉・室町にはいるとまず社寺参詣の発達が見られた。
 古代からの旅は年貢運搬や参内の義務からなど強制された旅であった。物見遊山的な旅はありえず、それでもやむにやまれず行われたのが社寺参詣の旅である。鎌倉以後各地に宿場が自然にできてきており、それらも人々の旅をやりやすくさせていた要因となった。
  
熊野詣参詣
 平安時代は行われたのは熊野詣でである。特に貴族の参詣が盛んであった。熊野山側でも武士階級に対して布教を盛んに行い鎌倉時代には毎年参詣する地頭も出たと言われるくらいであった。

伊勢参詣
 鎌倉時代になって伊勢神宮側に経営の困難さが出始め、積極的に参詣を誘致し始めた。伊勢神宮の国家最高の神である性格が幸いし人々の間で一生に一回は参詣せねばならないというような観念が生まれてきた。

高野詣で
 弘法大師への強い信仰から、高野山に参詣する者は伊勢神宮詣でについで多かったと言われる。

本山詣で
 一般に日本仏教では宗派意識は希薄であった。しかし鎌倉以後発生してきた、日蓮宗、浄土真宗などは一神教的な色彩を持ち本山詣でが推奨された。

西国巡礼
 四国八十八国巡礼などは平安末に始まったといわれるが、室町以後一般人の巡礼も始まってきた。

戦国時代

 戦国時代に入って、領国という概念で支配されるようになり、大名も自分の両国の交通、流通は奨励し領域内の関所は解消されるようになっていった。
 宿場、食事を提供する旅籠屋も発達してくる。それが江戸時代に引き継がれていく。宿場制は江戸時代に造られたわけではない。

 関所の氾濫

 中世の交通は地方領主の成長に伴う地方産業の発達があり、商品の輸送が盛んになっていったのであるが、反面地方が勝手に関所を置き通行料や警備料を徴収するようになり、交通の発達に大きな障害となっていった。室町幕府が権威を失った14世紀頃には大坂淀川には河内だけで関銭を取るところが616カ所もあったという。幕府も取り締まる力を持たず、結局関所撤廃は信長の時代を待つしかなかった。
 
秀吉の時代
 
 秀吉は統一国家を実現すると共に、さらに積極的に商業と交通の発展に力を注いだ。

  1 関所の撤廃
  2 楽市・楽座のの設置
  3 道路の建設
  
  こうして江戸幕府の5街道制度になっていくのであるが、その基礎はほとんどこの時代に造られていた。

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