北国脇往還を歩く
        (関ヶ原から木之本まで)
 歩行地図はこちら  地図
 関ヶ原-玉-藤川-平林-春照-小田-今荘-佐野-八島-最勝院-伊部-郡上-雨森-田戸-木之本     34.4km

 北国脇往還
 
   江戸時代、二つの道が北国街道と呼ばれた 
 
 1 長野県追分けで中山道から分離し、善光寺を経て直江津で北陸街道
   に合流した道。
 2   滋賀県の鳥居本から北上、木ノ本を経由し福井県今庄で北陸街道
   に合流した道。

  しかし、近世、江戸への参勤交代で越前の諸大名は今庄から木之本を
 経由し、関ヶ原で中山道に合流する北国脇往還を利用することが多かった
 といわれる。
  戦国時代、秀吉が大垣から52Kmを5時間で駆け抜けた「秀吉の大返し」
 の経路でもあり、歴史的にも興味ある道でもあります。
  宿場は藤川、春照、小谷の各宿が置かれていたここを2回に分けて歩い
 て見た。 全長 35km程度
 
  参考資料
    「歴史の道調査報告書 北国脇街道」  滋賀県

 2013年7月7日
■関ヶ原~東首塚
 米原経由で関ヶ原駅下車。駅を出て直ぐ国道21号へ出る。国道は旧中山道であり、4年ぶりの再訪となった。国道右手に●十六銀行があり、その脇から北へ延びる狭い道が北国脇往還の起点となる。道を入って行くと正面に八幡神社があり、左へ回り込んで、JRの線路を跨ぐ跨線橋を渡る。すると橋を下りた左手に●東首塚がある。関ヶ原合戦で討取られた西軍将士の首は家康によって首実検され、その後塚を造って懇ろに供養した。ここにはその塚や、首を洗った古井戸などが残っている。
 関ヶ原製作所の裏手、ひなびた感じの●脇往還道を進む。   9:30 

 ■東首塚~玉 
 右手に●陣場野公園がある。家康の最後の陣地という所で、戦が佳境に入ると桃配山からここへ陣地を移動させた。周囲の土塁や中央の天保12年(1841)幕府の命により領主竹中家がきずいたもの。
 道は国道365号に合流してから、「小池南」の信号で左手の脇道へ入って行く。ここを道なりへ進むが、このあたりは西軍の陣地跡が散在する地域で、史跡には事欠かなく、見て回っていると時間がなくなるので、島津の陣地跡ぐらいは見ておこうと思った。 
 左手に●「左 小池道」、「島津陣地及び開戦地」の道標が立つ所を左へ入って行くと、●島津義弘陣跡があった。義弘はここから有名な「敵中突破」の作戦に打って出た訳だ。
 旧道へ戻ってまた町中を道なりに進み、国道21号の高架をくぐり、直ぐ先を左折して少し行くと右に北保育園がある。保育園を過ぎて行くと●県道またぐ歩道橋がある所へ来た、歩道橋を渡って直進する。    10:00

★玉集落
 ●玉の集落に入って行く。この変った名前の由来は「日本書紀」の壬申の乱の記事に見える「玉倉部」という地名に比定されて、壬申の乱の最初の戦いが始った場所であること位しかわからない。調査報告書では美濃国玉宿と書いてあり、近江の藤川宿と二宿で一宿場の役割を果していたと説明されている。人気がないが、結構古い宿場の雰囲気が漂っている。
 左手奥に●奥平貞治の墓がある。貞治は家康から小早川秀秋の監視に派遣され、大谷隊を攻撃する際先頭に立ち、松尾山で奮闘戦死している。
 先に進んで行くと●舗装路から山道へと変ってきた。    10:24

■玉宿~藤川
 国道の下を藤古川に沿って進むと、滋賀県の県境にあたる。右手に●夫婦岩の片割れと見られる岩があるが、説明板もないのでなんともわからない。
 この道は脇往還には違いないのだろうけど、●段々草むした山道になってきて、廃道といった感じ。少し藪こぎをしないといけなくなってきた。左手は川の岸壁になっており、草でおおわれて縁がわからず、下手をすると足を踏外して川に転落という恐れがある。
 やがて前面に川の支流が現れ、橋がなく前進が不可能になった。前面には町の水道施設がある。やむをえず土手を右手に上って国道のガードレールを乗越えた。
 国道に出て少し進むと●県道531の標識があり、右折して坂道を上ると藤川の集落に入る。   10:45 

★藤川宿
 藤川は近江に入って最初の宿場で、ここから春照(すいじょう)、小谷(伊部、郡上)の宿を経て北国街道、木之本宿へ通じている。往時は玉宿が上り(木之本方面)の荷物を扱い、藤川が下り(関ヶ原方面)を扱っていたという。
 坂を上って行くと右手の立派な門構えの屋敷が●藤川本陣の林家。建物は明治期に改築されているという。その先の土蔵がある家が●脇本陣を勤めた林家と思われる。
 十字路にぶつかるが、手前右側に石垣があり、内側に庭園状の遺構が残る。ここが●藤原定家の寓居跡と伝えられている。藤原定家は鎌倉時代の歌人で。父親から一時勘当され藤川に数年隠棲したと伝わる。
 藤川宿の中を貫くのは県道531号で、●宿の中を真っ直ぐ進む。  10:55

 ■藤川~平林
 県道はやがて大きく弧を描いて左にカーブしながら藤古川を渡る。その先で右へ入る道があり、そちらを進んで行く。
 ●寺林の集落に入ってきた。寺林は藤川と郷を同じくする集落で、問屋や茶屋、酒屋、医者などがあり、藤川宿と一体となる宿場であろうという。
 すぐに●八坂神社に出た。その先の左側の三叉路に●地蔵尊と数体の石仏群があり、その横に●木製の道標がある。行き先を書いた小さな板数枚が色んな角度で打付けてある面白い道標で、右手に行くと京極氏の上平寺城館跡がある。ここは曲ることなく真っ直ぐ向う。    11:15

■平林~大清水(寄道)
 道標から少し行くと●山道に入ることになった。ここを抜けるとトラックが通る広めの町道へ出る。町道を真っ直ぐ弥高方面へ向うわけだが、そのまま行っても面白くないので、少し寄道をしておこうと思った。
 途中で斜め左手へ入り、大清水へ向うことにした。大清水へ向う道は県道531号になっており、林間道である。途中「クマ出没注意」の看板があって、ちょっとビックリ。
 左手の立勝寺脇から南下して、道なりに左方向へ進んで行くと●泉神社があった。ここは環境庁の「日本の名水100選」に指定された湧水で有名。
 この水は伊吹山の伏流水で日本武尊の居醒の水、小栗判官が病の平癒を祈願された命乞いの水として由緒深いものである
という。●取水場には沢山の人がボトルに取水していたけど、水はジャージャーと流れ放題となっていてもったいないかなと思う。神社から戻って来て、「大清水バス停」の所に●「名水の里 大清水」の大石碑が建っていた。    12:08

 ■大清水~春照宿入口
 町道へ戻って西へ進む。旧道は途中の伊吹工業団地のあるあたりは、林の中を蛇行しており、たどれるかなと思って、林の中を強行侵入して、少し藪こぎしてみたが、通行が困難であきらめて町道へ戻った。
 弥高大橋を渡った先を左折すると、●「野頭茶所跡」の石碑と、芭蕉の句碑がある。
       ・・・・・「頭巾めせ 寒や伊吹の 山おろし」・・・・・この句は加賀の千代女の作との説もある。
 ここから先は町道、県道を真っ直ぐ行けば「春照宿」へ出るわけだが、ここは調査書の説による、●「薬草の里文化センター」と健康プラザ「愛ランド」の間の道を進み、県立運動場の南脇から町民グランドに出て、グランドの北側の道を途中で北に折れて秋葉神社のお旅所に出る。ここで西へ曲って・・・・というルートに従って歩いてみた。 が、地図を見ても県立運動場や町民グランドの記載がなくて、適当に進むことになってしまった。適当に進んだら「滋賀銀行」の脇に出て、そこを少し西へ行くと●春照宿」の入口へたどり着いた。   13:05

 ★春照宿
 春照宿(スイジョウ)は北国への街道であるとともに、長浜から大津への湖上交通路の中継点でもあった福井、鯖江、小浜などの各藩と共に、ときに加賀前田藩が参勤交代の折りに利用している。本陣1軒、脇本陣2軒を始め旅籠屋茶店が軒を連ねねていた。しかし度々大火に見舞われ、古文書等はあまり残っていないという。
 入り口に●常夜燈が立つ。秋葉神社の常夜燈で、宿の南端にあたる。南西に下る真っ直ぐな道は「ステンショ」道と呼ばれ、明治16年から22年まで関ヶ原-長浜まで鉄道が通っていたときに「春照駅」が置かれていた名残である。
 ●宿内を北上して現在の街の中心街へ向う。平行した県道の方には町庁舎、郵便局、銀行などが並んでいる。右手に空地がありここが●本陣跡である。木原家を名乗っていた。その南側が脇本陣の木原家というがよくわからず、北側が●脇本陣市川家という。ここも往時の雰囲気は感じられず、違うかもしれない。   13:20

 ■春照~小田
 春照宿本陣跡を北上すると直ぐに川を渡る。左手に商家の面影を残す●福永伝四郎酒店がある。
 突当たって左斜めに直進すると●八幡神社に出て、道は直進と左折とに分岐する。神社の石垣上の道角に立派なな石道標があり、左へ行くと長浜へ向う長浜街道で、脇往還は右の道を取って●のどかな田舎道を進む。  13:35

  しばらく行くと山東町に入り●小田の八幡神社へ着いた。本殿は檜皮葺で素朴な感じ。脇には水量豊富な出雲井が流れている。神社の北西角に●小さな道標があり、「右 江戸道 左山中道」と刻まれている。
 出雲井が流れる水路沿いに進んで行くと●小田分水というのがある。出雲井の流れを三つに分水する農業施設で、昭和28年に整備された。貴重な水を公平に分けるための知恵がいかされている。
 少し戻ると●道標があり、「「右 北国 左長浜」と刻む。
 道標の脇を通って、県道の下をくぐって行くと、●一面の水田の中を真っ直ぐ旧道が通っていた。  13:55

 ■小田~今荘町
 姉川の土手にぶつかって上がって見ると、目の前に●旧「小田橋」の橋脚だけが立っている。一昔は木製の橋が架けられられていたらしいが、一度架け替えられてから、そのままでコンクリート製の橋脚が残っているのみである。
 ここは左へ迂回して「井之口橋」を渡り、元の橋脚の所へ戻って、坂をずっと上がって行くと、板浅東部広域農道に合流する。合流した先、米原市と長浜市の境手前で脇道へ入るのであるが、入り口がわからず、しばらく右縁を睨みながら進むと、奥へ入る口がかろうじて見つかり、林の中を●こぎれいな林間道が北西に続いているので、そちらを進む。
 左手に●北国脇往還の案内看板が立っていてちょっと安心した。
 ずっと進み相撲庭から今荘に入ると前面に●今荘観光ブドウ園が見えて来た。   14:50

 ■今荘町~佐野町
 広域農道を横断して進むと右手に●天津神社鳥居あり、参道が延びている。両側が桜並木で春はさぞやきれいな景色であろうと思う。ただ参道は横断する道路で分断されトンネルになっているのが少し興ざめな感じ。
 石川谷川を渡り佐野町へ入る。左手に●轟神社がある。やがて道は突き当り左折して進む訳だが、突き当りの所に●地蔵堂と石仏が沢山祀られていた。    15:20

 ■佐野町~八島南
 地蔵堂を左折してから農道を右折、左折して、ジグザグに進んで行くが、本来の街道は北西へ斜めに進んで、野村へ入り、野村公会堂の脇を進んでいる。そんな訳でこちらもなるべく旧道をトレースするように農道をカクカクと進むようにした。
 途中●水路がある斜めの道の脇に「北国脇往還」の看板が立っている道を進む。
 野村公会堂の前を過ぎると●北国脇往還の道標が立っていて、「右 北國道 左江戸 谷汲」と刻んである。
 野村西信号で国道365号に合流する。ここからしばらく国道沿いに歩くことになる。一部フレンドマート前を通っている。
 草野川橋を渡って内保東交差点に来ると、時間も遅く、暑くもありで、予定外ながらここで打切ろうと思い、「虎姫駅」への案内板もあったりしたので、駅へ向うことにした。   15:50
  しかし これが大間違いで2~3㎞かと思ったら、5kmh程も有り、大後悔であったが、やむをえず1時間以上掛けて「虎姫駅」へやっとのことでたどり着いた。河毛駅まで行けばよかった。   
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 2013年7月21日 虎姫駅から再開。1時間掛けて 内保東交差点へ戻った。今度は最短ルートを探しておいた。
 「八島南」交差点に来ると、左手に脇往還の案内板が立ち、左側の畑の中を進むように案内標柱が立っている。ここが●八島集落への入口になる 。   11:40

 ■八島郷~尊勝院町
 八島の集落内はカクカクと曲ながら進む。なぜか集落内には道標が沢山残っていて、しかも案内付きで非常にわかりやすい。集落内に入ってすぐ右手に最初の道標●八島東の道標がある。田根村への分岐点に立つという。「東 関ヶ原五里 西木之本みち」などと刻まれる。八島には8つの道標が残っているが、全部紹介し切れないのであと一つだけ記しておきたい。
 数分進んだ先の十字路の右側にあるのは●明治17年の北陸線開通後に立てられた道標。銘文中に「虎姫」の文字が見える。その対面に八島で残るもっとも古い道標もある。
 道を左折して行くと●玄龍寺がある。浄土真宗の古い形態である「総道場」の遺構であるという。寺から真っ直ぐ戻ると正面に「八幡神社」があり、その横を左折すると「左 江戸道」と刻む道標があるので、そこを右に曲って北上して行くと、●亀塚古墳という史跡がある。説明板によると規模は周囲102m、高さ5mの円墳で大友皇子を補佐する重臣で、壬申の乱で亡くなった中臣連金の墓と伝わる。    12:05

 ■尊勝院町~伊部
 国道にぶつかる角は葬儀場で、その前を左折、400mも行って右折して●尊勝寺の集落に入る。戦国時代の宿駅であり、「尊勝寺の市」と呼ばれていた。伊部と宿駅を争っていたが、伊部に敗れている。道は真っ直ぐ宿内を貫いており、そのまま国道にぶつかる。旧道としては少し手前の民家の中を左折して行くと●メイコンという工場の裏手を通り、工場にそって右に曲る。
 旧道は広い道を突っ切り水田の中を通っているのだが、水田の中を通ることができないので、迂回する広い道を西へ進んだ。 左側に●アパートの様な、工場の様な建物が並ぶあたりを右折して行くと●「小谷道 北国脇往還」の新しい道標がある。田川を跨ぐ●小谷橋を渡ると伊部宿に入る。   12:50

 ★伊部(小谷)宿
 ●伊部宿は上小谷宿とも呼ばれる。小谷宿は上りが(木之本方面)伊部、下り(関ヶ原方面)が郡上の二宿一駅の形態がとられていた。伊部は脇往還のほぼ中間に位置し、本陣、問屋が各1軒、旅籠11軒、伝馬13疋が常備されていた。
 宿の入口右手に●古矢真神社。主祭神は大山昨命。元は秋葉大権現と称した。伊部は全く人出の無い宿場町で、左手に●旧伊部本陣跡がある。本陣は肥田家が勤め、元は造り酒屋で宿の提供も行っていたが、享保以後は本陣専業になったという。街道は●突当たりで左折する。左折してから更に右折すると、史蹟小谷城址に向う道が分岐している。   13:05

 
 ■伊部~郡上
 西へ向っていると県道265が合流してきてそのまま県道の道なりを進む。郡上南交差点で国道365号にぶつかるが、そのまま国道を横断していく。前方の小山の中腹に、●「史蹟小谷城址」の看板が見える。看板のある山に小谷城がある訳ではなく、小谷城址へ向う入口あたりに過ぎない
 郡上南交叉点を直進すると、まもなく左折するようになり、右手山のふもとが●「小谷城跡清水谷武家屋敷群」で、絵図の看板が立っている。絵図を見ると今立っている場所が清水谷といい、武家の屋敷群が建ち、浅井長政とお市の方の御館も奥の方にあった。右手の山頂に本丸があり、左手には各出丸が築かれていた。谷の外では脇往還に沿って城下町が形成されていたという。程なく左手水田の中に●水車が回り、「城下町大谷市場跡」の案内板がある。このあたりが城下町の中心であった訳だ。 街道は●郡上の集落に入る。郡上は小谷宿の下小谷宿として脇本陣が設けられた。   13:30

 
 ■郡上~馬上 
 三叉路まで来たら右手の道を真っ直ぐ進む。右手に尾崎神社の鳥居が立つ。次の角を直角に左折してすぐ右折する。この角に高札場の石碑が立っている。右折して真っ直ぐ進むが、この通りは●郡上宿の北側であろうと思う。町並はそんなに変らない。 真っ直ぐ行って、美濃山神社に向う道に出ると左折し、国道美濃山信号を渡って直ぐの道を右折する。八島に入ってここまで本当に直角に左右にジグザグに右往左往して進んでいる。左手に小谷小学校がある。二俣の信号で国道に出会うがここは突っ切る。
 正面に「こもれび苑」が見え、ここを左折。国道に出て山田川を渡る。ここはすぐ国道から離れて右手の道をとる。この先は水路が流れる風情ある●馬上(マケ)の集落が続く。右手の奥に●走落神社がある。式内社で由緒があるが、旧堂は山の上にあり、明治の台風で崩壊、改築で現地に移転してきた。
 神社を過ぎた先の●三叉路の所に●指先付の「左北国きのもと道」の道標が立っている。道標に従いここを左折して国道と合流し、高時川に架かる大きな阿弥陀橋を渡る。   14:35 

 ■馬上~雨森
  阿弥陀橋の先、旧道は圃場整備によって消滅してしまっているので、ここは●高時川の堤防上を国道と平行して北上するしかない。土手道は2km弱ほど続き、ジジババ達のグラウンドゴルフに興じているのを横目で見ながら歩く。
 土手道の突き当りを右に曲ると●天川命神社がある。式内社で祭神は津速産霊外57柱というすごい神社である。五十八社権現宮とも称していた。
 神社の右側を回りこむと●雨森芳州庵がある。雨森芳州はこの地の生まれ。対馬藩の朝鮮方佐役という一種の外交官を務め、朝鮮通信使に通訳として江戸へ随行した。門をくぐると見える●美しい庭は誰でも無料で拝観することができる。
 門の向いの水路には●大きな水車がゆっくりと回転している。この高月町、雨森地区には湖国百景に数えられる昔懐かしの風景があった。     15:15

 
 ■雨森~田部
 神社の左側へ回り込んでから西へ進み、水路沿いに右折して●井口の集落に入る。この先またごちゃごちゃと右に左へと直角に曲ながら進むことになる。木目の美しいのどかな感じの家並が続いている。
 富永小学校を過ぎると●日吉神社がある。この本殿の造が珍しく、向拝まで葺きおろす葭(よし)葺きの屋根が貴重で、県指定文化財である。
 突当たりを左折したら、また右折して●水田の中を延々と進む。広い道を横断する田部の集落の細道へ入り、右手に等波神社がある。    15:30

 
 ■田部~木之本
 田部の集落に入って行くが、西へ向い国道に出る。右折して国道に沿って北上すると次の交叉点が田部東で、そのまま国道を過ぎてしまう。過ぎると木之本の町並みの中に入る。左手に●弘法水の石碑がある。弘法大師が持っていた杖を地面に突くと清涼な水が湧き出したという、あちこちに同じような話をよく聞く。
 東横町の信号が見える一つ手前の道を左折し、次の道を右折して広い道に出てまた左折する。少々煩わしいが仕方がない。●前方左に道標が見える地点が北国街道との合流点で、右折すると北国街道の●木之本宿が続いている。脇往還としてはこの合流地点がゴールとなる。・・・・とはいえ、木ノ本駅はこの先なので宿内を進むことにする。   16:05

 
 ★木之本宿
 木之本宿は北国街道の宿場である。北国街道は木之本から先、余呉、柳ケ瀬を経由して栃の木峠から福井県、新潟県へと続く訳である。木之本は宿場として、木之本地蔵を参拝する人々で賑わった所。
 左手に●きのもと交遊館。湖北銀行の建物を改装した。道の両側に●卯建の上がる旧家が沢山あってきりがない。
 右手に●「旧本陣跡」の竹内家。本業が薬店で薬の看板が沢山架かっている。木之本地蔵もあるが、割愛して●木ノ本駅に向う。駅名はなぜか「之」ではなく、カタカナの「ノ」が使われている。駅から余呉回りで帰宅した。   16:30