東金街道歩き旅 
         船橋から四街道へ
      歩行地図はこちら
 京成船橋-海老川-船橋大神宮-津田沼-藤崎-実籾-犢橋-六方町-四街道駅 17.6km
 

 東金御成街道
 
 この街道は将軍の鷹狩りのために造られた街道です。徳川家康は鷹狩りが大好きで生涯で1000回以上にもなると言われている。
  この道は船橋と東金を結ぶ約37kmの道で、慶長18年(1613)12月末から非常な短期間で完工しているため「一夜街道」とも呼ばれている。江戸時代の道は防備の為曲がりくねって造られているものが多い中ほぼ直線で作られていることが非常に珍しい。
  道幅は3間(約5.5m)を基準とし、8か所の一里塚が設けられた。 又同時に将軍の休憩所として船橋に船橋御殿が中間の御殿町にお茶屋御殿、終点の東金にも東金御殿が造られた。現在ではJR船橋から東金までの県道69号線が相当するが、四街道付近で沿道開発のため一部消失したりしている。あちこち旧跡などが多く興味ある道である。
 
  ここを「東金御成街道史跡散歩」(本保弘文著)を片手に2回に分けて歩くこととする。ここの行程はほとんどこの本によります。

2006年9月17日朝9:00
■西向き地蔵

 京成船橋を降りたが、高架工事の関係からかとても特急の停車すると思えないような小さな駅です。本町通西角にあるのが西向き地蔵です。ここで通は少し屈折しており古い宿場の形を残している。船橋宿の始まりです。数体の地蔵があり皆西を向いている。船橋宿は問屋場、旅籠30軒位が置かれていた。

■浄勝寺とお女郎地蔵
家康と関係が深く、幕府から朱印地を与えられた寺とのこと。 旧境内は2万m2もあり塔頭も23を数えた。右側に新しいお堂があり、中にお地蔵がある。船橋宿の女郎達の供養の為のお地蔵さんです。

■船橋御殿跡 (船橋東照宮)
 本町通から細い道を入った所でわかりにくいが標識があった。ここには東照宮という約1m四方の小さな祠が建つが、船橋御殿の跡地と言われる。この御殿は将軍の鷹狩りの際の休憩、宿泊用の建物である。面積4800坪くらいあったといわれるが、現在では、この敷地内に人家などが建ち並び、当時の面影を見ることは難しい。赤の鳥居は東照宮を出たところにある稲荷神社。飢饉対策用の倉庫があった場所ということであった。

■海老川と船橋
 一般に川に船を数隻縦に並べ上に板を渡して仮の橋とする形式を船橋という。今でも防災演習などに作られることがある。この海老川は昔ははるかに川幅が広く、水量も多かったのでこの附近で船橋を渡したということから船橋の地名の起源となったとのこと。この先京成本線の踏切を越える。

■意富比(おおい)船橋大神宮
 船橋大神宮は景行天皇の御代四十年に、皇子日本武尊が御東征の途次、船橋湊郷に到着され、東国平定の目的成就を祈願されたのを以って創建とされています。意富比(おおい)神社とも呼ばれ、平安中期、貞観5年の『日本三代実録』に「下総の国意富比神」の記事があり、船橋地方で最も古く格式のあるお宮です。・・・ 「船橋大神宮の由来」より
 なるほど神明式の格式ありそうな神社である。境内の灯明台という、明治13a年に完成した和洋折衷の建物で高さ12m、国内最大級の民間灯台と言われている。

■宮坂
 神社の坂を下り、北側に出る。そこからゆるやかな坂になり宮坂という。戊辰戦争の激戦地であった。この戦いで神社が焼け、船橋宿も焼失したという。
■日枝神社
 祭神、大山昨命、万治二年(1659)悪疫撲滅の為に祀ったもの。なお東進すると県立船橋高校が見えてくる。その先に祠に納めた馬頭観音がある。中に4基ほどあるがよく見えない。

■地蔵堂
 さらに進み、国道296号を横切る。右手にJR習志野電車区の入り口がある。そこにぽっつりと地蔵堂がある。ここも安政年間に疱瘡が流行したために祀られたものだそうだ。このさきには成田街道の分岐点があるがそこにあるという道標は残念ながら見過ごす。分岐点から街道は下り坂となり、JR総武線のガードを潜る。ここら辺は津田沼駅に近く、イオンやらパルコなどが並んでいる所である。この先を藤崎台という。

■藤崎古道と貝塚
 藤崎台に入ると右手に藤崎墓地がある。中に大きな古墳型の塚があり、石塔が建てられている。先の交番を右折するとすぐ、左側に藤崎古道の標識が立っている。この古道は御成街道造成以前の古道と言われる。この古道は階段状で上がっていくと台地状となり。全面に樹木の茂った森がある。そこが藤崎堀込貝塚という。近寄ると貝殻が散乱しており貝塚とわかる。森の中心に岩石でちょっとした山を作っており、庚申塔などがおいてある。

■正福寺と観音堂
 古道の標識に戻り、標識の左手方向へ進むと。正福寺の大イチョウある。左手には観音堂がある。中には多くの地蔵、石仏などが並んでいる。本日は行事の準備かテントが張ってあり、中に入れず。道の向かい側には正福寺があるが、本堂は普通の住宅のようでずけずけ入るのは、はばかれる雰囲気でした。
交番に戻り東進する。

■誉田神社
 藤崎をすぎ大久保にはいる。京成大久保駅からくる道は商店街で人がいっぱいいる。左手が誉田神社
誉田というと誉田別命のことで応神天皇のことです。八幡様で稲荷の次に多い神社。結構大きな神社でちょうどお祭りの最中でしたa。大久保を過ぎると実籾へはいるが手前の左側にあるのが日大生産工学部校舎

■大原大宮神社
 実籾駅手前の左側にある神社。いざなぎ、いざなみ神が祭神なので縁結びの神社として信仰される。神社の角には庚申塔と廻国塔がある。踏切を越えると一里塚があったということだが確認できず。実籾を過ぎ長作町に入る。左側には住宅街が扇状に広がっている。長作を過ぎると天戸台という所になる。

■椎の木
 天戸台十字路を過ぎた所の右手に椎の木の古木が立っている。街道造成の時に昼は白旗、夜は提灯をかかげて目印とした木と言われる。根本に廻国塔がある。この木の脇を通って奥へ行くと稲荷神社があり、その境内に道標を兼ねた庚申塔が立っている。

■廻国塔
 街道に戻り進むと左手に廻国塔と道標が立っている。全国66カ所を廻っていた僧が法華経を納経した記念碑である。道標の奥へ入っていくと、馬頭観音や庚申塔が立っている。

 ■天戸大橋
 花見川に架かる橋でこの川は印旛沼放水路といい、印旛沼の水を東京湾まで導水する為に掘られた人工河川である。工事は江戸時代に始まっているが難工事の為完成できず結局完成したのは昭和46年だそうだ。その手前の祠には如意輪観音が安置されている。割ときれいな像でした。

■犢橋宿
 橋を渡ると犢橋宿に入る。犢橋小学校付近の道が屈折しているが、江戸時代両方からの工事が食い違い、双方譲らなかったため曲げて接続した為という。左脇道を入ると天明元年の地蔵が建っている。街道と合流したところには地蔵堂がある。この辺が宿の中心で問屋場、旅籠などがあり飯盛女などもいたそうです。

■駒形観音堂
 犢橋を渡り、一直線に行き、国道16号のガード下をくぐる。長沼新田という所である。名主の島田家の長屋門がありその先に駒形観音堂がある。境内の右手に長沼大仏と呼ばれる仏像がある。元禄16年の制作になる。

■街道消滅地点
 さてこの長沼新田のあたりは江戸時代は原野で「六方野」と呼ばれていた。入植者が入り新田として成立してきていたが、明治に陸軍演習場として買収され、軍用地になった。戦後工場用地として売り出され住友重機、日清a紡績などが進出し工業団地になり、また陸上自衛隊下志津駐屯地などもある。このため東金街道六方町交差点付近で2.5kmに渡り分断、消滅している。そのため前半の歩きもここで終了し四街道駅へと向かう。次回はこの先鎌池から始める。駅まで含め17.6kmほどの距離でありました。

 東金街道2へ