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朝鮮人街道を歩く 1 (野洲~安土まで) |
歩行地図はこちら 地 図 |
行畑-久野部-富波乙-永原-日野川-江頭-加茂-小船木-八幡町-西庄-安土駅 16.9km(全41.8km) |
![]() 朝鮮人街道とは、滋賀県野洲市行畑で中山道から分岐し、琵琶湖東岸を北上し、彦根市鳥居本で再び中山道に合流する約41kmの街道です。元々琵琶湖舟運の港を繋ぐ、陸路として便利だった道を、信長が幹線道路として整備し、その後、関ヶ原の戦いで勝利をおさめた家康が凱旋した時に通ったという、めでたい道として、将軍上洛や外交使節の通行の際にのみ使われた。 鎖国時代、唯一の外交関係があった、朝鮮からの外交使節が通ったので、この朝鮮人街道の名前がついた。
「歴史の道調査報告書 朝鮮人街道」(滋賀県教育委員会) |
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■富波甲~永原 少々の寄道 街道は富波乙と、甲で直角に二度折れ、北東に向っている。 富波甲も同じような風景が続いている。祗王幼稚園を過ぎた当りで左折して、少しの寄道を行う。 左折して県道2号を越えて行くと、菅原神社への標識と「平家祗王の里めぐりコース」という看板が立っていたので、看板に従って行って見た。まず菅原神社がある。菅原神社の●神門は室町後期の築造と推定され、茅葺の屋根で、重要文化財に指定されている。境内に白鳳時代の瓦を出土する「永原廃寺跡が存在する。 神社の隣は竹林で訳がわからなくなっているが、●徳川家康の永原御殿があった場所である。将軍の上洛時に使用された。ただ旧蹟の石碑が立つだけだった。 案内板に従って、歩いて行くと●祇王寺にたどり着いた。祗王姉妹の菩提を弔うために村人が建てたという小さな寺で、門には今年のNHKの大河ドラマ「清盛」のポスターが貼ってある。 以前は無住の寺だったらしいが、ドラマの影響で人出を見込んだらしく、まわりの道路に駐車場の案内があちこち出ていた。大型バス用の駐車場までできている。 11:30 |
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■仁保橋~江頭 「高木」から先、弧をを描きながら北西へ進み、日野川に架かる●仁保橋を渡ります。日野川は天井川で、ほとんど水が少ししか流れておらず、何かの工事中。欄干に朝鮮通信使行列絵図が架けてあった。朝鮮街道の説明板もあった。 ・・・ 昔の橋は今より下流にあり、 朝鮮通信使は慶長12年(1607)から明和元年(1764)までの間、10回にわたり江戸城まで往還しました。 当時の仁保橋は板橋の上を渡り、対岸の堤防を登る簡単な橋だったようですが、 朝鮮通信使等が通行する時は、川元町(江頭村、十王村)と仁保川橋掛組合と呼ばれる小南村を始めとする11ヶ村が協力して土橋に架け替わって楽に通行ができるようにしていました。」・・・・とある。 橋を渡ってすぐ左折して、土手を下りて行き、「十王町」に入る。右手に●正林寺がある。真宗本願寺派の寺で、守川山と号し、宝暦13年(1763)の通信使来朝の際の仁保川の仮土橋設置に携わったとされる。 街道は十王町から安土までルートが良好に残っており、この先の江頭町や田中江町など、両脇には昔ながらの町並が残っており、旧道らしい風情が残っていたりする。このあたりの街道には●愛宕大神の碑があちこち見られた。 12:55 |
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■永原町~音羽町 記念館から旧道へ戻ろうとして、間違えて1本東側の●永原町を南下してしまった。が、ここも商人屋敷街で伝統的建造物分保存地区なのであった。 道の中程に●扇屋醤油店がある。店舗に架かっていた看板がいかにも由緒ありそうな古いものだった。突き当った右角に 「旧朝鮮人街道 左 永原町通り」の道標が建っていた。左側の方から逆に来た訳だ。 道標の所で旧道に合流して、左折して行く。左手にあるのが、昭和5年に建築された京風数寄屋造りの町屋●近江商人、野間清六の分家の建物。現在は「アートギャラリーNO-MA」tpして使われている。清六は「角大」近江屋久右衛門と称して、茨城県結城で醸造業を営んで財をなし、結城御三家といわれた。家業は明治33年に終っている。 15:22 |
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街道に戻ってきて、暗くなってきたので、ここで帰ろうかと思い、安土駅前に来ると、●織田信長の銅像が立っている。信長が築いた安土の町は、安土城が築かれて、楽市楽座令が敷かれて商業都市として繁栄したが、本能寺の変により、繁栄の終りを迎えた。 ●安土駅から各駅停車で帰宅した。各駅停車は1時間に2本しかないので、観光地としてはいささか不便である。16:45 |
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2 安土駅~鳥居本 |