横大路を歩く 
        (長尾神社~ 慈恩寺北)
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 長尾神社-髙田川-大中-永和町-曲川町-曽我町-今井町-八木町-耳成-石原田町-桜井-慈恩寺北      14.8km

 横大路
 葛城市の長尾神社から桜井市の慈恩寺北交差点まで東西にほぼまっすぐに進む道である。元々は古代、難波京と飛鳥京を結ぶ官道のひとつとして整備された大路であった。 江戸時代には伊勢参りの道として使われ、伊勢街道(伊勢本街道)とも呼ばれ賑わった。現在の国道166号線に平行するか、国道そのものである。 西側では堺からの竹内街道と長尾神社で接続し、東側では慈恩寺北交差点で初瀬街道に接続して、堺、大阪方面から伊勢神宮へ至ることができる。長さは14km程度。
 参考資料
 「歴史の道調査報告書 奈良県教育委員会」(復刻版 海路書院)

■長尾神社~尺土 ※ 写真をクリックすると拡大します
 2012年12月2日   京都より近鉄線・大和八木乗換えで、磐城駅到着。早速●長尾神社へ向った。長尾神社は竹内街道の終点にあたり、長尾街道、横大路が交差する交通の要所であった。交通安全祈願の神社として知られている。2006年に竹内街道を歩いた時に訪れて、6年ぶりになる。祭神は水光姫命、白雲別命で●本殿は2社並列している。春日造のようであるが朱色ではなく感じが良い。 近鉄の踏切を渡り、●国道168号線に出た。後ろには赤く色づいた二上山がよく見えた。      9:40

■尺土~髙田川
 すぐ先は「尺土」という町。もともと赤い土が出たので赤土といったのを、字の良い尺土と変えたと伝えられる。尺土駅前に●春日神社がある。尺土の氏神。祭神は天児屋根命で、社殿内には大絵馬が掛けられているが、扉に鍵が掛って覘くだけで撮影ができなかった。 国道168を東にとって行くと●髙田川。春には桜がきれいだろうと思う。左岸には大中公園が広がっている。園内の一角に●静御前の記念碑が建っている。いうまでもなく源義経の愛妾である。この説明では吉野で義経と別れ、途中で捕らえられて、鎌倉の頼朝の前で舞を踊ることになるが、許されて大和に帰り、ここ母親の「磯禅師」の里でおわるとある。街道の南側の「磯野」の町は静御前の母親「磯禅師」の故郷といわれて、御前にまつわる史跡があちこちにある。墓も探して見たけどよくわからなかった。日光街道を歩いたとき、栗橋駅の前に静御前の墓というを見ており、伝説なのでどちらがどうともなかなか難しい。
 静の遺跡を探して、髙田駅の回りをうろついてしまったが、ほとんどわからなかった。         10:35

■髙田川~大中南町
 大中橋を渡ると●大中南町。道幅がとたんに狭くなり、町並みも連子格子の家が並び、昔の街道の雰囲気が残っている。左手に●長谷本寺がある。開山は養老年間(717~)、南都の大満上人とされ、市内最古の寺院である。本尊の十一面観音立像が長谷寺と同木で造られたという。
 門前に●「すぐ 大坂さかい道」と刻む道標がある。また横大路の案内板が立っていて、・・・この横大路は「難波より京に至る大道を置く」(日本書紀)にあるように、古代から開かれた大和、河内を東西に結ぶ大道である。・・・・中世からは、長谷寺、當麻寺参詣や大神宮信仰が一般的に流行し、長谷街道、伊勢街道と呼ばれるようになった。・・・・・と書いてある。 ●寺の東側の商店街の道を北上し、「髙田御坊の専立寺」へ向う。 

 ■大中南町~内本町
 (高田御坊)
 この通りは●古い家が並んでいたりして由緒がありそうである。が、人通りが少ない商店街にもかかわらず、電柱のスピーカーからくBGMが鳴り、かなりうざったい。
 左手に●専立寺が太鼓楼を特徴的にして建つ。この寺は髙田御坊と呼ばれ、慶長5年(1600)の創建。本願寺直属の掛所御坊として門前町を形成した。寺の東側をうねって走る県道5号線は旧髙田川を道路化したものであり、この旧髙田川の西側に寺内町を形成した。江戸時代中期以降は綿業を中心として栄えたという。
 寛政6年(1794)建立の表門、右側には天明6年(1786)建立になる太鼓楼があり、両者は寛政6年建立の重厚な築地塀でつながれている。本堂は天保9年(1838)の火災により鐘楼、広間座敷、台所などとともに焼失している。 門前に●野口雨情の詩碑が立っている。

 ■内本町~永和町
 街道に戻ると長谷本寺の斜め前に●伊勢神宮常夜燈がある。天明元年のもの。竿の上部が木製である。
 永和町に入ると、昔の雰囲気を残す家が多い。二階が低いいわゆる●厨子(つし)二階造の家や虫籠窓などを備える家などがある。 少し行った●下街道との交差点に、●高田町道路元標がある。元標は下街道(大和郡山市より五条市に至る。)と、初瀬街道(横大路)の交差する地点に設置された。竹内峠頂上に県境碑があり、ここまで一里二十六町一間であるという。 11:50

■永和町~本郷町
 下街道を北上して行くと、左手さざんかホールの斜め前に●不動院がある。文明15年(1483)髙田城主當麻為永の建立になる。本堂が重要文化財で5間4面の寄棟造。
 ホールの前の池は●馬冷池といい、戦陣往来の際馬の足を冷したことに由来するという。 池埜脇に●お助け地蔵さんという地蔵の祠がある。ここにいたずら河童とお助け地蔵さんという面白い伝説が残っている。 12:10

 ■本郷町~曲川町5丁目
 本郷町から街道に戻って、東へ進むと、JR桜井線にぶつかって、街道は寸断されてしまっている。ここは葛城川に沿って、三角形に曲って、●葛城橋を渡る。
 橿原市へ入って来た。しばらく●田畑の風景が続いている。やがて右手に立派な●長屋門が見えてくる。旧旗本の藤堂氏の長屋門といわれる。この北側の道を入った所に同じく代官屋敷があるというので北上して行ってみた。  13:10    

■曲川町5丁目~曲川町2丁目
 北上して行った所は曲川2丁目。案内板もなにもないので代官屋敷はどれだかわからなかったが、それらしい●大きな屋敷があった。このあたりは結構大きな屋敷が沢山建っている。
 左手の大きな寺は●徳応寺(浄土真宗本願寺派)。信濃の善光寺如来が当初に安置された向原寺の跡地に創建されたという。
 寺の裏手に金橋神社がある。祭神は安閑天皇。境内に●安閑天皇勾金橋宮址」の石柱が立っている。・・・・安閑天皇は継体天皇の第一皇子で勾大兄廣國押武金日天皇(まかりのおほえひろくにおしたけかなひのすめらみこと)の名で親しまれ、西暦534春正月に第27代天皇として勾金橋宮で即位された。都を勾金橋宮の地に遷された。・・・・・案内板より   13:30

 ■曲川町2丁目~曽我町
 街道に戻って先に進む。●豊津橋で曽我川を渡る。橋の左手脇に小さい道標があって、「是より四丁南 太玉社」と刻む。
 ●曽我町へ入った。曽我町から小網町には大和特有の大和棟形式の家が点在するというので、左右見回しながら進んで行ったけど、見つからなかった。ほとんど普通の家が並んでいる。
 左手に●光岩院。寺伝では蘇我氏の西楽寺の後身だという。境内の●五輪塔は長曾我部元親のために、その末子が建てたものという。  14:10

 ■曽我町~地黄町
 小綱町に入り、スーパーの先を左手に入ると、●入鹿神社がある。神社は645年の乙巳の変で殺された蘇我入鹿を祀っている。●本殿は一間社春日造で、檜皮葺。
 境内には●普賢寺大日堂が建っている。かって境内には神宮寺として「普賢寺」があり、大日如来が祀られていた。神仏分離の際に普賢寺は廃寺となったが、建物と本尊の仏像は残されて神社の前にある「正蓮寺」の管理となり、「大日堂」という名称で現存しているもの。大日堂および大日如来木像は国の重要文化財である。
 神社から更に北上した地黄町に●人麿神社がある。柿本人麻呂を祀る。本殿が一間社檜皮葺で丹塗りになっている。こちらも重要文化財。  14:40

■地黄町~今井町
  さてこの先は大和八木駅を通過するが、ここまでの行程が半分の7㎞ほどであるのに、寄道を沢山したので、20㎞近くも歩いてしまい、 時間が無くなった。そこで終りに街道の南側の「今井町」を少し巡って本日は終りとすることにした。
 ★今井町
   16世紀頃から称念寺を中心とする寺内町を形成した。信長に抵抗し、堀を深くし土塁を高くしたりして環濠城塞都市を造ったが、信長に降伏した。後に自治権が認められた。町並は江戸時代のまま残され、世界的に貴重な景観をなしている。重要伝統的建造物群保存地区でもある。   時間がないのでぐるっと回って見るだけにした。うん十年前に一度来たことがあっが、記憶があんまり残っていない。
   ●町並・・・現在も町の大半が江戸時代の姿を残しており、実際に住居としても使用されている。道筋は見通しができない
        ようにいたる所で筋違いになっている。
 ●今西家住宅(重要文化財)・・・・代々惣年寄筆頭を務めた。今井町の西端にあり、建物は慶安3年(1650)に建て替え
        られ、民家というより城郭を思わせ、八つ棟造りという。
 ●回りを囲む掘跡・・・・・現在では小さな掘跡であるが、昔は幅が5mから7m、深さは2mほどもあったという。
 ●豊田家住宅(重要文化財)・・・・ 江戸末期に分家移住し、「紙八」という屋号で知られているが、元は材木商で福井藩の
               蔵元を務めた豪商であった。。
 ●称念寺・・・・・南西にある。今井町の中心をなした寺であるが、後の農地解放で田畑を手放して以来財政が悪化した
           というので、見た目も荒れ始めている。本堂は工事中でシートがかぶされて見えず、残念。
 ●中橋家住宅(重要文化財)・・・- 屋号を「米彦」といい、代々米屋を営んでいた。寛延元年(1748)の絵図に描かれて
           いることから、当時すでに住居を構えていたことがわかる。平屋から2階建に移行する過程が見られる
           民家として貴重。
 ●中澤家住宅・・・・豊臣秀吉の吉野花見の際に本陣に定められ、御茶屋と称された
 ●河合家住宅(重要文化財)・・・ 16世紀末橿原市上品寺町、上田家よりから分家移住した。屋号を「上品寺屋」といい
           酒造業を現在に至るまで営んでいる。
                        近鉄大和八木駅より帰宅             15:50 終了

 ■高橋~八木町1丁目
 2012年12月9日 一週間経って大和八木駅にやって来た。本日は残りの慈恩寺北交差点まで行くつもり。天気は雪模様である。駅の西方。●高橋付近から横大路の歩きを再開した。
 近鉄の線路を越えると、すぐ先の大通りの先に●太神宮灯籠が立っている。案内板があって、横大路が伊勢街道であったという説明がされている。
 隣の法務局の植込みの中に「藤原京横大路南側溝跡」の説明板がある。その先大和信用金庫角を右折して行った先、JR畝傍駅右手に大きな「橿原神宮石碑があり、線路に沿った所に●ラ、バンク(旧六十八銀行)の洋館風な建物がある。奈良県南部の現存する最古の鉄筋コンクリート造の1つで、登録有形文化財である。現在は結婚式場となっている。   11:00   

 ■八木町1丁目~札の辻
 街道に戻ると、●八木町に入る。街道を夾む「八木町」、「北八木町」は今井町と同じく環濠集落だったといわれる。両側に古い家並が見られる。すぐ先右手に●接待場跡(せんたいば)がある。伊勢神宮にお参りする人々を無料で食事や湯茶の接待した場所とされる。 接待場から左へ細い道をずーっと入って行くと、●半九旅館がある。昔の旅籠で現在でも旅館を営んでいる。昔は下つ道に面していたそうだが、近鉄の用地にかかったため現在地に移転した。建物自体は新しい。
 街道に戻って進むとすぐ●札の辻である。古代の幹線道路である「下つ道」と「横大路」が交差する所で、近世高札場があった。重要な地点で旧蹟が沢山あり、見て回るのに右往左往してしまった。   11:30

  ■札の辻~八木町2目
 ●札の辻交流館 東の平田家・・・・・下つ道を挟んで対称形に東西の平田家があって、その東側の平田家。元は両方とも旅籠屋で総二階建。東の方は改装されて、「札の辻交流館」として開放されている。
 西隣に芭蕉句碑が建ち、その隣が●河合源七郎家。江戸時代の町屋で登録文化財。
 その隣も●河合家で登録文化財。こちらの方が源七郎家より規模が大きく、先に登録されている。旧高取銀札引替所という。このあたり河合姓の家が多い。河合家は「絞り問屋」を営んでいて、安政6年には北八木村の庄屋を務め、両替商も兼ねていたという。
 下つ道を南下し横大路を越えて街道の南側に移ると、左手に●幕末の儒者、谷三山の生家が今でも残っている。三山の卓越した学識を認めた頼山陽や吉田松陰など幕末の知識人とも親交があったという。   11:40

  ■八木町2丁目~耳成山
 右往左往した札の辻を過ぎて先に進む。●北八木町を過ぎた町並は町屋らしい家並が続いている。道幅もせまく旧道らしいといえば旧道らしい。 雪が降ってきて、横なぐりの風も強くなってきたが、左手に●耳成山がそびえているので、寄ってみた。天香久山、畝傍山と共に大和三山と呼ばれる。 耳成山は標高139m。大和三山の中で一番低い山だが、元々火山で円錐形をしており、人の頭にたとえれば耳が無いような形だったので、耳無し山から耳成山と呼ばれるようになったと云われている。
●鳥居を通って耳成山口神社への参道を登って行く。雪がちらついているが、そう軟弱な道でもなく、簡単に神社に着いた。神社は山の8合目当りに存在している。           12:00

  ■耳成山~石原田町
 ●耳成山口神社は大和国の山口社六社(飛鳥・石村・畝火・忍坂・長谷・耳成)のうちの1社で、天皇家の舎殿用材を切り出す山の神として祀られていた。祭神は 高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と大山祗神(おおやまつみのかみ)
 山から下りてきて、近鉄線の南側にホームセンターなどがあり、あたりのレストランで昼食をすませた。
 街道へ戻り更に東へ進む。耳成駅手前の「武蔵橋」から先の旧道はいくらか蛇行をして進んでいる。山之坊山口神社を過ぎて、●横大路と八釣街道との交差点に来ると、左手に●高さ2.32mもの地蔵尊が立っている。大正元年の建立になる。また右手の角に●道標があり、「すぐかぐ山 法ねん寺道」などと刻まれている。        13:15

  ■石原田町~三輪神社
  道標のすぐ先で道は二股に分れ、旧道は左へ続いている。その分岐点の正面に●弘法大師堂がある。その昔弘法大師巡歴の際、米川と出合川の合流地に来り、「くしゃみ」に悩ませられ、川水を掬って飲んだら全治したという伝承に基づき、明治初期に造られたという。 やがて左手に●三輪神社が見えてくる。祭神は大物主櫛甕玉命(おおものぬし くしみかたまのみこと)。西側を中つ道が通る。境内に●ケヤキの古木がある。江戸時代の「おかげ参り」で伊勢街道として多くの人々の目印になり、西国三十三所名所図絵にも特異な姿で描かれている。 三輪神社西南隅の礎石の案内板があったが、事前の知識が不足しており、なんのことだかわからなかった。後で調べたらお堂の背後に「面堂の礎石」と呼ばれている平たい石が露出していたらしい。  13:35

■ 三輪神社~小西橋 
 「香具山駅」の先でJR桜井線の踏切を越え、近鉄「大福駅」の先あたりで左に曲り、真っ直ぐ北方に550mほど進んで、左へ入った「桜井西中」の西側に●三十八柱神社がある。伊邪那岐命・伊邪那美命2神と宮中神36座を祀るというたいそうな神社である。
 近年、推古天皇の小懇田宮跡でないかと提唱されて●「小墾田宮伝承之地」の大きな石碑があった。梅原猛氏の書になるものである。境内に万葉歌碑があって、犬養孝氏の書になる。
 街道に戻って先に進むと左手に●医王寺がある。薬師堂が建っている。 医王寺から500m程で●小西橋に到着した。奈良県の歴史の道調査報告書では古代の横大路はここ、小西橋までとしている。伊勢街道としては更に東へ伸びていることになる。橋の向う側に仁王堂。三角の形で磐余橋(いわれはし)も架かる。  15:05

■小西橋~宇陀ケ辻 
 橋を過ぎると●桜井のアーケードの商店街に入ってきた。寂れているのか、日曜で閉っているのか全く人通りがないと言って良い。アーケードの中にも古い家が少し見られた。 ●アーケードの終わりから先は旧街道の風情が残り、軒卯建のある家や格子のある古い民家が残っている。右手に見える小山は茶臼山古墳である。天皇家の陵墓に指定されている訳ではないので発掘調査がされている。
 そうこうしている内に●宇陀ケ辻に来た。初瀬道と宇陀に通じる女寄峠越えの分岐点にあたる。  15:40

 ■宇陀ケ辻~大和朝倉駅
 辻の正面に●巨大な石碑と舒明天皇御陵への道標が立っている。石碑は栗原山割譲碑というもので、明治36年栗原山の割譲が円満に解決したことを記念するものと歴史の道調査報告書に書いてある。といっても碑文が読みにくく、石碑が巨大な割になんのことやらよくわからなかった。 近鉄のガードを越えると●慈恩寺北交差点に着く。ここは左手から上街道との追分けである。伊勢街道としての横大路はここで興福寺南円堂からの上街道と合流して、●初瀬街道として伊勢へ向う。この先旧道らしい雰囲気が残り、静かな道が続いている。街道歩きはこれで終了し、大和朝倉駅より帰宅した。 初瀬街道へはこちらから         15:45