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房総木下街道を歩く 1 行徳河岸から鎌ヶ谷まで |
歩行地図はこちら 地図 |
行徳駅-行徳河岸-本八幡駅-鬼越-馬込沢-鎌ヶ谷-白井-十余一-鹿黒-大森-木下河岸 33.4 km |
木下街道 まず(きおろし)と読む。「木颪」と書く例も見られる(五街道細見)。木下周辺で伐採された材木を積み下ろした場所からついた名前という説などがある。市川市の行徳から八幡、鎌ヶ谷、白井、を経て利根川沿いの印西市、木下へ至る約36キロの道を木下街道という。江戸の昔から銚子からの物資輸送や、香取、鹿島、成田詣での参詣道として大いに利用された。松尾芭蕉も歩いて「鹿島詣」を著している。江戸川と利根川を結ぶ陸路として、両河川交通の補完的な役割をもつ街道であった。鮮魚街道と一部重複しており、木下街道も鮮魚街道と言われたが、距離的に不利で商用、観光が主となっていた。 ※ 写真をクリックすると拡大します |
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![]() ![]() 行徳街道に出たところに「笹屋うどん」の店跡がある。日本橋小網町を出発した旅人は行徳河岸で上陸すると、まずはここのうどんで腹ごしらえをするのが常であったという。安政元年(1854)の建物がそのまま残っているというけど、そんなに古いようには見えないが・・。うどん店は明治になって廃業され、現在は個人宅。 続いてその先左手が、●本陣風な屋根のある玄関を持つ民家も個人の家 |
![]() ![]() ・・・月はやし 梢は雨を 持ちながら・・・・ 行徳での句ではなく、鹿島での句だそうだ |
![]() ![]() 歴史を感じる「塩専売」の看板が掛かる古い店。その先に ●神明社(豊受神社)がある。社殿は改修中でした。16世紀前半のころ金海法印という山伏が建立したといわれている小さな神社だ。この山伏は徳が高く行いが正しくて人々から「行徳さま」と崇められたという。山伏の愛称がそのまま地名になった。案内看板がすり減ってほとんど読めないので、看板も改修してほしい。 |
![]() ![]() ●徳願寺(浄土宗) 明治時代に印旛県庁が一時本堂に置かれたことがあるという名刹。また宮本武蔵に由来のある寺だが、ここも改修中でろくに見ることができない。運慶作という本尊阿弥陀如来はお勤め中で見学できず。●袴腰の付いた鐘楼は特にめずらしい。武蔵の供養塔である石の地蔵菩薩は改修のためか外に出ていた。 |
![]() ![]() ![]() 右手に協会風の洒落た建物が見える。東山魁夷記念館です。東山魁夷画伯は横浜の生まれだそうだが、太平洋戦争直後から亡くなるまでのほぼ50年に渡り市川市に在住したという。唐招提寺の障壁画で有名ですね。 道は●北方十字路にやって来ました。この読み方が不可解で、これが「ほっぽう」でもなければ「きたがた」でもなく、「ぼっけ」と読む。なんでこんな読み方をするのだろうか。千葉は難読地名が多い |
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