中世の牟礼街道を歩く 歩行地図はこちら  
 三鷹台駅-牟礼2丁目井の頭公園-千川上水-武蔵関公園-妙福寺-新座市栄-膝折町溝沼-城山公園 18.14km

   牟礼街道
 
 中世牟礼道は小田原北条氏の軍道であり、河越上杉氏の深大寺道に対するものと云われる。ここを牟礼城跡から岡城跡まで歩きます。途中井の頭公園から青梅街道までなど、消滅したりしている所があります。

 資料
「武蔵野古道ロマンの旅」
       (芳賀善次郎))

 2023年4月9日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■三鷹台駅~
  旧武蔵国内の古道を歩く旅の2回目。「牟礼道」を歩きます。牟礼道はこの道は小田原北条氏の軍道で河越上杉氏の河越城-深大寺城間の深大寺道に対する軍道です。牟礼2丁目に存在した牟礼城から朝霞の岡城まで結びます。
 出発点は●朝霞台駅。「三鷹台駅前通」を南西方向へ向かう。ここは前回大宮街道で歩いた所。左手高台にに●●牟礼神明社がある。ここは牟礼城跡にあたる。北条氏家臣、北条綱種が深大寺城に対峙して築城したとされる。特に遺構などは残っておらず、砦程度の規模だっという。"説明板"  9:30

      ~牟礼2丁目
 右手に●牟礼の里公園。三鷹市内の公園の中で一番標高の高い場所にある。昔ながらのふるさとの農風景を保全した公園です。●牟礼2丁目交差点に来ました。人見街道との合流点で、人見街道は左へ折れ、牟礼道は右へ曲がります。正面に●地蔵と道供養塔。地蔵は行き倒れになった僧を弔うために建てられたともいう。ガードレールがじゃまで上手く撮れなかった。また、牟礼神社にあった"常夜燈" は井の頭弁天への案内塔で、本来はここにあったもの。 9:40

 ■牟礼2丁目~井の頭4丁目
 右へ曲がり、●井の頭公園通りへ出ます。 右手は昔の豪農の名残か、敷地の広い家が多い感じがします。 途中●玉川上水が「井の頭橋」の下を流れている。 ●井の頭公園へ近くになると、道は細くなって、車のすれ違いが難しくなってきた。 9:55 

 ■井の頭4丁目~自然文化園  
 右手●黒い鳥居がある先は「井の頭弁天へ続く参道」。入口に"道しるべが立っています。 "案内板 。 ●井の頭公園入口に到着。そのまま公園の中を突っ切り、●自然文化園前で延々と青梅街道の「東伏見4丁目」あたりまで、旧道は途切れます。これは江戸時代に五日市街道沿いの新田開発で、新しい地割をした為といいます。 10:10

 ★弁財天と井の頭池
 一応公園に来たので、一回りしてみます。 右へ行くと●井の頭弁財天があり、●井の頭池が広がります。井の頭池は江戸の水源として「神田川」となって流れ、当時から有名な景勝地でもあった。弁財天は天慶年間(938-946)に関東源氏の祖・源経基が弁財天女像をこの地に安置したのが始まりで、その後、源頼朝が東国の平安を祈願して社を建立したとされている。

 ■千川上水~東伏見4
 右往左往しながら、「東伏見4丁目」交差点を目指します。 ●千川用水の流れる、「東伏見4丁目」手前、●「東伏見4-10」あたりで旧道が復活する感じです。●青梅街道にぶつかり、中央分離帯で渡れないので、左手、歩道橋を迂回します。 11:10

 ■東伏見4~西武池袋線踏切
 青梅街道を過ぎて進むと、右手は●武蔵関公園。池の名前は富士見池という。井の頭公園と同じで、武蔵野台地の湧水などによってできている。隣に早稲田大学安部球場があって、明治大学と練習試合をやっているようだった。
 西東京市と練馬区の境に沿って行くと、●高塚交差点。 ここを右折して「富士街道」を300m程進み、左折します。「南大泉」の住宅地の中をを北上して、●西武池袋線踏切を越えます。 12:06  

 ★妙福寺
 そのまま進むと「妙福寺」にぶつかってしまい、遮断されてしまう。 寺の入口もないので、塀に沿って東側へ出ると●山門が見えた。●本堂と境内にある●三十番神社。 妙福寺は日蓮宗の寺院。元は天台宗の寺院であったが、中山法華経寺と関係が生まれ、日蓮宗に改宗した。法華経寺の貫主が当寺の住職を兼任してきたため、法華経寺のある下総国・中山に因んで「西の中山」と称するようなったという。 江戸時代になると徳川将軍家から祈願所ともされた。 現在でも相当に伽藍が立派だが、往時は中山法華経寺と比べられるような大寺であったのでしょう。神社に祀られる三十番神は毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のことをいうらしい。12:20

 ■西武池袋線~関越自動車道先
 寺の西側に回って、西大泉2丁目を進むと、●大泉西中交差点で、都道24号にぶつかる。そのまま北上して行くと●関越自動車道に遮断されてしまった。左側へ迂回して、●旧道へ戻った。「大泉学園町」に入ります。 13:05

 ■関越自動車道先~新座市栄
 ●池田5丁目の看板が架かる左側は「新座市」。右手は練馬区で旧道は埼玉県と東京都の「境界」を通っている訳だ。 右手の家の車のナンバーは「練馬」、左手は「所沢」ナンバーであった。 その先●新座栄3~5丁目は新田開発地なのだろうか、区画が碁盤目状で、東西南北に道が真っ直ぐ通っている。地図をよく見たら「大泉学園町」もそんな感じでした。 ちょっと遠いけど、トイレ休憩で500m先の「いなげや」へ向かいました。 道は●自衛隊朝霞駐屯基地で再び遮断されてしまいます。 13:50

 ■新座市栄~川越街道
 ●新座市営墓園の中が通れそうなので、中を通過して進みます。北門から一般道へ出て行くと、右手に●氷川神社がある。朝霞市膝折町の南方の「子の神」と呼ばれた山上に鎮座する。大宮の「氷川神社」を村の鎮守として勧請したものという。
 ●国道254「川越街道」を横断して、次を左に曲がると「旧川越街道膝折宿「に入ります。 14:20

 ★旧膝折宿
 左に曲がると●旧川越街道膝折宿です。左に曲がる右手角に"道標" があるのだが、(明治42年 子の神たき)と彫られ、先の氷川神社への道標にあたる。しかし地元政治家の看板で覆われてしまって見えない。 本来は"これ。 膝折宿の史跡としては重要だと思うのだけど、何の配慮もないのはいただけない。 右手に●脇本陣村田屋(高麗家)が健在。茅葺きでないのが残念。 左手●郵便局は膝折宿本陣跡です。
 膝折という名前は物騒な感じだが、・・・賊に追われた小栗助重が鬼鹿毛という名の馬に乗って当地まで逃れてきたところで、鬼鹿毛が膝を折って死んだことに由来する・・・とかの説がある。 江戸時代では川越街道4番目の宿場として、川越藩の参勤交代や仙波東照宮の参拝客などで賑わった。 14:30

 ■膝折1丁目~溝沼3丁目
 ●膝折町1丁目交差点で右折します。旧川越街道は左折して行く。 左手に●一乗院管理の閻魔堂がある。当地にあった持明院の大日堂として建立、持明院が廃寺となった為、一乗院の境外仏堂となっている。"肝心の閻魔像 は右隅にちょこんと鎮座して、本尊ではないみたいで、本尊は中央の "阿弥陀仏 のよう。 「溝沼」地区に入って、1本東側にある●塩味醤油本舗。創業は慶応元年(1865)の老舗。何でも、ゴルフ場、病院まで経営しているとか。朝霞きっての大地主だったのでしょう。工場見学はできるようだが、日曜で休業。外から覘くだけ。 14:50

 ■溝沼3丁目~溝沼6丁目
 元に戻って、左の●泉蔵寺"銅鐘"は正徳4年(1714)作で、朝霞市最古のもの。 「マルエツ」の駐車場脇を進むが、●住宅脇の細い道が旧道らしい。 そこを抜けた先にあるのが●溝沼氷川神社。江戸時代に村人が畑から「地類権現」と彫られた石を発見し、地頭の中山勘三郎が「地類権現社」を建てたのが始まりという。"由緒板15:08

 ■溝沼6丁目~城山公園
 氷川神社の先で●東武線の跨線橋を越えます。城山通りを進むと●●城山公園になる。ここは岡城跡であり、大手門が北にあったといわれ、北条氏が天文初年に河越城の支城である柏城に対抗して築いたものであろうという。"案内図 。しかし、残念ながら「・・城山公園のナラ被害等が拡大しており、倒木等による二次被害防止のため、現在、山側部分への立入りを制限しています・・」ということで、公園の中は立ち入り禁止で入れなかった。(朝霞市HP)  これで牟礼城跡から岡城跡までの牟礼街道歩きは終わりです。
 JR武蔵野線「北朝霞」へ向かいます。 15:45

  駅へ向かう途中に●東円寺がある。 真言宗智山派で、本尊は運慶作と伝える薬師如来ならびに両大師。 境内は広く、鎌倉期のものと思われる●数基の板碑が置いてあったり 一番奥に法大師空海が杖を突くと湧き出たといわれる不動の瀧と●不動堂があります。 不動堂への参道道は竹林があったり、"石仏が 迎える道であったりで風情がありました。北朝霞駅までは結構、距離があって疲れました。