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山辺の道を歩く・南行 | 歩行地図はこちら 地図 |
桜井-金屋-大神神社-桧原神社-景行天皇陵-夜都伎神社-石上神宮-天理駅 19.1km |
山辺の道 日本書紀にも記されている、わが国最古の道。箸墓や景行天皇陵、崇神天皇陵など遺跡の豊かな地域を南北に通る。桜井市の海柘榴市から奈良市、新薬師寺までの全長約27kmほどの道であります。普通天理駅最寄りの石上神宮から新薬師寺方面へ行くのを北行き、桜井駅から大神神社を経由して石上神社まで行くのを南行きという。南行きの方が盛んで歩く人も多い。全体が東海自然歩道となっており、道しるべも整備され迷うことのない道です。今回は南行きを歩きます。 参考資料 「近鉄てくてくまっぷ 山の辺の道コース」。 ※ 写真をクリックすると拡大します |
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![]() ![]() ![]() ●桜井駅から始めました。午前中ポツポツ雨で午後から晴れてきた。桜井市内の歩道にはこのような●卑弥呼の絵タイルが張ってあり、曲がり角には●矢印の表示のあるタイルも張ってあるので、地図がいらないくらい。 |
![]() ![]() 大和川(初瀬川)に架かる馬井手橋を渡る。 ●仏教伝来地の碑 ここ一帯は「しきしまの大和」といわれる古代大和朝廷の中心地で、船運の終着地であった。仏像と経論を携えた百済聖明王の使者も上陸の第一歩をこの地にしるしたという事で、大和川河畔に「仏教伝来碑」がたっている。付近の河原は公園として整備されていた。 |
![]() ![]() 道からちょっと脇に入ったところにある。最近改築されたようで、普通の民家のような造りである。お堂とは思えなかった。中がよく見えない。十一面観音、聖観音で海石榴市観音という。平安時代に、京都から長谷観音詣でへの通り道であったので、観音を祭るお堂が建てられたと伝わる。前に休憩所、トイレがある。 |
![]() ![]() ![]() 一段高い所に●磯城県坐神社がある。磯城県主神社はこの地の有力な 豪族であった磯城県主(しきのあがたぬし)の氏神であろうと思われます。 |
![]() ![]() 聖徳太子が賊徒を平定するため581年三輪明神に祈願し、後十一面観音を納めて建立したのが始めと伝えられ、●太子の石像がある。鎌倉時代に平等寺と称した |
![]() ![]() 参道から北方へしばらく行くと狭井神社がある 。大神神社の摂社の一つで、三輪山に入山したいときには、狭井神社の受付に、初穂料(300円を納めると入山できる。 ●入山口 時間がないので上らなかったが、2時間程度かかるらしい。殺生禁止の山であるし、大物主神が蛇身なので蛇が多いという話だが・・・。 |
![]() ここも大神神社の摂社の一つで、大神神社同様に本殿はなく、拝殿もない。鳥居が独特の様式で、中央と左右に脇鳥居があるもので、三輪鳥居とか三つ鳥居とかいう珍しい形式。ここでしか見られない。 |
![]() ![]() 相撲神社の前を通り、奥へ行くと大兵主神社がある。三神殿にして、2000年前の創建にて、延喜式の名神大社に列せられ、元禄五年には正一位の位を賜った、大和一の古社であるそうである。祭神は兵主神社、大兵主神社、社殿は一間社、春日造りのものが3棟並んでいる。 |
![]() ![]() 向こうに見える一帯が大和の国の発祥の地といわれる。「国中」(くんなか)などと呼ぶ。左手先には日本最古の前方後円墳である箸墓がある。箸墓を卑弥呼の墓というような説もある。発掘でもすればなにか発見があるのだろうが、主な古墳は天皇陵に比定され宮内庁管理下にあり、ままならない。 |
![]() ![]() この辺り一帯の古墳群を「柳本古墳群」といい、中で も最大の古墳で全長が300mもある。4世紀の末頃に築かれた前方後円墳である。景行天皇の陵として宮内庁の管理下にあるが、 実際の所被葬者は不明であると思う。 ●陪塚 景行天皇陵のろ号陪塚 |
![]() ![]() 天理市立の施設での黒塚古墳など山の辺の道周辺の史跡を紹介。お茶も飲める。以前はこのような施設はなかったが、便利になってよい。 ●長岳寺 センターの隣にある。弘法大師が開いたといわれる真言宗の古寺である。案内図を見ると中が広く、疲れてきていたので、参拝するには気が重く門入っただけで失礼した。 |
![]() ![]() 環濠集落とは中世の大和では、外敵の侵入を防ぐため、周りに濠をめぐらし、橋を出入口に掛けていた集落のことで、竹ノ内地区が一番有名であったのだが、行ってみて濠らしきものがない。 一回りしてみたが以前来たとき濠があった記憶の場所が道路になっていた。もう無くなっているのかもしれない。 |
![]() ![]() 祭神は春日大社と同じ武甕槌、姫大神、経津主、天児屋根、素戔鳴など。その関係だからか本殿は春日造りで桧皮葺きのものが左右に6棟。拝殿が本殿とは雰囲気が違って、めずらしい茅葺きの神社様式の建物。鳥居も明治時期の春日若宮からのお下がりだそうです。 |
![]() ![]() 永久寺は鳥羽天皇の受戒の師である亮恵上人により、永久年間(1113-7)に創建したと伝える。本尊は阿弥陀如来で石上神社神宮寺として大伽藍を誇っていた寺とある。しかし、明治の廃仏毀釈によりすべてが破壊された。今は池が残るだけで池は釣り堀のように釣り人が糸を垂れるだけになってしまった。 |
![]() ![]() 山辺の道もそろそろ終わり近づく。ちょっとした坂を上がり下がりして、石山神宮へ到着する。山辺の道北行きもここから始まる。 式内社(名神大社)にして官幣大社。中世には二十二社の中七社のひとつとされた。神体は布都御魂大神で、神体である布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る。神武天皇が国を平定するさいに使った神剣と伝えられ、七支刀という 。、 |
![]() ![]() 山辺の道の歩き旅も石上神宮で終り、天理駅まで2kmほど歩く。 ここは天理教で成立する市で、ビルのようでありながら入母屋造・瓦葺という独特の形式の建物が並んでいる。 鳥居のような形の物は●南門という。巨大な建物は本殿ではなく天理教では●神殿と呼んでいる。 午後3時20分天理駅到着。5時25分の新幹線で京都から帰宅の途にについた。 |
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山辺の道北行 |