北国街道を歩く 8
          (新井駅~髙田駅)   
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 新井駅-中町-下町-石塚-大崎町-西田中-茶屋町-大和-髙田城下-南本町-本町-北国街道追分   12.10km
 

 新井宿
 
新井宿は北国街道と信州の飯山とを結ぶ飯山街道の交差する交通の要衝で、市場町兼宿場町として栄えた。町並は7町30間で南から上・中・下町に分かれる。中心は中町で問屋、本陣、高札場などがあった。隣の小出雲村も宿継ぎ機能があり、稼ぎの割合を巡って争論があった。

 2022年10月21日  ※ 写真をクリックすると拡大します
■新井延命地蔵堂~中町
 9時過ぎ、新井駅下車。●延命地蔵尊まで戻りました。"説明板 " 先に進むと●上町へ入ります。ここから新井宿でしょう。新井宿は上・中・下町で構成されていました。極楽川を渡ると●中町交差点。新井宿の中心でした。右手角のビルは庄屋跡になるのでしょうか。 9:22

 ■中町~下町
 そのまま直進すると、右手「いきいきプラザ」前に"「北国街道新井宿」案内板" がある。  右手奥に●市神社。 新井宿の六斎市の守り神。新井宿には6.10の日に市が立っていた。 向かいの玉屋旅館の角を左手に入る細い路地が「陣屋小路」で、ここをずっと入って行くと陣屋があったということだが、案内がなく、全くわからなかった。 街道に戻って少し先、右手の「北国街道」の看板が架かるあたりが●本陣跡でしょう。 少し先左手に●蔵造りの横山商店がある。 9:32

 ■下町~東本願寺新井別院
 ●下町へ入ります。 左手の風格有る建物は●「君の井酒造」。創業天保13年(1842)だそうだ。酒を飲まないので、いつもの如く、歴史を感じるだけ。すぐ先、左手に●東本願寺新井別院がある。入口に明治天皇行在所碑が立つ。 9:40 

 ★東本願寺新井別院
 江戸時代、東本願寺は「異安心事件」に敗北して、牟礼へ追放された願生寺跡に「新井道場」を設置して、周辺の末寺、門徒を支配した。元禄時代に「新井掛所、明治に「新井別院」に改称している。 境内に、親鸞聖人の妻「恵信尼」を祀った●「恵信尼公堂」。 新井出身の江戸時代末期の画家、●「森蘭斎」の墓などが有ります。(願生寺と異安心事件)   9:45

 ■新井別院~大崎町
 「石塚信号」で県道63号を越し、石塚に入ると、●石塚の一里塚跡があり、塚は両側ともなくなり、"標柱" だけが残るのみ。 その先、右手のダイセル化学工業の大きな工場の脇を過ぎて行く。工場が途切れるあたりで、バス通りに合流して、その左手に●康源寺がある。真宗大谷派の寺院で、山門は元禄8年(1695)の創建になり、八脚の鐘楼門になっている。
 右手、跨線橋に向かう二俣は左の細い方に入り、「大崎」に入ります。大崎は●「大崎の石屋」と言われるくらい、石屋さんが多い。矢代川の千草石(輝石安山岩)を利用して、村民の多くが石屋だったそうだ。 10:07

 ■大崎町~北新井駅
 大崎を抜けると左右●水田が広がり、視野が開けた。 ●栗原ニュータウンを通過します。豪雪の為、片流れ式で、中二階に玄関があり、一階は駐車場、倉庫になっているような住宅が多い。右手奥に●北新井駅が見える。付近には結構住宅が多いが、無人駅だった。 10:36

 ■北新井駅~西田中
その先、上新バイパスの下をくぐる。 左手奥に●山々が遠望出来る。一番奥から「長範山、黒姫、妙高山、火打山」と「ピークレンズアプリ」で確認した次第。 (ピークレンズデータ) 左に右にと曲がりながら●西田中集落に入りました
 10:55

 ■西田中~石沢
 右手に●諏訪神社がある。 このあたりだけではないと思うけど、●各住宅の庭にそれぞれの墓が設置してある。東京などは自分の庭に墓を造るのは禁止されているので、面白いと思った。遠方に墓参りしなくて済むね。 その先、「はねうまライン」の踏切を越え、県道579に接近、合流はせず、「←西田中」の矢印に従って、手前を看板に従い左へ折れていく。新幹線高架手前、右手に●越後出雲神社がある。"説明板" 出雲大社の分社として江戸時代後期に祀られ、大社参詣の案内をする御師の宿所もあったそうだ。  11:18

 ■石沢~茶屋町
 新幹線高架下に●「御小休根切松」碑と、「明治天皇石澤御小休所阯」、がある。かつて、根が街道に張り出す樹齢500年の松があったが、天皇巡行前に根を切ったという石碑も立つ。その為か、松も無くなっている。1度通るだけで切るかね。
 その先、●瀬渡橋を渡る。 "説明板" 正徳元年(1711)高田城主松平定重の時に板橋が完成するまで、徒渡りだった。渡って、「茶屋町信号」を右折し、●大和町へ入りました。左手は「上越妙高駅」。11:35

 ■茶屋町~大和
 少し行って、左へ曲がると●大和神社がある。ここは建武の新政で、信濃国村山郷から移り住んだ「村上氏」の館、「今泉城」の跡でもある。境内脇に●土塁跡が少し残ります。"説明板"  街道に戻って、願清寺の先の左手に、●弘法の清水跡というのがある。僧空海が旅の途中、大変水が悪くて人々が困っていることを見て、錫杖で土を掘ったところこんこんと清水がわき出たという伝説がある。この手の伝説はあちこちに残っていますね。 11:55

 ■大和~南本町1丁目
 その先、道なりに進むと「荒町信号」で県道579にぶつかり、右折する。すぐ右手に江戸時代大肝煎りだった水谷家の大きな屋敷がある。"「水谷家歓喜堂↑」"の案内があるが、屋敷内のようで行きづらい。県道を真っ直ぐ北上すると●髙田新田交差点へ到着した。左角に●大きな「南無妙法蓮華経」の題目塔、「史跡一里塚」碑、「史跡 伊勢町口番所跡」碑、などが立ち、番所があって、髙田城下入口にあたる。"説明板" 高田城下に入ると、旅人は馬から下り、くわえたばこは禁止されたという。真っ直ぐ進んで●伊勢町に入ります。 12:15

 髙田城下・髙田宿
 髙田宿は宿場町であると同時に、髙田城の城下町であった。春日山城、福島城(直江津)と変遷を経て、髙田へ慶長15年(1610)、徳川家康の6男、松平忠輝が60万石で入封し、城は慶長19年(1614)に完成。髙田藩の藩庁が置かれた。城下町としては、堀の外側は武家地で、西側に北国街道が通り、街道沿いに商人町が形成された。商人町のさらに西側には下級武士の武家地が南北方向に町割され、そのさらに西側には寺町が形成された。過去に3度の大地震、延宝4年の大火など、大災害に見舞われたが、再興してきている。現在の高田の町並みは長さが日本一の「雁木」が軒を連ね、独特の雰囲気を伝えている

 ■南本町1~南本町2丁目
 伊勢町から先、●雁木のある通りがずっと続く。冬季の通路を確保するために家屋の一部やひさしなどを延長したもので、総圓朝16kmに及び日本一だそうだ。 ただ、雁木は各個人が造っているので、高さがマチマチ。当然空き地には存在しない。昔風の木造の高さが一定のアーケードのような雁木をイメージしていたので、ちょっと想像と違いました。
 伊勢町の北側は出雲町。●南大橋を渡ってしまったが、このあたりの枡形に気がつかず、後で地図をじっくり見たら、「南本町1信号」を左折して、すぐ右折する所が枡形であろうことに気がついた。南大橋を渡ってはいけなかったです。 伊勢町と出雲町の間に枡形があるというのはここでしょう。 髙田は城下町らしくあちこちで直角に曲げられている箇所がある。「センター病院入口」信号の先は「南本町2丁目」で昔の「関町」。 右手奥に●神明宮がある。春日山に一社を創建したのが起源で、城下開設と共に移ってきた。。 12:25

 ■南本町2~南本町3丁目
 「南本町2」信号を左折、●「南本町3丁目」に入ります。相変わらずの雁木通りです。「青田川」を越えると「横春日町」、昔は馬市場で古い町並みが真っ直ぐ700m程続きます。●雁木の中を通ってみました。見通しは良いのだけど、床の高さがマチマチでけつまずき安かったです。左手に●飴屋の「髙橋孫左衛門商店」がある。創業は寛永元年(1624)で、「粟飴翁飴本舗」の看板が架かる。十返舎一九が滞在し、夏目漱石の「坊ちゃん」にも「乳母清の好物」として紹介された。。左に「十返舎一九ゆかりの地」碑が立つ。 12:38

 ■南本町3~本町1丁目
 すぐ先の信号を、左に入った●瑞泉寺の梵鐘は「時の鐘」といわれ、町年寄りの屋敷内にあって、明治9年まで昼夜12回金を鳴らした。その後、瑞泉寺へ移された。 ●「本町一丁目」交差点を右折、●本町通りに入ります。 現在の本町通りは北国街道の表町であり、昔は「堅春日町」といった。横春日町と同様馬市場があって、伝馬人足を勤めた。左手に春日神社があります。 12:50

 ■髙田城跡への寄道
 北に向かうと、本町2丁目、昔の府古町と続き、●札の辻へ至ります。高札場が設けられ、各地への里程の起点とした。善光寺へ16里、江戸板橋へ71里であった。出雲町から府古町までの4町で髙田宿の伝馬役を務めました。問屋は関町と府古町に各1軒あった。しかしこの4町では旅籠業は許可されず、この先、北側の下小町、呉服町、横町の旅籠を利用したという。ここで、この先北側へは向かわず、札の辻を右折して、「髙田城跡」を見に向うことにしました。 
 右に曲がり、すぐ左へ曲がると●旧師団長官官舎がある。明治43年、旧陸軍高田第13師団第3代師団長・"長岡外史中将"の邸宅として南城町3丁目に建てられたもを移築したもので、明治期の和洋折衷の木造建築物です。その先、左手に●平出修新婚の家というのがある。平出修は大逆事件で活躍した上越市ゆかりの弁護人で、歌人や小説家などでもあり、石川啄木や与謝野鉄幹、晶子とも親交があったという。 13:05

 ★髙田城跡
 「司令部通り」へ出て、右折。真っ直ぐ行き、「髙田城跡」である、「髙田城址公園」へ向かいます。公園手前、大手橋左手の●外堀跡。時期であれば左右の外堀は蓮で埋め尽くされる。 高田城は、慶長19年(1614)に、築かれ、徳川家康の六男である松平忠輝を城主となった。伊達政宗が、普請総裁として自ら陣頭指揮をとり、有力大名に普請が割り当てられた。その結果、わずか4か月足らずで完成された。高田城には、石垣や天守閣がなく。●三層の櫓(再建)を城のシンボルとした。明治以後は「旧陸軍第13師団の駐屯地司令部」が置かれ、大規模な土塁の撤去、堀の埋め立てが行なわれた。城の東半分は旧状をとどめず、西半分には堀、土塁の一部が残されており、公園として整備されている。本丸跡には●上越教育大付属中学校が配置されている。

 ■本町3~本町4丁目
  街道に戻り、「本町2丁目」あたりから再開。左角にあるのが●高田まちかど交流館で「旧第四銀行高田支店」の建物を使用している。昭和6年に「百三十九銀行本店」として建てられた、当時では珍しい鉄筋コンクリート造の建物です。すぐ先、右手の"「雁木通りプラザ"は町会所跡で、町年寄が町政をとった場所。●●本町3丁目から北への町並。雁木風な造りではあるが、こちらは商店街のアーケードの感じで高さが統一されている。高さも高い。 本町2丁目は昔は横町で21軒の旅籠があった。明治時代は遊郭町だったという。本町2、3丁目は呉服町で呉服商と旅籠が多かった。道幅が広がっているのは明治9年の大火以後のこと。 13:50

 ■本町4~北国街道追分
 「本町6丁目」を右に折れると、●五ノ辻稲荷神社がある。今井染物店 《地図》 江戸後期に建てられた商家。古い形式の雁木の上に部屋がある「造り込み式雁木」が残る。神社の前の通りは「下職人町」といい、神社の北に●今井染物店がある。  江戸後期に建てられた商家で、雁木の上に部屋が乗る「造り込み式雁木」という古い形式の雁木が残っている。普通に見る庇だけを前に出す雁木を「落とし式雁木」と称している。 街道に戻って北上するとついに●本町7丁目交差点へ到着した。 北国街道の終点にあたり、加賀に向かう「北陸街道」と、栢崎方面に向かう「奥州街道」との追分です。14:05

 ■北国街道追分~髙田駅
 右手は●栢崎、出雲崎へ向かう奥州道が延び、左手は●金沢へ向かう「北陸道」が延びます。一般的にはここから出雲崎までを北国街道と呼ぶこともあるが、厳密には軽井沢の追分から髙田のここまでを「北国街道」と呼びます。追分にあった "道
標"
 は少し北の宇賀魂神社に移設してある。 "説明板" 「右おゝ志う道 左かゝ道」。これで北国街道は終了です。
 ●髙田駅から「上越妙高駅」経由で新幹線で帰りました。 14:25

    07妙高高原-新井