北国街道を歩く 7
          (妙高高原~新井)   
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 妙高高原駅-毛祝坂-田切-二俣-坂口北-小野沢-関山-片貝-二本松-小出雲坂-新井   20.20km
 

 2022年10月10日  * 写真をクリックすると拡大します
■妙高高原駅~毛祝坂
 朝10時過ぎ、●妙高高原駅到着。県道を真っ直ぐ西へ向かい、●神明神社前あたりから、街道歩き再開します。前回妙高高原で挫折してしまったので、そのリベンジで、残り30km程。 ●毛祝坂三差路を右へ入ります。  10:35

 ■毛祝坂~白田切川
 ●毛祝坂(けわいざか)を下ります。髙田から関川関所へ向かう旅人にとって最後の上り坂で、身なりを整えて、化粧するから名付けられたという。 が、毛祝坂とは文字は違うし、関所まで上り坂はまだあるので、どういうことでしょうか?。  深沢川を「深沢橋」で渡ります。 その先、右手「妙高北小学校」の南西隅に●「旧跡 北国街道一里塚」の錆びた標柱が立つ。 国道へ出て白田切川を渡るわけだが、昔はつづら折りの小田切坂で川まで下りて、叉上がって行く難所というので、国道を一気に渡らず、左手に延びる●古い方の橋で渡り、昔を偲びます。 白田切川は妙高山の南地獄谷から流れて来るため、水は温泉成分で白濁している。 妙高高原には「田切」と称するV字型の深い浸食谷ができ、田切の川を越えるのに難儀したという。このあと、郷田切川、大田切川と連続して深い谷がある。 川を越えると田切宿です。10:50

 田切宿二俣宿
 妙高山の火山山麓を深く削る「田切」と呼ばれる浸食谷が幾筋も出来、「関山の嶮」と呼ばれる北国街道最大の難所だった。田切と二俣宿は郷田切川を挟んで1km離れているが。合宿で半月交替で継ぎ業務を勤めた。

 ■田切宿~田切古道入口
 白田切橋の下をくぐって、左に曲がる角の左手に "天明6年(1786)の馬頭観音と大きな聖徳太子像 "がある。 左に曲がる枡形をすぎると●田切宿に入ります。町並は新しく、道は宿場風な真っ直ぐというわけではない。 右手に問屋があるようだが、建物が新しく、案内もないのでよくわからない。「田切宿」の案内標柱が立っていました。 右手に●ハルニレの高い木があり、その下に嘉永6年(1853)銘の筆塚がある。  その先、郷田切川手前に、●「北国街道 田切古道入口」の標柱が立っていて、その先に入れるような空間が開いている。ここが旧道だと思って入ってみたが、ヤブで埋まっており、ヤブこぎをするまでもないと思って、戻って、素直に「郷田切橋」で渡りました。 渡ると二股宿です。 11:07

 ■二俣宿~
 ●二股宿の町並。ここも建物は新しく。地形のせいか、道はジグザグしている。 "「北国街道 二俣古道入口」 "の標柱が立って、旧道は●左手から上って来るようになっていました。 左手、空き地に「明治天皇二俣御小休所阯」と「畑山隆治先生之碑」が並んで、問屋を兼ねた●二俣宿脇本陣跡畑山家跡がありました。畑山隆治とはどんな人だか、よくわからないが、子孫に有名な方がいたのでしょうか。 11:15

    ~新国道18号
 左手に●西蓮寺がある。浄土真宗大谷派。何回も火災に見舞われ明治25年の再建になる。墓地の中に「墳墓」とのみ書かれたお墓があったが、こういう表現は見たことがない。 その先、●馬寄場跡という三角形の小さな池がある。馬洗場のことで、 昔は宿の馬をすべて洗えるほど大きかったという。 右に左にクネクネと行くと、左手に●「御館の乱無名戦士の墓」という14基の五輪塔群が並びます。上杉謙信は後継者を決めず急死したため、上杉景勝と上杉景虎の跡目争いが起きた。これを「御館の乱」と呼んでいる。この乱で戦死した者の墓をまとめたものだと思うが、「歴史の道調査報告書」では「御館の乱無名戦士の標柱が立つが、詳細は定かでない。」と云っている。 11:27

 ■新国道18~新旧妙高大橋下
 その先国道18号へ出て、大田切川を渡る訳ですが、前方に白い陸橋が架かる道は、「妙高大橋」の架替えの為に作られた新道で、●分岐を右に行く道が「旧妙高大橋」の架かる、旧国道18号になる。 本来はここを右手に進み、「旧妙高大橋」の手前で、右手へ折れ、「妙高大橋」の下をくぐることになります。まだ工事車両が何台も止まって、進むのに躊躇するところだが、橋の手前で右に曲がり、「新旧妙高大橋」の下をくぐって行くと、左手に●大田切清水というのがあります。新新潟県名水45の一つ。 清水の先で右手●新旧妙高大橋の下をくぐる旧国道を見てみる。 左が「旧妙高大橋」、通行止めになっています。右が「新妙高大橋」。 大田切川を越すには、以前は十三曲がりと云われた難所で、昭和7年に現在の旧国道ができて、廃道になった。 又その昔は50m程の谷をくだって、またよじ登って来るという街道随一の難所だった所です。清水の所でしばし休憩。12:00

 ■旧妙高大橋下~坂口北
 旧国道を道なりに曲がって、最後に左に曲がると●坂口新田という地区に入ります。大田切の安全の為に宿場の助成村として開発された村だが、ほぼ直線上に延びている。 入口辺りに「坂口新田一里塚跡」があると云われるが、影も形もない。明治9年に内務省から「有害無益ノ塚丘ハ総テ廃毀シ、最寄人民ヘ入札ヲ以テ払下候」という通達があったということで、塚は廃棄されたのでしょう。 左手の石垣の上に茅葺を赤いトタンで覆ったと思われる家は●北国街道坂口新田旧庄屋で、標柱には"「坂口新田」誕生の由来 "が書いてあります。 ●「坂口北」信号で、国道18号に合流します。 12:22

 ■坂口北~小野沢
 妙高山麓直売センターの先で●右の細い旧道に入ります。 最初は舗装路で、途中から草道に入り、また国道に合流します。この間、500mほど。よく旧街道の雰囲気が残されている所です。 国道の「小野沢」信号で左斜めに曲がり、小野沢地区へ進みます。道の真ん中に、融雪パイプがあって、融雪水の鉄分が酸化して道路が赤茶けている。こういう道路はこの先ずっと続いていました。 左手に●興善寺がある。屋根の形が珍しい。  12:40

 ■小野沢~泉地蔵
 興善寺の先は●急激に坂が落ち込み、途中、右手に●大日像の小祠がある。中に近辺にあった馬頭観音が6体集められている。「関山のいけ込み式石仏」の影響を受け、足を省略しているという。 横町地区に入り、道なりに、グーと円弧状に左に曲がりながら行くと、●T字路へ来て、正面に"泉地蔵 "という2体の地蔵が小祠に納まります。ここを右折すると「関山宿」です。12:53

 関山宿
 
妙高山信仰の中心となる関山三社権現の門前町として栄えた。街道を夾んで東側が髙田藩領、西側が関山権現社領と支配が異なり、宿役は髙田藩領が勤めて、関山権現領は宿役が免除されていたという特異な宿だった。明治の廃仏毀釈で別当寺の宝蔵院が廃されるなど大きな影響を受けた。 

 ★関山宿
 ●関山宿は直線状に600m続く。街道を夾んで東(右)側が髙田藩領、西(左)側が関山権現社領と異なる支配を受けていた。おまけに宿役は髙田藩領だけが勤め、関山社領は免除されていたにもかかわらず、塩運送などで駄賃稼ぎはしていたので、他宿から訴えられてたりしていたようです。 左手に●関山神社の赤い鳥居が立ち、参道が奥に続きます。●神社社殿。 妙高山信仰の中心で。、開山は裸形上人という。江戸時代は天台宗となり、「宝蔵院」が別当として支配した。神仏習合の色合いが残る神社で、境内に「仏足石」や多くの石仏、阿弥陀如来像を祀る「妙高堂」などが建っている。妙高堂の隣の覆屋に、"「関山石仏群」 "が安置されている。 「関山神社」  13:05

 ■関山~稲荷山
 左手に宝蔵院庭園跡があるが寄らなかった。宿を抜け●クネクネと先に進みます。 左手に●北沢一里塚がある。西塚だけが残っている。その先で国道を横切るが、国道手前に、「北沢の一本松」と称する上部だけに枝がある大木が聳えると云われているが、見当たらない。 切り株だけが右手に残っていて、伐採されたようだ。 国道を越えて「稲荷山」地区へ入ります。少し行くと、右側に見事な●杉の大木が一列に並んでいた所があった。 14:12

 ■稲荷山~片貝
 「福崎」に入ると、右手奥に●稲荷神社がある。 境内に"猿石 " と呼ばれる「稲荷神社庚申像」が小祠に祀られている。江口新田にあったが、ここに移された。豊作吉祥の神として、鎌倉初期に造られ、関山神社の亀石と共に大陸の風習が伝わったという説がある。 右手に「片貝小学校」が廃校になり、●「片貝縄文資料館」として開設されている。見たくもあったが、時間が取られそうでパスした。 右手、片貝集会所の前に●大きな筆塚がある。伊勢国津藩の槍指南役で浪人中であった公田権右衛門父子が寺子屋を開いて、詩歌を村民に教えた。その徳を称えた顕彰碑。嘉永三年(1850)建立。14:33

 ■片貝~松崎
 ●左右に曲がる下り坂を進み、片貝川を渡る。 左手に●「馬洗場の大石」というのがある。自然石を棚状に削って、馬頭観音を3体安置する。特に案内などはなく、はっきりしないが、木曽義仲の太刀割の大石という説もあるようだ。 その先、右手に"「北国街道二本木宿と松崎宿」という "大きな案内板がある。横に「北国街道 此れより松崎宿」の標柱もある。
ここから先、松崎宿に入ります。14:53

 松崎・二本松宿
 
松崎と二本松宿は片貝川の河岸段丘上の狭い丘陵地に位置する。両宿とは距離が2km程だが、実際は町続きの一つの宿場で、半月交替で宿役を勤める合宿であった。本陣は設けられず、安楽寺が代わりを勤めた。

 ★松崎・二本松宿
 左手に"若宮社 "。 街道は神社前で大きく左へ曲がっている。●松崎宿入口の枡形に相当するという。 「はねうまライン」踏切を越えた●松崎宿の家並み。  二本木宿と連続した合宿で、問屋業務は半月交代で行った。 続いて、●「二本木本村上」バス停付近。二本木宿です。いつのまにか二本木に入って来て、境に気がつかなかった。 15:05

  右手に●安楽寺。 松崎宿と二本木宿には本陣がなく、この寺が本陣役を担い、加賀藩の休息所になっていた。 その先、左手に「明治天皇二本木小休所跡」が建っているのだが、 どういうわけかピンボケしてしまったので、"グーグルアースの写真 "を借ります。明治天皇は安楽寺ではなく、ここで休んで碑が立っています。 右隣は●白山神社。 ここで面白いのは境内に立つ●白山神社の石柱(もとは130mほど北側の街道脇に立っていた)で、案内板によると「従是内 口附無之 小荷駄乗通るべからず 邑の内 咥きせる無用 二本木宿」(この二本木宿に入ったら綱を放すな。馬に荷物をつけて通る者は、馬に乗って通行してはいけない。村内はくわえ煙草で歩いてはいけない」 という注意書きが彫ってあり、宿内の防火対策を講じてある。二本木宿は大体ここまで。  15:13

 ■二本松宿~藤沢上
 その先、街道は片貝川の河岸段丘の縁をを通る様で、右側が崖になっていて、●右下に棚田がひろがります。 右手に小学校を見ながら、ゆったりとした坂を下って行く。 線路を越えると、左手奥に●二本木駅。 松崎、二本木宿とは離れて設置された。急勾配のため、スイッチバック式の駅で、駅から一度バックして、それから前進するという経験は、前回上越妙高のホテルに泊まりに行った際、体験できた。●駅前を通過。 15:32

 ■藤沢上~小出雲坂
 「藤沢地区」に入り、藤沢は片貝川沿いにあった集落が、街道整備と共に現在地へ移されたという。やがて●藤沢一里塚が見えてくる。東塚だけが残り、西側の塚は戦後の食糧増産のため、崩されて消滅した。 その先●左折して「板橋新田」へ入ります。新井宿と二本木宿の中間にあたり、立て場茶屋や7軒の馬屋が置かれた。 緩やかな上り坂を上がって行くと、左手に●神明神社がある。 その先 "小祠に入った馬頭観音 "がある。一見道祖神かと思ったが、頭上に青く塗られた馬頭が乗っている。 坂を上りきると、"小出雲坂と松並木 "という看板が立っていて、「かしわもちや」の屋号をもつ立場茶屋があったという。屋号の看板が子孫の家に残されていると云われ、頂上付近に新しい家が2、3軒建っているのでその内の1軒かと思います。 16:10

 ■小出雲坂~飯山街道追分
 ●小出雲坂を下ります。昔は急坂の松並木で、映画のロケ地にもなっていたという。 その先の五叉路は真っ直ぐ進みます。 右手に●賀茂神社がある。 裏手は「経塚山公園」があり、ここからは高田平野が一望でき、上越地方では高田城に次ぐ桜の名所になっているという。 更に進んだ●「小出雲交差点」が飯山街道との追分で、右角に"折れて繋いである飯山道標 "が立っている。「左 飯山道」、「右 善光寺道」と刻み、先の賀茂神社に折れて横たわっていたのを、元に位置に戻された。16:35

 ■飯山街道追分~新井宿
  渋江川に架かる辻屋橋を渡ります。ここまでが旧小出雲本村といい、その先は現在●「田町」で元は小出雲新田村として形成された。宿場的機能がを持っており、新井宿と馬借稼ぎの争いがあったといいます。左手に●商屋風な建物が一軒。その先、上町の境に位置する●上町延命地蔵尊。 この先「新井宿」に入ります。 ここで今回は終わりにして、県道を真っ直ぐ進み右に折れ、「新井駅」から電車に乗り、上越妙高駅前の「アパホテル」に泊まりました。  14:40

       06牟礼-妙高高原   08新井-髙田